四 章
タクシーの運転手に住所を棒読みで伝えると、十分くらいでそのアパートの前に着いた。二階建ての二階、二〇五号室……。郵便受けにもドアにも表札らしきものはなかった。呼び鈴を押した。こんなにドキドキするのは久しぶりだ。赤の他人だったらなんとごまかすか、新聞の勧誘にするか、布団の販売にでもするか。
反応がない。もう一度呼び鈴を押した。やっぱり違うんじゃないか?。
それから郵便受けに戻り、周りに誰もいないことを確かめてからフタを開けた。テレクラやらヘルスやらのチラシが詰まっているだけで、宛名を書いた郵便物は入ってなかった。
三度ノックして反応がないので俺はドアの前に座り込んだ。尻にあたった床のセメントが冷たい。ここにいるのが
もう日はとっくに暮れていた。
俺は
どこかへ引っ越すのかと
おい待てよ、俺を、ハルヒを置いていくのか。
「自分が来たところに帰る」
「待ってくれ。いきなり帰るなんて言わないでくれ。お前がいなかったらSOS団はどうなるんだ。俺は!?」
それからおもむろに和室に入ると、ふすまを閉めた。
俺がふすまを開けると、そこにはもう
俺の手にはエンディミオンがあった。
そこで、目がさめた。
見上げると、暗い
誰かが階段を上がってくる足音がした。怪しまれてはまずいとは思ったが隠れる場所もない。このまま寝たフリをするか、あるいは立ち上がって今しがた尋ねてきたフリをするか。階段を上り詰めた足音がはたと止まった。俺は立ち上がってそっちを見た。
「キョ……」
俺はなにも言わず、
「
「……」
「あちこち探したぜ」
「寒いから部屋に入れてくれないかな」
俺はかじかんだ手で
「……」
ドアを開けると、六畳ひと間の、古びたアパートの部屋につつましい生活空間があった。マンションに住んでた頃も元々モノ持ちなほうではなかったが、家具はほとんどなかった。ぎっしり詰まった本棚を除いて。
それから俺は、
「わたしがこちらの世界に来たのは、約五年前。ここでは
いわば宇宙探査船が未知の星に
「身よりもなくてどうやって食ってたんだ?」
「……パチンコ」
パチンコ!?生活力あるなお前。
「この付近一帯で採用されているパチンコ台はすべてクリアした。スロットの
「毎日、本を読んで過ごした」
俺は改めて部屋を見回した。相変わらず本が好きなようだ。部屋の壁が本棚で埋め尽くされている。
「あの文庫本を書いた作家に会ってみたよ。事情を話すと協力してくれてな、ここまで来れたんだ」
「
なんてこった。
「それ以降、
「向こうの世界とこっちの世界の違いは何だ?接点は
「限定された情報から推測すると、この世界はわたしたちがいる世界の平行世界。ただし、わたしたちは
「それがこっちの世界の俺たちか」
「そう」
「そうか……俺もよく分からないんだが、なんでお前だけ五年前に飛ばされたんだ?」
「情報が限定されすぎていて分からない。でも、
「
「その可能性もある。危険を回避するために、この時空でのわたし自身のアイデンテティを消した」
要するに身元を消したってことか。
「こちらの世界では、
なるほど。どおりでなかなか探し出せなかったわけだ。
「そうだ、ちょっと電話かりるぞ」
俺はとりあえず
「もしもし
「ええと、今日はここに──」マイクを押さえて
「……いい」
「ここに泊まります。じゃあ、明日伺います」
俺は電話を切った。
「これからどうする。向こうの世界に帰る方法はあるか?」
「分からない」
忘れていたことがあった。
「これ、
「……」
「渡せば分かると言っていたが、これはいったい何なんだ?」
「これは……空間を封じ込める技術」
「すまん、なんだって?」
「空間がこの球の内側に折りたたまれている。
それで
「何が入ってるんだ?」
「
「
「そう。この状態を
「これを何に使うんだ?」
「おそらく緊急通信用。
つまり、異次元間での通信用か。
「ただし、一度しか使えない。この
「助けを求めるチャンスは一度きりってことか」
「そう」
数年分の物理の授業を受けたような気分だ。とりあえずは帰る切符はあるということか。
気が付けば腹の虫が鳴いていた。
「もうこんな時間か、腹減ったな。どこかに食べに行くか?」
「……晩ご飯、作る」
そう言って、さっきの買い物袋を広げた。冷蔵庫を開けると材料はあるようだ。
味噌汁に魚の塩焼きに、肉じゃが、か。見る限り、あれから料理も習得したらしい。
「……おいしい?」
「うん。うまい。いい嫁さんになれそうだ」
ふつうならここで女の子がポッとか顔を赤らめてくれそうなんだが、
「この世界にひとつ、謎がある……」
「なんだ?」
「わたしが誰かの
「そうなのか」
「“
「なんだそりゃ」
「コンピュータネットワーク上でよく見かける」
「さあ、なんだろう。初耳だが。だとするとお前の
「……」
「水が沸いた。水温40℃」
「ああ、風呂か。今日はほこりだらけだからな。ありがたい」
浴室を見ると、
「お前はふだん風呂に入らないのか?」
「わたしにはナノマシンによる
「そ、そうか、
「コンビニで入浴セットを買ってくる。歯ブラシも」
俺はどうも、
この後がちょっと問題だった。
「布団が一組しかない」
「じゃあ俺は毛布かなんかあればそれでいいよ」
「……風邪を引きかねない。一緒に寝ればいい」
「それはいくらなんでも困るぞ」
「なぜ」
いやまあ、なんというか。俺もいちおう男だし、健康な男子だし、というか
などと俺がブツブツ言っている横で、
ともあれもう十二時だ。昼間の疲れと、やっと会えた
目をつぶること三十分。あれほど眠かったはずが待てど暮らせど眠れない。頭の後ろに
「
「……なに」
「頼むから眠ってくれ。見つめられてると落ち着かん」
「……分かった」
そこからの記憶はなく、泥のように眠った。夢は見なかった。
「起きて」
「ああ」それからちゃんとズボンを
「おはよう。今何時だ?」ちゃぶ台の上に朝飯が用意されている。
「八時二十四分十五秒」
「今日の予定は、とりあえず
「朝ご飯、食べて」
「お、おう」
なんだか昭和四十年代の
「
「なに」
「ボクの髪が肩まで伸びたら、元の世界に帰ろう」
「……分かった」
そこ、笑うとこ。
俺は
「めっさかわいいお嬢ちゃんじゃないかねっ。寒かったろう。さあさあ、おあがり」
「……」誰かの
お
「
「はじめまして
「……
二人とも無言だった。どうも空気が固まっている。
「ええと、
「ああ、やっぱりそうなのか」
「……あのときは制服を着ていた」
今日は珍しくタートルネックの黒のセーターを着ているが、それでか。
「それで、俺たちがどうやって向こうに帰るか、なんですが」
「そう、それが問題だね」
「いちおう、向こうの世界と連絡は取れるらしいんです」
俺はバックパックから、例の黒い玉を取り出して見せた。
「これは?……重いね。何かなこれ」
「向こうの世界の
「ほう……そんなことができるんだ?」
「向こうの
「連絡は……一度」
「ニュートリノと反ニュートリノが
さすがSF作家だ。
「連絡はつくとして、どうやって向こうに帰る?物理的な
「あなたが小説を書けば、そのとおりになる」と言った。
「僕が?」
「わたしと彼は、あなたの書いたストーリーの上を歩いてきた。帰るための手段も、それに従う」
「ええと、じゃあきみたちを元の世界に返す方法を僕が決めればいいわけか」
「……そう」
「これからの展開の中にそれを含めて出版されればいいわけだね」
「そう。ただし十三巻には時空の
こちらの世界の情報は、わたしたちがいた世界に漏れてはならない、情報は一方通行でなければならない、
「分かった。今回の現象も含めてプロットとして書いておこう。で、きみたちは同じ手順で向こうに戻る」
「同じ手順と言うと?」
「その地上絵をもう一度登場させて、向こうの世界への扉が開く」
「その場合、扉は、向こうから開かなくてはならない。
「どうやって支援を頼むんだ?」俺が聞く。
「この
「そうだ。これはそのために用意されたんだね」
パズルのピースがすべてはまった。決行は、今夜だ。
「あの、ひとつだけお願いが。できれば今後、ハルヒにはあまり無茶をさせないでください」
「分かったよ。ほどほどにする。ただし読者を満足させられる程度には」
近頃の読者は、登場人物の血を見ないと満足しないから怖い。
「鉛筆……買って」
「何にするんだ?」
「信号を送るのに、必要な材料」
「鉛筆でいいのか」
「地上絵の信号を
広い場所は北高グラウンドでいいだろう。東中は一度やってるんで怪しまれるとまずい。
「発火性の物質って、花火みたいなもんか?」
「そう。大量の水と空気。鉛筆を二十キロ。それらから
「二十キロ分か」
空気はそのへんにあるとして、水はプールのたまり水を使おう。この時期はだいぶ汚れてるだろうが。
ええと鉛筆一本が十グラムくらいか。とすると二千本必要だな。十二で割ると……。
「鉛筆は百六十六ダース必要」考えていると先に言われた。
文房具店をいくつかハシゴしないといけないな。
俺と
百貨店のテナントで半分の量の鉛筆、さらに別の専門店で残りを調達した。突然の大量購入は断られるかと思ったが、店員は喜んでいたようだ。鉛筆を大人買いしたのははじめてだ。俺は段ボール箱いっぱいの鉛筆を抱え、汗を垂らしながら歩いた。
帰りの道すがら、
「……行きたいところが、ある」
「どこに?」
「……」南西の方を指した。
この方角は……、勘は当たっていた。図書館だった。中に入ると暖かい空気が二人を包んだ。紙とインクの匂いと、それから何か分からない安心させるこの雰囲気は、どこの世界でも同じかもしれない。
そういや、受付のお姉さんに頼みごとをしたままだったな。俺はカウンターまで行って、
「あなたの学生手帳、貸して」
「いいけど、何するんだ?」
「これ……記念に」
「ああ、ありがとう」
二年前、同じことを
それから
夜九時、俺たち三人は十分に暗闇が降りてから行動を開始した。
車で学校の前を通り過ぎ、離れた空き地に止めた。俺は大量の鉛筆を抱え、
タンクを抱えての柵越えはちょっと大変だった。正門から忍び込むと明らかにあやしい集団に見えるので、西側まで回って入り込んだ。まあどこから入っても十分あやしいんだが。タンクはグラウンドに置いておき、先にプールへ向かった。懐中電灯で照らすと、水はあるようだ。
「鉛筆を入れて」
俺は箱を崩しながら鉛筆をバシャバシャ放り込んだ。
「紙もいいのか?」
「いい。必要なのは、炭素」
そういえば鉛筆の芯は炭素の
それから
「ちょ…ちょっと口の中が……」その場にいた俺と谷川氏が、声を枯らしてのどと目を押さえた。
「……す、すまない。うかつ」
「周辺の水まで奪ってしまった。すまない」俺の水分が材料になったってわけか。
「あー、コンタクトレンズがパリパリ言ってるよ」
「……もうしわけない」
「プールでなにを作っていたの?」
「炭、硫黄、マグネシウム、銅、その他可燃性の金属。そしてそれらの混合物」
「つまり、花火の材料か」
「……そう」
中世に行って
プールに戻ってみると、水と同じ体積の、灰色の粉らしきものが出来ていた。
「これ、どうやって運ぶんだ?」
「……任せて」
プールを埋め尽くしていた粉が、さっきと同じくらいの高さに立ち上がって球になり、少しずつ小さくなっていった。最後はソフトボールくらいの球になった。
「分子圧縮した」簡単に言ってるけど、すごいよ
それから三人はグラウンドに行った。
まず俺が巨大な正方形の頂点に二メートルくらいの棒を立てる。暗くて分からないので、棒の先にペンライトを巻きつけた。
まず点を結んで線を引き、正方形を作る。その頂点に対角線を二本引き、真中を割り出したところで上下左右の辺に
地上絵は、大きく二つの部分に分けることができる。隣に同じ大きさの正方形をもうひとつ描いた。これで二つの絵が描ける。あとは
これ、GPS使ったらもっと簡単にいきそうなんだが。
線に沿って灯油をちょろちょろと
「警備会社の巡回まであんまり時間がない。急ごう」谷川氏が言った。
「わたしが
「分かった」俺は手にもった
「そろそろはじめますか」
「今のうちにお別れを言っとくよ。また会おう。
「いろいろとありがとうございました」
俺は力をこめて手を握って振った。長門は軽く握ってうなずいた。
「
「いくよ」
三、二、一、GO!
「今」
俺は地面に火を放った。まばゆい火柱が足元を走った。
青白く、さらに緑に、そして赤く燃える地上絵がグラウンドに浮かび上がる。三秒、四秒、五秒……。見えはしないが黒い球が落ちてきているはずだ。まだか、まだなにも起きない。
「
「目を閉じて!」
強い
光が
── アスタラビスタ。
気が付くと、いつもの風景の中にいた。夜の北高のグラウンド。前には同じ景色の中を
俺と
「俺たち、ちゃんと帰ってきたのかな?」
「こっちの標準時と同期した。今、
「そうか。
こういう場合の気分だ、少しはヒーローを気取ってみたい。
「伝える」
俺も自分の組織である家に帰ろう。というか、
「
携帯が通じる。どうやら帰ってきたようだ。俺の自宅にいるという未来の俺と
「マンションまで送っていくよ」
「……」この無言は俺の知る
俺は夢でも見ているかのように、
マンションに差し掛かると
「お茶、飲む?」
「さすがにちょっと疲れたから、今日は帰るわ。それに俺を待たせてるし」
何言ってんだろ俺、みたいな気がしたが
「……そう」
「じゃあ、またな」俺は元気なく手を振った。
振り返るたびに小さくなっていく
わずか数日留守にしただけだったが、翌朝の俺はずいぶん懐かしい気持ちで学校へ行った。ハルヒも、クラスメイト全員も、なにも変わっていなかった。
「懐かしいな、谷口」
「なに言ってんだお前、昨日いたじゃねえか」谷口が
昨日か、そんな遠い未来のことは知らん。
「キョン、おっはよ」さらに懐かしい声がした。
「お、おう」
俺はハルヒの顔をまじまじと見つめた。
「な、なによ。あたしの顔になんかついてるの?」
「いや、なんでもない」
やっぱりこいつがいないと俺の生活ははじまらない。俺の居場所は
俺は壁にかかっているカレンダーを見た。
昨夜、
放課後、ひさしぶりの部活である。俺の学業生活は放課後がメインなんじゃないかと思うくらい、この時間が来ると気分が開放的になる。
「あたし掃除当番だから。先行ってて」
我が団長様は教室の掃除か。ご苦労さま。俺がいない間も、たぶんなにも変わらない日常が続いていたんだろうな。こんな平穏な毎日が続けばいい、そう思う。
文芸部部室のドアノブに手をかけたところで、誰かが俺のベルトを引っ張る。
「……話がある」
「で、話ってなんだ?」
「
「そうなのか……俺はできれば忘れたくないんだが」
あのとき、
「俺の記憶が消えてもお前は覚えているのか」
「わたしの記憶からも消去される。以降、あの本と
「それはなんだか寂しいよな」
「
「
「希望するなら、そのままでもかまわない。でも、言葉にしようとすると
「分かった。未来人の
「
「しょうがない。やってくれ」
「……あなたは外にいて」
「な、
「
部屋の中から、椅子がひっくり返る音、それからキャーともギャーともつかない叫び声が上がった。な、中で何が起こってるんだ?ハラハラドキドキして楽しんでいると、しんと静まり返った。
おもむろにドアが開いて、いつもより涼しい顔をした
「あなたの番」
「き、
「……こう」
やわらかく暖かい
── あなたの中にわたしの記憶があれば、それでいい。
「もう!
ハルヒが珍しく半ベソをかいている。
「エルサルバドルの両親に会いに行った。進路のことで」
「だったら連絡くらいしていってよね。だいたいエルサルバドルてどこよ」
「ラテンアメリカですね」聞かれもしないのに
「エルサルバドル、中米の小国家。人口約六五八万人。面積は約二万一千平方キロメートル。国内総生産は百六十六億ドル」
「おかえりなさい。無事でよかった」
ドアが開いて
「キョンくん、おつかれさま」
「いえいえ、いろいろとありがとうございました」
アンドロイドにもこういう、
「これ」
「あたしにお土産?」
「……そう」
袋の口を開けるとコーヒー豆の缶が出てきた。
「へー。コーヒーの産地だったんだ」ハルヒが嬉しそうに言う。
「どこかでコーヒーメーカーを手配しないとね、みくるちゃん」
「あ、ハイハイ。明日、ドリッパーとマグカップを持ってきますね」
その後のことを、少しだけ話そう。
「なあ
「……また、図書館に」
「そうか。ほかに好きなところへ行ってもいいんだぞ」
「……図書館」
「ハルヒには
「分かった」
いつか、この
── また会おう。
もう一生、出会うことはないだろう。少なくともこちらの世界からは。
しかしこれもまた、
END
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