第3話
2学期が終わりを告げる、終業式間際。
校舎内の大掃除が始まり、私は体育館裏にある、ずっと昔に使用を放棄されたらしい旧倉庫とその周辺の清掃にあたっていた。
その倉庫が放置された年月は相当のもので、元の形がわからなくなる位に物は朽ちて、今や謎の木屑ばかりが隅の方に散乱している有様。そして木屑自体もまあまあ大きめのものばかりで、惨状を見かねて先生が用務員のおじさんに許可を貰い、焼却炉を使わせてもらう事になった。
班の中での私の役目は、木屑その他もろもろの可燃ごみ運搬係で、ゴミが荷台一杯になる度焼却炉に向かわなければならない。手間と体力がいるが、薄暗い空間で埃まみれになるよりは気分は楽だった。外の冷気に身震いしながら、かじかむ指先でグリップを握りしめる。
とことこと数十メートルを行き来し、用務員のおじさんに荷台のごみを引き継ぐ。
そんな単純な作業を何度も繰り返し、掃除も終盤にさしかかった時の事。
「あ、あれ」
焼却炉に用務員さんの姿がない。もしかしてトイレにでも行ったのか。
思わず、荷台一杯となった木屑の山と焼却炉のどす黒い扉を交互に見やる。煙突から排出される黒煙。熱気もさることながら、炭が付きそうで近寄りがたい。自分でごみを廃棄する、という選択肢を捨てて何とはなしに周囲を見る。
焼却炉横には、トタン屋根と木組みの支柱でできた廃品置き場がある。瓶や陶器、果てにはガラス物が雑に置かれ、また、文化部が排出したごみだろうか、中には木の枠組み等といった大物が残っている。
「あ」
その中に、真っ赤な色の扉が見えた。
木枠付きの、窓も何の彫刻も装飾もない不愛想なドアの壁。それが、置物のようにそこに鎮座している。
赤い扉。ああ。
ふと、紀子が言っていた「木製の赤い扉」を思い出した。
紀子が見ていたのは、これのことだったのだろうか。でも、あれ、と首を傾げる。
大掃除の間中、私は何度もここに木屑を運搬してきた。なのに、その時はこんな扉が目に入らなかった。
まるで、今このタイミングでふっと現れたかのような。
「……」
単に私が気付かなかっただけだろうか?
こんなに目立つ特徴をしているというのに?
素朴な疑問が浮き上がるのと同時、薄気味の悪い想像をしてしまい背筋にうすら寒いものが走った。
この扉に意思があり、その姿を意図的に人の目から隠したりすることができたとする。だとしたら、どうして私が一人だけのこのタイミングで自らの姿を現したのか。
馬鹿げているし、ありえない。幼い子供のような空想。
しかし、私の中にある、直感のような何かが、いつの間にかこいつを無機物ではなく「生き物」として認識し警鐘を鳴らしている。
一体何故?
いなくなる前、紀子があんな話をしたから?
紀子がいなくなった事とは関係のないはずなのに、ふと繋がりを感じてしまうのは。
どくん。と胸が鳴った。外の気温に関わらず、気付けばじっとりとした汗をかいている。
これは、近付いてはいけないものだ。
理屈や理由は自分でもわからない。ただ、これは人間の理で推し量れるものではない、ということは何とはなしにわかった。これは、そうやって気になった人間をおびき寄せている。
おびき寄せられた人間は、紀子みたいに消えてしまう。
私は一輪車のグリップを握り直し、踵を返そうとした。
その時だった。
「そこに、誰かいるの?」
声が聞こえた。
聞き覚えのある声。
男子より高く、女子より低めで、思わず「紀子?」と周囲を見渡した。
焼却炉と雑然と放置された焼却ごみの数々。そして「木製の赤い扉」。それらの視界の中に動く人影は無い。
気のせいだったのか。
扉のせいだ。心細くなって、紀子の幻聴が聞こえたに違いない。
「その声は、
ところが、また、聞こえた。
しかもその声は私の名前を言い当てた。
これは、幻聴なんかではない。間違いなく紀子の声だ。でも、その声の出所が咄嗟に掴めない。そんな訳がないのに、耳ではなく脳に直接響いてくるような感じで「紀子? どこ? どこにいるの」視線を右往左往させながら、その姿を探す。
「わからないの。暗くて、寒い。でも」
紀子は一拍の間を置いて「目の前に、ノブ? みたいなものがある」と続けた。
「ノブ? それって」
「ドアノブみたいな。でも、捻ってみても動かなくて」
がちゃがちゃ。と音がした。
その光景を見て、私は絶句する。
「扉が開かないの。外の明かりが隙間から漏れているんだけれど」
無意識にグリップから手を離してしまっていたらしい。一輪車が横転し、荷台の木屑が足元に散乱した。でも、そんなことはどうでもいい。
あの「木製の赤い扉」のドアノブがひとりでに回っている。
がちゃがちゃと。まるで、誰かが裏側からドアノブを回しているかのようにして。
「嘘、でしょ」
「ねえ、優華。助けてよ。扉の向こうにいるんでしょ。そっち側からなら開くかも」
「どういう事よ」
おそるおそる、「木製の赤い扉」に近付く。だけれどまだ完全に信用した訳ではない。遠巻きに扉の裏側を確認するだけだ。悪ふざけの主がそこに潜んでいて、ノブをがちゃがちゃしているだけかもしれない。
しかし、
「……ど、どうなって」
薄暗い影がそこにあるのみで、扉の裏側には誰もいない。さらに言えば、反対側にはドアノブらしきものは取り付けられていなかった。相変わらず「早く開けてってば! 優華!」と「外側」に通じる面のドアノブのみがひとりでにガチャガチャ動いていて、理解しがたい現象が今なお続いている。
「優華ぁ! 早く出してよぉ」
ばん! という激しい音と共に扉が微動した。
ふと、この扉はこことは全く別の、異なる空間と繋がっている、と直感でわかった。
これはまさしく「どこでもドア」そのものではないか。しかし、どういう訳かこの扉は施錠がされていて、向こう側にいる紀子は外に出られない。
「助けてよぉ。どうして開けてくれないのよぉ」
限界が来たのか、紀子は鼻声になっている。
当然、すぐにでも扉を開けてあげたい。友達として彼女を助けてあげたい。
でも、まだ頭のどこかで、駄目だ、と自分を止める声がする。何かがおかしい、と。
「待って、紀子。落ち着いて。どうしてそんなところにいるの」
一週間。
紀子がいなくなってから今までに至る間、彼女はどこにいたのか。
飲まず食わずで、そんなところにずっといたのか。
本当に、声の主は紀子なのか。
気になることは山ほどある。私をおびき寄せるために扉が仕向けた「罠」のようにも感じるが「そんなことはどうだっていいでしょ! 早く開けて!」とうとう声がすすり泣きに変わった。
「わかった! わかったから、他の子や先生を呼んでくるから!」
言ったものの、見渡す限り誰もいない。携帯も教室の鞄の中に置いてきたので、一旦校舎の中に戻らなければならなかった。でも、そうした方が確実に紀子を助けられる。私一人でいるよりその方が安全に思えた。だが、
「待って! いかないで! 今私を一人にしないで!」
「でも」
「――早く、家に帰りたいの」
「家に」
その言葉が、チク、と胸を刺した。
そうだ。紀子は何か事情があってここに閉じ込められたんだ。一週間もの間、訳の分からない空間に閉じ込められ、助けも来ずに、一人ぼっちで。
「お願い。行かないで」
「……」
ざり。
息を飲んで、扉に近付く。
「家に、帰りたいだけなの」
すんすん、と、泣き声が聞こえた。
扉までわずか2メートルちょっと。近付けば近づくほど、表面の真っ赤な光沢が目につく。ぬるぬるとした質感のようで、ふと連想したのは、蛇のような爬虫類の表皮。
二つに割れた舌をちらつかせながら、それは獲物が向こうから来るのを待っている。
「まさか」
私は、まんまと引っかかった?
いや。違う。一番辛いのは紀子のはずだ。今彼女を助けられるのは私しか――。
「待って」
ドアノブに伸ばしかけた手は、不意に誰かから掴まれた。
「へっ?」
健康的な黄色味のある手。真冬なのに、暖かい掌。
視線を扉から横に移し、久方振りに彼女の顔を見た。しかしその顔つきは険しく、無言のまま首を横に振っている。
扉に触れてはいけないと、言っているようで。
どうして扉の奥にいるはずの彼女が、ここに。
「早ク、開けテ」
バン! と向こう側の何かが扉にぶつかる音がした。
意識を扉に戻し、咄嗟に手を引っ込める。
バネのように身体が後退り、その拍子にバランスを崩して地面に尻餅をついた。
ぶわっと、汗が噴き出る。もう、そこに紀子の姿は無い。幻覚だったかのように消え失せていて、でも、まだ腕に掌の温もりが残っている。
じゃあ、これは。
この扉の奥にいるのは、一体。
「どうして、扉かラ離れるの?」
バン!
扉が鳴った。
がちゃがちゃがちゃ!
ドアノブがひとりでに回る。
「っ」
喉の奥で空気が詰まって、叫べなかった。
もし、さっきドアノブをつかんでいたら、と、慄きに涙腺が緩む。
「私ヲ助けてくれるんじゃナかったの?」
それは、もう紀子の声ではなかった。
紀子の声を模した、「何か」だ。
「開けて開けて開けテ開ケてあケて開けてアけて開けテ開けて開けテ開ケて開ケて開けて開けてアけてアケて開けて開けて開ケて開けて開けてアけて開けて開けテ開けて開けて」
それは、仕留め損ねた獲物に対する怨嗟に思えた。
ここから逃げなければ、と立ち上がろうにも腰が砕けて動けない。
後ろからはドアノブを回す音と扉を叩く音がひっきりなしに聞こえ、恐怖と焦燥が頂点に達する。
もし扉から「何か」が飛び出して来たら。
扉の奥に連れていかれたら。
「ひっ」
パニックのせいか息ができなくなり、それから視界が暗転した。
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