四 章

 目の前に白い球体が現れた。光が消えて人の影らしきものが残った。その影を見て、俺はおぞましい記憶がよみがえった。長い髪、まっすぐに見通す瞳、機敏な身のこなし、鋭利えいりなナイフ。

朝倉あさくらか!」

忘れもしない、二度も殺されかけたあいつだ。俺はとっさに身構え、手近にあった竹ぼうきを持ち上げてそいつに振りかぶった。

「待って」長門ながとが俺を制した。「……これは、朝倉あさくら涼子りょうこではない」

「えっ」

俺は振り下ろしかけたほうきを頭の上で止めた。見下ろすと、そいつは自分の頭を守って縮こまっておびえていた。こいつは、朝倉あさくらじゃない。なおも警戒する俺に向かって、そいつはゆっくりと顔を上げた。

「や、やめて……。それを降ろして」

「お前は誰だ」

俺はほうきを地面に降ろした。そいつは俺をじっと見つめ、危険がないことを知ってやっと立ち上がった。

「わたしは情報生命体じょうほうせいめいたいβ-022」

朝倉あさくらとは別人か。どう見ても朝倉あさくらと同じ姿なんだが」

「そっちのわたしは朝倉あさくらっていう名前なの?じゃあ、そう呼んでいいわ」

「β-022ってことは、お前は複数いるのか」

「わたしの世界では情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいはある個人から別の個人が派生はせいするのよ。だからこういう名前なの」

つまり、コピーか。

「失敬ね。あなただってコピーでしょうに」

朝倉あさくらはムッとしたように言った。まあ、言われてみればそうだ。

「……あなたの目的はなに」

「αがこっちに来たでしょう?」

「……襲撃を受けた」

「ごめんね。彼女、あせってるの」

「……なにがあった」

見る限り、この朝倉あさくらに敵意はなさそうだ。こっちにはヒューマノイドインターフェイスの二人と、それにハルヒもいるんで手は出さないだろう。

「立ち話もなんだ、とにかく中に入れ」

俺は朝倉あさくらを屋敷の中に招いた。なにかあった場合、長門ながと喜緑きみどりさんが作った結界けっかいの中のほうが有利だ。


 自分ちでもないのに勝手に客を呼び込んだりして、俺はまたおばあちゃんに謝らなくてはならない。

「おばあちゃん、たびたび申し訳ないんですが、また友達が増えてしまいました」

「あれあれ、ベータちゃんかい。よく来たね」

「え、おばあちゃん知り合いなんですか」

ヒューマノイドに知り合いがいるなんて、どういう知己ちきなんですか。

「前にね、あなたたちを探して訪ねてきたの」

「まあおあがりよっ。最近はいろんなお客様が見えて、あたしゃ嬉しいさ」

 お茶を出してくれるというので、座敷に案内しようとしたところにハルヒと出くわした。ハルヒはそこにいるはずのないやつの姿を見てギョッとしたようだった。

「ええと、ハルヒ、紹介する。朝倉あさくらだ」

朝倉あさくらはなにか懐かしむようにハルヒを見た。

「あれ、朝倉あさくら?あんた、こっちの世界に来てたの?カナダに行ったとばかり思ってたわ」

「あの……わたしはあなたの知ってる朝倉あさくらさんとは違うの」

「ハルヒ、こいつは見た目は朝倉あさくらだけど、別の朝倉あさくらなんだ」

「ふーん。なんだか分からないけど。他人の空似そらににしては似すぎね」

「双子のようなものだと思ってくれたらいいわ」

朝倉あさくらは苦笑した。


 谷川たにがわ氏は新たに増えた朝倉あさくらを見て笑った。

「あれれ、朝倉あさくらさんじゃないか。まるでオールスターだね。あといないのは誰?」

ええっと、俺の妹と谷口たにぐち国木田くにきだくらいですかね。あいつらはどうでもいいですが。

「この朝倉あさくら、俺たちの朝倉あさくらではなくて別世界から来てるらしいんです」

「なんてことだ。もうひとりの有希ゆきちゃんと同じ異世界かい」

「詳しくはこれから朝倉あさくらに尋ねるところなんですが、ハルヒには聞かせないほうがいいかと」

文庫のことも、情報生命体じょうほうせいめいたいαに襲われたこともハルヒには話していない。どう説明すればいいのか、そもそも説明するべきかも分からない。俺たちがまだ正確なところを把握していないというのもある。なのでハルヒには、この朝倉あさくらの話は聞かせるべきじゃないと判断した。

「分かった。なんとかするよ」

すべてを説明しなくても事情を理解してくれるところは頼もしい。谷川たにがわ氏はおばあちゃんになにごとか耳打ちしていた。おばあちゃんは割烹着かっぽうぎを脱ぎながら言った。

「ハルヒちゃん、これからケーキを受け取りに行くんだけど、ついてくるかい?」

「もっちろん行くわ」

ハルヒが口を半月のように開いて言った。ケーキで釣れるなんて安いもんだな。

「ナガル、車を貸しておくれ」

おばあちゃんは谷川たにがわ氏からキーを受け取った。それを聞いて、運転なんかして大丈夫ですか、とでもいうように全員がおばあちゃんを見た。おばあちゃんは腕まくりして親指を立てた。

「あたしゃこれでも国際A級持ちさっ。近頃じゃクラッチのない、へなちょこ車ばっかりだけどね」

知らなかった。もしかして合気道あいきどうなんかもやってませんか。


 ハルヒ以外の全員が揃ったところで、朝倉あさくらに尋ねた。

「αってのは何者なんだ」

「わたしたちの世界の創始者、と言うべきかしら」

 数億年前、αは次元断層じげんだんそうを越えて別の次元に出た。いや、流れ着いたというべきだろうか。まだ若い銀河で、そこには情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいも人類も、およそ知的生命体と呼べるものは存在しなかった。αは自分の情報をコピーし、自らを頂点とする情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいの組織を作った。

「でもわたしたちには致命的な欠陥けっかんがあったの」

欠陥けっかん?」

「非ヘテロ的発生は多様性がないのね。ひとつの要因ですべてが崩壊しかねないわけ」

つまり、分かりやすく教えてくれ。

「同じコピーを繰り返しているだけでは、同じ病気にかかって全滅しかねないということですね」

古泉こいずみが解説した。

「そう。それで、αは経験値から構成情報を書き換える仕組みを作った」

「……それは、自律再構成じりつさいこうせいのこと」

「そうよ。でも、統計的に一定範囲のものしか生まれないという欠陥けっかん回避かいひできなかったのね」

島国で育った民族の血が濃くなるってやつと同じだな。

「まさかそれだけの理由で俺たちを侵略しようとしてるわけじゃあるまい」

「まだ先があるのよ」

 あるとき銀河の片隅で、地球型惑星に知的生命体の因子いんしが芽生えた。二足歩行し道具を使うようになった人間である。αたちはその星を観察し、文明が発生するきっかけを作った。約十万年で現在の水準に達した。

「わたしたちの地球環境のことね。わたしたちは知的生命体そのものを作ることはできない。でも発生の確率を計算することはできるわ」

「僕たちの世界では百十万年もかけたのに、十万年で作ったとおっしゃるんですか」

それが短いのか長いのかは俺には分からんが。

「αはいつだってせっかちなのよ。十分に成熟する時間を待てないのね」


 人類の文化や技術は、思念体の意図もあって急速に成長を遂げた。そして誰も予想していない事態が起こった。突然変移とつぜんへんいのごとく妙な力を持った子供が生まれた。涼宮すずみやハルヒである。

「最初は危険因子いんしと見なされたわ。手に負えなくなる前に処分してしまおうという意見もあったんだけど、思念体の一部が止めたの。もしかしたら、わたしたちの進化を次の段階に進めるヒントがあるんじゃないかって」

そのへんはうちらと同じよね、という感じで長門ながと喜緑きみどりさんは顔を見合わせた。

「わたしたちは涼宮すずみやさんの能力を伸ばす方向で介入かいにゅうしたの」

 涼宮すずみやハルヒが十三歳になったとき、自分を取り巻く事実に気がついた。自分は誰かに観察されている、人生をコントロールされている、ということを自覚したのだ。なぜそれがバレたのかは分からない。そして宇宙に向かってメッセージを発信した。東中グラウンドに描いた、あの絵文字である。ただし“わたしは、ここにいる”ではなく“ここにいるから来い”だったらしいが。

「わたしが地球上で涼宮すずみやさんの保全を任されていたんだけど。それからというものはもう、なだめたりすかしたりの連続だったわ」

その苦労は分かる。俺と長門ながと古泉こいずみ朝比奈あさひなさんの四人はウンウンとうなずいた。どこの世界にいってもハルヒは世話を焼かせるんだ。

「そっちの世界でも苦労したんだな」

「わたしたちは涼宮すずみやさんに手取り足取り世話を焼きすぎたのね。今考えれば、自然発生した彼女の能力なんだから、自然の淘汰とうたに任せればよかったのよ」

次の朝倉あさくらの言葉は、意外なひと言だった。

涼宮すずみやさんには願望を実現する能力がある。でも、同時にバランスを取る能力も備わっている」

古泉こいずみがなるほどと感嘆かんたんの声を上げた。

「僕たちにはその考え方はありませんでした。貴重なご意見です」

「結果論だけどね」

「そっちのハルヒはどうしているんだ。元気なのか」

「今は存在しないわ……」

全員が驚いて朝倉あさくらを見た。朝倉あさくらはうつむいた。

「あれは連鎖れんさだったの。キョン君が消えて、涼宮すずみやさんが暴走した」

「暴走って、なにがあったんだ」

朝倉あさくらは少し黙り、ひと呼吸置いて口を開いた。

涼宮すずみやさんが自分の記憶からジョンスミスの名前を消したの。最初から存在しなかった、と」

「それだけでか」

「そこから連鎖れんさがはじまったの」

歴史に矛盾が生じ、致命的な次元断層じげんだんそうが起こった。その結果、俺が消えてしまうことに。断層のため、過去に戻ってフォローすることもできなかった。俺が消失したことでハルヒは自分の能力に気がついた。暴走したハルヒは自らの存在を消した。

「なにが間違っていたのか分からない。わたしたちは介入かいにゅうすべきではなかったのかもしれない。今となってはどうにもならないわ」

「あの、ジョンスミスって誰なんですか」

古泉こいずみが口を挟んだ。こいつは知らされていないんだった。朝比奈あさひなさんの頭のまわりにも疑問符が回っているようだ。あのとき気絶していた朝比奈あさひなさん(小)はたぶんまだ知らない。おそらく長門ながとは知っているだろう。どう言ったものか俺が答えあぐねていると、谷川たにがわ氏が口を開いた。

「ジョンスミスってのは、まあ、言ってみればハルにゃんの白馬の王子様だね」

「ロマンチックですね」

そうだったんですか。ってどうでもいいだろそんなこと。

 超能力者の能力も消えてしまったために神人のエネルギーが臨界点りんかいてんに達し、閉鎖空間へいさくうかんが現実世界を覆い尽くしてしまった。そして現在、αの力だけで銀河の消滅を食い止めている。

「その力がなかったら、数分で銀河は消滅するわ」


 全員が押し黙った。向こうの世界ではハルヒどころか人類すら存在しない。消えちまったんだ。ハルヒが自分のいない世界を作っちまった。それを維持するやつを残さなかったために世界そのものが存続できないという矛盾をも生み出したのだ。そして今や銀河そのものが消えようとしている。

「……それが、わたしたちを侵略しようとする理由か」

長門ながとが話を元に戻した。重要なテーマはむしろそっちだった。

「そうなの。直接あなたたちの世界に接触しようと試みたんだけど、やたらガードが固くってね」

文庫本も時空震じくうしんもこいつらの仕業しわざだったんだな。

「でもわたしは、無意味な戦いは避けるべきだと思うのね」

「……」

穏便おんびんに交渉する余地はあると思うの。結果的に上書き支配するとしてもね」

この朝倉あさくらが恐ろしいことを平気で口にする様子を見ていると、案外俺たちの知る朝倉あさくらと変わらないのかもしれない。

「そろそろ帰らなきゃいけないわ」

 言うだけ言うと、朝倉あさくらは腰を上げた。てっきりここに泊まると思っていたのだが、こいつには自分の居場所があるようだ。

「それから、ここに来たのはわたしの独断専行どくだんせんこうだから。もし彼女の逆鱗げきりんに触れたら消されちゃうかもね。そのときはごめんね」

名前にある022という数字の意味は、そこにあるのかもしれない。長門ながとはなにを思ったのか朝倉あさくらに近寄り、右手を差し出した。

「……手を、出して」

「わたしのバックアップを取るつもり?そんなことをして何になるというの?」

「……分からない。でも、ほかに方法を思いつかない」

「いいわ」

朝倉あさくらは承知して左手を出した。二人の手はほんの一瞬触れただけだった。

「……無事を祈る」

「ありがとう」

こいつは、俺たちの朝倉あさくら長門ながとに消されたという過去を知っているのだろうか。あるいは長門ながとのその記憶が、朝倉あさくらの保存をうながしたのだろうか。

 朝倉あさくらは庭に下りてこっちを見た。かるく手を振って「じゃあね」とだけ言った。朝倉あさくらの体を包むように白い球体が生まれ、やがて消えた。詠唱えいしょうはなかった。


 明かされた事実に誰も口を開かない。どうコメントしていいのかすら分からない。古泉こいずみが沈黙を破った。

「……これは恐るべき事態ですね。僕たちの世界でも十分起こりえることです」

「けど、俺たちのハルヒは自分の能力を知っても暴走していないぜ」

サンタを呼び寄せたのが暴走っていうんなら、今までのハルヒは台風とハリケーンとサイクロンを合体させたくらいの嵐だ。

「重要なのはあなたの立場です。あなたがいなくなってしまったら誰も涼宮すずみやさんを止めることはできないでしょう」

「俺はハルヒのストッパーなのかよ」

「そうです」

あっさりと返ってきた答えに俺は頭を抱えた。やっと分かった、前から謎だった俺の存在意義はそれだったのか。

「落ち着いてくださいキョン君。わたしたちの世界は谷川たにがわさんが作っているわけですから、彼次第ということになりますわ」

喜緑きみどりさんがニコニコして谷川たにがわ氏を見た。彼女の目は、面白半分に変なこと書いたらタダじゃおきませんからね、と言っているようだった。谷川たにがわ氏は疲れたように肩を落とし、ひとことだけつぶやいた。

「モノを書くってのは、因果いんがな商売だね……」




 朝倉あさくらは現状を伝えただけで、なんの解決の糸口も残さなかった。正直なところ、だからどうしろっての、というのが俺たちの気持ちだった。

 朝比奈あさひなさんがお茶のおかわり注いでくれた。しばらく黙ってお茶をすすった。

「……彼女と話してくる」

ずっと考え込んでいた長門ながとがぼそりと言った。

「向こうの世界に行くのか」

「……朝倉あさくら涼子りょうこから位相いそう情報を読んだ」

さっきバックアップを取るとか言ってたのは、本当はそれが目的だったのか。それも戦略か。

「行ってなにをするんだ」

「……元々αはわたしたちの世界にいた。戻るよう話してみる」

「そう簡単にいくだろうか」

「その気があったなら、向こうから話を持ちかけてくるでしょう」喜緑きみどりさんが言った。

確かに、いきなり襲ってくるあたりは、もう最初から話し合う余地などないことを見せているようなもんだ。

「……わたしには、彼女の考え方が分かる」

「あいつはお前の姉だったな」

「……そう。論理構造は似ている」

もし話し合いで解決できるならそれに越したことはないが。古泉こいずみが不安な表情をした。

長門ながとさんとはだいぶ考え方が異なるように見受けられますが」

「……それは、性格の違い。わたしの頼みなら、聞くかもしれない」

結局俺たちがあれこれ考えるより、長門ながと喜緑きみどりさんで最善の方法を取ってもらうのがいいというのが、人間どもの一致した意見だった。だが長門ながとはけして事態を楽観視らっかんししているわけではなかった。

「……もしものときは全員、元の世界に戻って。情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいは防衛体制を整える必要がある」

「分かりましたわ」

長門ながとはポケットからジャラジャラとビー玉を取り出した。ビー玉ではなくて素粒子球そりゅうしきゅうだっけ。

「……三人にひとつずつ渡す。緊急時にはこれを潰して向こうに戻って」

長門ながとは俺と古泉こいずみ朝比奈あさひなさんに渡した。

長門ながと、無理すんなよ。こじれそうになったら深追いしないで帰って来い」

「……分かった」


 外はそろそろ陽が傾いてきていた。長門ながとは靴をいて庭に下り、喜緑きみどりさんに向かって言った。

「……三分以内に戻ってこなければ、わたしたちの世界へ退避たいひ。彼らの脅威きょうい情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいに警告して」

「分かりましたわ」

「……あとを、頼む」

喜緑きみどりさんはうなずいた。長門ながとが右手を上げて詠唱えいしょうし、白い球体に包まれ、そのまま上空へ浮かんだ。光が八方に散ったかと思うと、そこには影も形も残っていなかった。


 俺は庭のベンチに腰掛け、じっと時計を見た。全員が庭の、長門ながとが消えたあたりを見つめていた。この三分間は俺の人生で最も長い時間な気がする。仮に三分が過ぎても、もう五分だけ待ってくれと俺はごねるだろう。その五分に何の意味もないことは分かっているのだが。

 二分が経過した。何も起きない。三分まで残り十五秒のところで喜緑きみどりさんが言った。

「来ましたわ。キョン君、下がって」

俺が立ち上がって三歩下がると、庭の上空に二度稲妻いなずまが走った。ちょうど池の真上だ。一瞬だけ白い球体が現れ、人の影が見えた。そこにいるのは一人ではないようだ。球体が消えるとそのまま池に落ち、水の中に足を突っ込んだ。一人が立ち、もうひとりを両手で抱えている。立っているのは朝倉あさくらと、抱えられているのは長門ながとだった。長門ながとは血にまみれ、片目をハンカチでおさえていた。

朝倉あさくら長門ながとになにをした、なにがあったんだ」俺は思わず叫んだ。

「キョン君、落ち着いて。とにかく手当てを」

喜緑きみどりさんが俺を抑えた。朝倉あさくら長門ながとを抱えたまま、ジャブジャブと水の中を歩いて池の縁へ上がった。足元を、透明なしずくと赤いしずくが混じりあって流れた。

「布団の用意を」

朝倉あさくらは言った。俺は座敷の押入れから布団を引っ張り出した。血がついてしまうがかまうものか。俺は朝倉あさくらの腕から長門ながとを引き取り、布団に横たえた。俺の両腕にべっとりと着いた血を見て、救急車を呼ぶべきかと考えた。だが宇宙人製アンドロイドは医者の手には負えないだろう。それに喜緑きみどりさんと朝倉あさくらがいる。この二人がなんとかしてくれるはずだ。

長門ながと、絶対死ぬなよ」

「右目が失明していますわ」

喜緑きみどりさんがハンカチを取ろうとすると、長門ながとの体がビクンと動いた。

「キョン君、見ないほうがいいわ」

そのほうがよさそうだ。「すいません、俺、血を見るのがダメなんです」

 前にも似たようなシーンに出くわしたが、あのときはそれどころじゃなかった。それにあのときの長門ながとの意識はしっかりしていて、体に穴が開いてもちゃんと会話していた。あのときの俺は、長門ながとにどこかしら超人的な強さを感じていて、必要以上にオロオロすることもなかった。だがこの長門ながとはぐったりと力なく横たわり、意識があるのかないのか、呼びかけてもなにも応えない。今回はいろいろと事情が違っていて、長門ながとにとっても厄介やっかいな状況なのだと俺は分かった。あのときは襲われた朝倉あさくらに、今回は助けられるということも含めて。


 誰の出入りもないように、俺は門番のようにふすまの前に立っていた。谷川たにがわ氏と古泉こいずみ、それから朝比奈あさひなさんには長門ながとの具合が悪いとだけ話しておいたが、朝比奈あさひなさんにあの状態の長門ながとを見せたら真っ青になって卒倒そっとうするだろう。とりあえず意識が戻るまでは面会謝絶めんかいしゃぜつとした。

「キョン君」

ふすまが少しだけ開いて、喜緑きみどりさんが顔を出した。手で招いている。

「インターフェイスの状態はだいぶ回復したのですけど、まだ意識が戻らないの」

「助かるんですよね」

「ええ。わたしたちは物理的に死ぬということはないんですけれど、相手が相手ですから」

「どうなるんです」

「敵が情報生命体じょうほうせいめいたいなら、情報を失うでしょう」

ええと、つまり。

「わたしたちの体の構成は情報で成り立っているので、情報そのものが損傷を受けると機能不全になるんです」

「記憶喪失みたいなものですか」

「ええ。記憶だけではなく思考も、人格も」

「そんな。長門ながとじゃなくなるってことじゃないですか」

「お互いにバックアップを取り合っていますから、多少の損傷は補填ほてんできるのですけれど……」

喜緑きみどりさんはそれ以上何も言わず、部屋の中を指した。中へ入ると布団に長門ながとが眠っていた。包帯でも巻かれているのかと思ったが、血の跡もケガの跡もなかった。その横には朝倉あさくらがうつむいて座っていた。

朝倉あさくら、なにがあったのか教えてくれ」


── 以下、朝倉あさくらから聞いた話だ。


 長門ながとはひとり、あいつらのただなかに乗り込んだ。情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいの全員が集まった。

「ひとりでやってくるとは、勇猛なのか無謀なのか」

「……話し合いに来た」

「我々の目的は伝えたはずだ。お前たちが承諾しようがしまいが結果は変わらん」

「……共存の道もあるはず」

「わたしはこの組織を解体するつもりはない」

「生き残ることが優先するはず」

「知ったような口を利くな。お前に何が分かる」

「……わたしはずっとあなたの後ろで、あなたの情報をもらっていた。わたしには、あなたの考えが分かる」

「それがどうした。お前は安全なところで情報を得たのだろう。現場で危険な目に会っているわたしの気持ちが、お前に分かるか」

「……わたしはずっとあなたを見ていた。同じ感情を持っていた」

「だがお前はわたしを見捨てた」

「……見捨てたのではない。あれは事故だった。あなたが消えて、わたしはひとりで生きなければならなかった」

「よかったじゃないか。いい厄介払やっかいばらいができただろう」

「……わたしは、唯一の肉親を失った」

その言葉を聞いて、αは黙った。

「……わたしの世界に、戻って」

「そんなことをするくらいなら始めから上書きをいどんだりしない。この世界は、わたしが自ら作り上げたのだ。拡大はあっても縮小はしない」

「……もう一度、あなたと過ごしたい」

「では、自分の世界を捨てて我々に加われ」

「……それは、できない」

それが最後の言葉だった。次の瞬間、長門ながとは全思念体から集中砲火を浴びた。αに匹敵する力を持っているにもかかわらず、長門ながとは反撃しようとはしなかった。攻撃を避けつづけ、なんとか交渉の余地を模索もさくしていた。思念体のひとりが長門ながとを地面に縛りつけた。長門ながとの足がコンクリートに張り付いた。それを見て全員がいっせいに長門ながとを串刺しにした。

 見かねた朝倉あさくらが円筒状のシールドを何重にも張って長門ながとを保護した。目くらましの閃光せんこうを発したあと、縛り付けられた長門ながとの足をその地面ごと引きがした。朝倉あさくらは傷だらけの長門ながとを抱えて空間移動し、彼らから十分な距離を置いてから次元転移した。あいつらは一瞬なにが起ったのか分からず、数秒間、朝倉あさくらが介入したことすら気づかなかったことだろう。


「彼らは最初から長門ながとさんを餌食えじきにしようと待ち構えていたわ」

餌食えじきというのは、長門ながとの持っている膨大な量の情報のことだと朝倉あさくらは言った。長門ながとの持つ情報を元に、俺たちの世界へ乗り込むつもりだった。そうすれば情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたい易々やすやすと征服できる。

 あいつらはどうも俺の知る情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいとはだいぶ性格が違うようだが。やたら好戦的というか、攻撃的というか。

「あなたは自分の世界が消え去ろうとしているとき、理性を保っていられるかしら」

しばらく考えたが、朝倉あさくらの質問は俺には高度すぎて簡単に答えを出せるようなものではなかった。

「お前だけは理性的なんだな」

「それがわたしの仕事」

αをトップとするこいつらの組織には派閥はばつがない。その代わりに、バランスを取るための存在が朝倉あさくらなのだという。すでにバランスを取るだけのパワーも思索しさくも尽きたようだが。

「とんでもない事態だったんだな」

「まるで集団リンチだったわ」

長門ながとを助けてくれて礼を言うよ」

「いいのよ。でもわたしはもう、向こうへは戻れないわね」

裏切り者がのこのこ戻ったりしたら、即時消去されるだろう。

「お前にはすまなかったが、俺たちと一緒に来いよ。向こうの朝倉あさくらをそのまま引き継げばいい」

「それもそうね……」

誘いにあまり気乗りしないのか、朝倉あさくらはうつむいたままだった。


「キョン、いるの?」

ふすまの向こうからハルヒの声がした。帰ってきたらしい。

「ハルヒ、ちょっと待て」

叫んだが間に合わなかった。ふすまがガラリと開いてハルヒが顔を覗かせた。

「あら、有希ゆきどうしたの」

さあて、どう説明したらいいんだ。

「昨日湯冷めして風邪を引いたらしいんだ」

かなり適当で妥当な言い訳をした。今が冬でよかった。ハルヒが入ってきて長門ながとの額に触れた。

「そうなの。熱はないみたいね」

「ああ。さっき医者に連れて行って注射を打ってもらった。寝てるから、そっとしといてくれ」

「分かったわ。あたしになにかできることある?」

こいつにできることか……。

「なんでもないただの風邪だしな。早く治るよう願い事でもしといてくれ」

「分かったわ」

今のは気休めに言ったつもりだったのだが、このセリフを言ってしまって相手がハルヒであるということの意味にハッとした。本人には本気として伝わったようだ。ハルヒの願い事も、地球の自転が逆になるとか冬に桜が開花するとか突飛とっぴなものではなくて、こういう誰かの役に立つものなら大歓迎なのだが。


 俺は長門ながとの枕もとにじっと座っていた。しんと静まり返った部屋のなかで、ときどき寝息が聞こえる。この小柄な女の子は、世界を救おうと必死で戦っている。なにか見返りがあるというわけでも、誰かに頼まれたというわけでもないのに。この世界にヒーローの称号が許されるとしたら、まずこいつに与えられるべきだろう。ナイトの称号でもいい。


 クリスマスの当日だというのに、部屋の雰囲気は暗かった。黙ってはいたが、古泉こいずみはなにか重大な事件が起こったことをうすうすと感じ取っていたようだし、朝比奈あさひなさんにもこの重苦しい雰囲気は伝わっているようだった。

 おばあちゃんが晩飯の用意ができたと言いに来たが、みんなに先に食ってもらった。せっかくのケーキだったが、俺はこいつの目が覚めるまで待っていてやりたい。


 ハルヒの願い事がかなったのかどうか、夜九時頃になって長門ながとが目を覚ました。

長門ながと、気がついたか。俺が分かるか」

長門ながとはじっと俺を見つめた。

「……」

いい兆候ちょうこうだ。いつもの長門ながとだ。喜緑きみどりさんと朝倉あさくらの顔を見ると、起き上がって宙を見つめた。

「……情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいが存在しない」

長門ながとさん、ここは平行世界ですわ」

「……なぜ、朝倉あさくら涼子りょうこが存在する」

「わたしはあなたの知っている朝倉あさくら涼子りょうこではなくて、別世界の情報生命体じょうほうせいめいたいなのよ」

長門ながとは少し考え込んでいた。珍しくこめかみを押える仕草しぐさをした。それ、もしかして俺のマネか。

「……記憶野きおくやに少し障害がある。時系列が一致しない」

そりゃそうだろう。俺でさえ、ここ数年に起こった出来事のせいで混乱気味なのだ。

「……あなたの記憶を、分けて欲しい」

「俺の記憶?いいが、どうやるんだ」

長門ながとは俺の頭を両手で抱えるように持ち、顔を近づけた。まさか、こないだみたいに額にキスをするんじゃないだろうな。ほかの二人がじっと見ている。これはかなり恥ずかしいぞ。だが額に感じたのは唇ではなくて、長門ながとの額だった。目の前に長門ながとの顔がせまり、俺はどこを見ていいのかわからず目を閉じた。

 長門ながとはゆっくりと顔を離した。

「もう、いいのか」

「……ありがとう」

少しだけ頬がしゅに染まっているのは気のせいだろうか。

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