一 章

 やれやれだぜ。俺は朝比奈あさひなさんを待ちながらつぶやいた。このセリフ、何回言ったことだろう。ハルヒがSOS団を立ち上げてからというもの、このセリフを吐かなかったことはない。俺はきっと死ぬまでこの言葉を言いつづけるに違いない。


 さて、今年も残すところあと数日だが、年が明ける前に俺は朝比奈あさひなさんに折り入ってのたのみごとをしなければならなかった。俺は十日前の十二月十八日に戻らなければならないことになっている。戻ってなにをするのかと言えば、特別なことをするわけじゃない。ただ自宅から学校に通って、一度やったはずの期末試験きまつしけんを受けなければならないだけだ。すでに答案は戻ってきていて、考えようによっちゃこれ、百点満点を取るチャンスかもしれないな。ハルヒに国立を受けろと言われたので、ここで成績アップしといても天罰てんばつはくだらないだろう。

 本当は試験なんかどうでもよくて、俺自身の身代わりとして過去に飛ぶだけなのだ。ようは、留守番である。その日、未来の俺に借りを作っちまったのは俺なんだが、安易あんい過ぎた気もする。朝比奈あさひなさんにどう説明したものかずいぶん迷っていた。

 これは俺が作った規定事項きていじこうなのだが、実は未来にはその間俺がどこでなにをしていたのかという事実が残っていないんだ。


朝比奈あさひなさん、ちょっとお願いがありまして」

「なんですか?」

「俺を今月の十八日に連れて行ってほしいんです」

「あれれ、そうなんですか?既定事項きていじこう?」

既定きていではないんですが、どう説明すればいいのかちょっと難しくて」

「ちょっと上の人に聞いてみますね……OKみたいですよ。キョン君は私の知らないところでいろいろ働いてるのね」

「いやぁそういうわけでもないんですが」朝比奈あさひなさんにそう言われると照れてしまう。

「十八日って、なにか特別なことありましたっけ?」

俺は朝比奈あさひなさんにこう言わなければならなかった。

「すいません、禁則事項きんそくじこうです」今度は立場が逆だった。


 そう、十八日、事の起りは古泉こいずみ奇妙きみょうな小説を部室に持ち込んでからだった。




 ここにいる宇宙人、未来人、超能力者、そして一般人の四人はだまりこくっていた。古泉こいずみが持ち込んだ一冊の文庫本を取り囲んで、四つの組織の代表(俺は一般市民いっぱんしみん代表だからな)が正体不明の危機きき前触まえぶれを感じていた。

 長門ながと朝比奈あさひなさんがほとんど同時に、この文庫本の内容が禁則事項きんそくじこうに指定された言った。二つの組織そしき危険信号きけんしんごうが出たということは相当そうとうヤバい本なのか。

「貸して」しばらく考えていた長門ながとが手を差し出した。

「……読んでみる」

「それはまだ待ったほうが……」古泉こいずみが止めようとした。

長門ながとのほうが物知りだし、分析ぶんせきしてもらえばいいんじゃないか」

「それはそうですが……これがいづれかの敵対勢力てきたいせいりょくわなだった場合を考えると」

せいするまもなく長門ながとはページをぱらぱらとめくっていた。


 数十分間、長門ながとはページをめくりつづけ、俺と古泉こいずみ朝比奈あさひなさんは長門ながとが何か反応するのをじっと待っていた。

「これは……わたしたちの未来……」読みながらつぶやいた。


 それは一瞬の出来事だった。長門ながとがスクと立ち上がり、ひざの上から文庫本を落とした。視線がちゅうをさまよった。

「エマージェンシーモード」

長門ながとの影が白い光の球に包まれた。

長門ながとさん!?」朝比奈あさひなさんがさけんだ。

長門ながと!?どうした!」

俺は椅子いすから飛び起き、消えていく長門ながとの腕を捕まえようとした。俺の手は白い光の壁を突き抜けて空を切った。長門ながとは一瞬、俺を振り向いた。最後に耳にしたのは長門ながとつぶやくような、かすれた声だった。「わたしは……ここにいる……」


 文庫だけが床の上に残っていた。残された三人はしばらく呆然ぼうぜんとしていた。

長門ながとさんが……」朝比奈あさひなさんは長門ながとが座っていたあたりを、その名残を探すように触れた。

「なんということでしょう。これは緊急事態きんきゅうじたいです。僕のせいで長門ながとさんが消えたと情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいに知られたら、 思念体しねんたい機関きかんとの関係が悪化しかねません」

「それより長門ながとの消息が心配じゃないのか!?」

「もちろんそうですが」

「それにもう知られてるだろう」俺は上を指差して言った。

部室のドアをノックする音に、三人ともビクっとした。

「どうぞ」朝比奈あさひなさんが応えた。

「あの、喜緑きみどりです……」ドアの向こうから覚えのある声が聞こえた。

長門ながとさんの件で……突然失礼します」ずいぶんと久しぶりな登場だ。

派閥はばつは違うが情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいから派遣はけんされたアンドロイド、早い話、長門ながとのバックアップだ。


「今しがた上のほうから連絡が来て、あの……前置きは抜きでよろしいでしょうか」

「ええ、こちらもたった今、目の前で起きた現象げんしょうにどう対応するべきかとあせっているところでした」

さわやかで、かつ深刻な笑顔の古泉こいずみが言った。アンビバレンツかよ。

「この文庫本なんですが、読んでる途中で長門ながとが消えてしまったんです」

俺はもうこれは黒魔術くろまじゅつ原書げんしょかなにかのようにその本を指でつまんで差し出した。

「再発するかもしれません。内容は読まないでください」古泉こいずみが言った。

喜緑きみどりさんは表紙、背、背表紙とくるりと回してながめた。

「上のほうに問い合わせてみましたが、わたしの見る限り、長門ながとさんからの報告以上のことは分からないようです」

「いちおう僕が指紋しもん照合しょうごうするつもりにしています」

「そちらの出所でどころのほうはお任せします。問題は長門ながとさんがどこへ行ったのか、なのですけれど」

長門ながとさんは喜緑きみどりさんにはなにかメッセージを残しましたか」古泉こいずみが尋ねた。

「いいえ何も。エマージェンシーモードに入ったことだけ知らせてきました。つまり、未知のトラブルです」

「もしかして過去か未来に飛んだんじゃありませんか?」

「そうではないみたいです。情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいが存在するどの時空にも現れてはいないということなので」

もしかして長門ながとは死んだんじゃないですよね。俺は血の気が引くような質問をしていた。

「わたしたちは情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいの一部なので、物理的に死ぬ、ということはないと思います。体が消えても思念体しねんたいに戻るだけで」

「じゃあどこかで生きているんですね?」

「分かりません……」


 これはいったい。


「失礼、ちょっと電話をかけてきます」古泉こいずみは席を立って廊下に出た。

数分間、俺は腕組みをしたまま黙っていた。そこにいる皆が黙り込んでいた。時計を見ると七時を回っていた。

機関きかんでは警戒態勢けいかいたいせいくことにしました。喜緑きみどりさん、よろしければ連絡用に携帯の番号を教えていただけませんか」

「はい」

「ではまず、僕は機関きかんに戻ってこの本に関する情報を集めます。朝比奈あさひなさんはその、禁則きんそくに触れない部分で情報をいただければと思います。喜緑きみどりさんは長門ながとさんの消息しょうそくについて何か分かったら教えてください」

あれれ、古泉こいずみが仕切り始めたぞ。まあいいか。皆はそれぞれうなずいて、とりあえず解散かいさんすることにした。こういうとき一般人の俺だけ役に立たない。

 もし明日の朝までに長門ながとが戻らなければ、学校には親族の不幸で休むと喜緑きみどりさんから連絡をいれてもらうことにした。不幸なのは長門ながと本人かもしれないが。




 その日の夜、風呂に入ったあと、台所で牛乳を飲んでいると電話がかかってきた。

「キョンくん、電話だよ~。お・ん・な、のひとから」

「大声で言わんでいい」最近やけにマセてきてる気がする。

俺はコードレスホンの子機を持って自室に入った。

「こんばんわ、喜緑きみどりです。今お時間よろしいでしょうか」

「あ、先ほどはどうも。その後何か進展しんてんありましたか」

「いえ、特に分かったことはないんですが、少しお話しておきたいことがありまして」

「ええ。なんでしょう」

「……地球時間でいうところの数億年前のことなんですが」

突然気が遠くなりそうだった。

「この銀河から二百二十万光年離れたところに次元断層じげんだんそうが発生して、調査に向かったわたしたちのうちのひとりが行方不明になったことがあったんです」

「どこに行ってしまったんです?」

「どこというより、いつ、であるかもしれません。別の次元の、さらに二億年ほど前にさかのぼっていました」

「その人、じゃなくて思念体しねんたいは無事だったんですか」

「戻ってきませんでした。最後の通信内容でそこが異世界だと分かっただけで」

……もしかしたら長門ながともそこへ?

長門ながとさんのシグナルがどの時空にもないということは、同じルートを辿たどったか、あるいは似たような境遇きょうぐうにいるか、という可能性はあります」

「その別世界っていうのは、ここからどれくらい離れてるんです?」

「物理的な距離で測ることはできないんです。たとえば、一枚の紙があるとして、わたしたちが表にいるとします。向こうの世界は紙の裏側か、もしくは表と裏の間にあるんです」

なるほど。幾何学的きかがくてき知識ちしきが低レベルの俺には理解できないことは分かった。


「そういえば、異世界人といえばハルヒが集めようとした残りの人材なんですが。それとは関係あります?つまり、ハルヒが望んでこの事件が起こった?」

「それはまだ分かりませんわ。経過を見てみないことには」

「あるいは敵対勢力てきたいせいりょく干渉かんしょうとか……」

「その可能性も否定できません。実は情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたい把握はあくしている異次元というのも、実際に存在するんです」

知らなかった。それは初耳です。

周防九曜すおうくようさんがいるような世界もそのひとつで、お互いになんとかコミュニケーションを取れている世界もあります」

「その異世界の誰かと連絡取れたりはしないんですか?長門ながとの行方を知る手がかりに」

情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいに相当する存在がいる、いくつかの世界にはすでに調査依頼してあります。大方おおかたの異世界とは協定きょうていがあって、互いに干渉しないことになっているんですが」

こういう事態だ。情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいには奔走ほんそうしてもらおう。

「それから、これが重要なことなんですが、思念体しねんたいに相当する存在がいない世界、地球人がいない世界、さらに未知の世界も多くあります」

── もしかしたら、わたしたちが知っているのはほんの一握ひとにぎりなのかもしれません。

喜緑きみどりさんは、なぜかそこで少し悲しげな声になった。

長門ながとなら、どんな方法を使ってでも連絡してきますよ。それに行方不明になったとしたらハルヒが黙っちゃいません」

「そうですわね」

「いざとなったらハルヒという切り札を使いましょう。あいつのパワーはどんな世界にでも通用すると、俺は信じてますから」

「……」喜緑きみどりさんは笑ったようだった。

 それからしばらく世間話をしつつ、俺はおやすみなさいを言って切った。これまであまり面識めんしきはなかったが、喜緑きみどりさんは人間に対して理解のある人らしい。




 長門ながとが消えて二日目が過ぎた。

 文芸部部室には本来の部員ひとり分だけスペースが空いて、実に空虚くうきょな感じだった。ハルヒには、実家に不幸があって帰ったんだろうとごまかしておいたが、信じたかどうかは定かではない。

 俺は長門ながとの身を案じていた。二日ということはタイムトラベルで別時代に行ったわけではないということだ。なぜなら、戻ってくる可能性があるなら即現れるからだ。それが一分後でも二分後でもたいした違いはない。ところがそれが二日間ということは、なんらかの事故が起こって戻って来れないと考えるべきだろう。あるいは、戻る手段がないか。


 帰りがけ、俺は朝比奈あさひなさんと喫茶店で待ち合わせた。

長門ながとが消えてからもう二日になります」

「あれから情報開示じょうほうかいじしてくれるよう頼んではみたんですが、今回のことは私の知る限り、私たちの未来に関わっている事件ではないみたいなんです」

「つまり、長門ながとが無事戻ってくるかどうかは分からない?」

「それは禁則事項きんそくじこうなんですが、長門ながとさんそのものが時間的制約を受けない人ですから、未来に存在してもそれが今回消えた長門ながとさんなのかどうかは分かりません。情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいが用意したバックアップコピーかもしれませんし」

「つまり同位体どういたいってやつですか」

「ええ。私たちから見れば異時間いじかん同位体どういたいです」

つまり長門ながとは未来に存在するわけだ。朝比奈あさひなさんは遠まわしにそう言っている。

「以前長門ながとが暴走したとき、俺がハルヒ一同SOS団が存在しない世界に行ったときのことですが」

「ええ」

「未来からの干渉かんしょう修復しゅうふくしましたよね」

「ええ。それが既定事項きていじこうでした」

「あのときと同じようにいかないんですか。つまり、長門ながとが消えてしまう前に止めに入るとか」

「それが、今回のは既定きていではないんです。つまり、そのとき私が止めに入ることは既定事項きていじこうではないということです。それに長門ながとさんの組織とは干渉かんしょうしない暗黙あんもくのルールみたいなものがあって、簡単には手が出せません」

「なるほど」

「それに私たちが干渉かんしょうするのは時空震じくうしんが起るような場合だけですから」

「つまり今回は長門ながと個人に降りかかった災難さいなんだと」

「そういうことになります。今のところは静観せいかんするしか」

「そうですね」

「でも、できるかぎりの支援はするつもりです。長門ながとさんは親しい友達ですから」


 ふたりともしばらく無言のままお茶をすすっていた。たぶん朝比奈あさひなさんも、長門ながとやハルヒたちと遊んだ日々を思い出しているのだろう。

「未来からも今回の件を観測しています。未来でも情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいとは接触せっしょくできますから」




 朝比奈あさひなさんとしゃべっているうち、三十分ほどして古泉こいずみが現れた。

「遅れてすいません。あの本に関する調査結果ちょうさけっか機関きかんから受け取ってまいりました」

古泉こいずみくん、おつかれさま」

「ありがとうございます、朝比奈あさひなさん」


単刀直入たんとうちょくにゅうに申しますと、あの本の著者ちょしゃは存在しません」古泉こいずみは本題を切り出した。

「存在しない!?」

谷川流たにがわながるなる人物は、角川書店かどかわしょてんはおろか、住基じゅうきネット、警察、FBI、CIA、てはインターポールのデータベースにも存在しません。それから指紋しもん照合結果しょうごうけっかも、やはり同じです。あなたと僕と長門ながとさんの指紋しもんを除き、異なる二名の指紋しもん検出けんしゅつしましたが、機関きかんで知りえる限りでは存在しない人物のものです」

それだけの情報を簡単に入手できるなんて、機関きかんは地球最大の諜報組織ちょうほうそしきじゃなかろうか。

「異なる二名か……気になるな」

「それと、先日は見落としていた、重要な点があります。奥付おくづけの日付に気が付かれましたか。あのはんの日付は一年後、我々から見ると未来です」

「ということは未来から送られてきたわけか」俺と古泉こいずみ朝比奈あさひなさんを見た。

「未来での敵対する組織そしきとは関係ありませんか?」

「ええと……それは禁則事項きんそくじこう抵触ていしょくするので言えないんですが……」

朝比奈あさひなさんは手を右の耳に当てて、遠くのなにかを聞くような仕草しぐさをした。

「許可が下りました。お教えできるのは、十年後、あるいは二十年後の未来にもこの人は存在しない、ということです」

「未来にも存在しないっていうのは、ええとつまり」俺はまた頭痛がはじまりそうだ。

「となると、別の時空、別の次元からの贈り物と考えるのが妥当だとうでしょうか」古泉こいずみが割り込んだ。

「贈り物って、俺にはわな仕掛しかけられたとしか思えないんだが」

「その可能性は大いにあります。僕を狙ったものか、長門ながとさんをねらちしたものなのかは分かりませんが」

「お前に送られてきたのなら、機関きかん敵対勢力てきたいせいりょくじゃないのか」

「今のところは分かりません。その懸念けねんもあって、僕には今、二十四時間監視がついています」

古泉こいずみはタイピンを指で示した。おそらく小型カメラかマイクか、あるいは発信機はっしんきなのだろう。

朝比奈あさひなさんとさっき話してたんだが、未来にいる長門ながとは俺たちの知る長門ながとだという保証はできない、らしい」

「そうなんです。情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいはいくつもの長門ながとさんの同位体どういたいを持っていますから」

 古泉こいずみはしばらく考えた末、口を開いた。

長門ながとさんの連続性れんぞくせい途絶とだえると、この時空の未来には僕たちの知っている長門ながとさんは存在しない。朝比奈あさひなさんの知る歴史にこの事件がないとすれば、なんらかの異変いへんがあり僕たちの記憶には残らない」

それから古泉こいずみが放った言葉は、俺に衝撃しょうげきを与えた。

「だとすると、僕たちの長門ながとさんはこの時空から消えてしまうことになります」

「そんな……」

俺は言葉を失った。古泉こいずみ朝比奈あさひなさんも。次元の狭間はざまに消えてしまいそうな、長門ながとの小さな背中が脳裏のうりに浮かんだ。

 喫茶店を出て駅まで行って、朝比奈あさひなさんとはそこで別れた。手を振る姿がまぶしい。

「情報不足の現状では、当面は様子を見るしかありませんね。ともかく、長門ながとさんの無事を祈るしか」

「そうだな……」

俺は古泉こいずみと別れてそのまま自宅へ帰ることにした。

 長門ながとのいない俺たちに、いったい何ができるというのだろう。改めて気づく。いままでどんなトラブルも乗り越えることができた俺たちにとっての、あいつの存在の大きさを。




 その夜、俺は夢を見た。


 街灯の下、公園のベンチで誰かが俺のそでを引く。

 振り向くとメガネをかけたあの長門ながとがそこにいた。

 悲しそうな、なにか言いたげな表情を見せた。

「なんだ?」俺は尋ねた。

 長門ながとはなにも言葉にしなかった。ただ、俺のそでを引いていた。

 長門ながとの白い肌がまわりの闇に溶け込み、少しずつ色あせていった。

「おい長門ながと!」俺は長門ながとの手を握った。

 うすく悲しげな表情が見えなくなり、徐々じょじょに体の輪郭りんかくが消えていく。


 そして最後に、手の中のぬくもりだけが残った。



 目を覚ましたとき、俺はじっとりと寝汗をかいていた。

長門ながと……」暗闇の天井に向かってつぶやいた。

そのままじっと、夢の中の長門ながとの表情を思い出そうとした。あいつ、なにかを言いたがっていた。


 時計を見ると一時を回っていた。俺は携帯をつかんで電話をかけた。古泉こいずみ、早く出ろ。

「夜中にすまん、俺は長門ながとを追うぞ。同じ手順で」

「そう来ると思ってました」古泉こいずみは半分眠い声で言った。てっきり止められるかと思ったが。

「あいつをひとりにすると心配だ。また暴走しかねん」

「理由はそれだけではないと思いますが、まあいいでしょう。なにかごようなものは?」

「例の文庫本、取り戻せるか?」

「今手元にあります」

「それを持って迎えに来てほしいんだが」

「了解しました。ご自宅に伺います。三十分後に」

こういうときの古泉こいずみは頼もしく感じる。いや、はじめてか?。


 バックパックの口を開いて俺は考え込んだ。果たして何を持っていったらいいのか。どこに行くのか、どんな世界に行くのかすら分からないのに考えても仕方がない。下着の着替え、懐中電灯かいちゅうでんとう、台所にあったカロリーメイト、マッチ、救急セット、俺は手当たり次第に詰め込んだ。

 車の音がして窓の外をのぞくと、家の前に黒塗りのタクシーが止まっていた。足音をひそませて降りていくと古泉こいずみがドアを開けた。

新川あらかわさん、夜中にすいません」俺は運転席に向かって声をかけた。

「いえいえ。お安い御用ごようです」帰ってきたら菓子箱かしばこでも送ろう。

「とりあえず乗ってください。新川さん、学校までお願いします」古泉こいずみが言った。

車のシートで、俺はこれから起るであろうことを予想して少しふるえていたかもしれない。

「あいつを見つけるまで戻らないつもりだ。いつ帰れるか分からない」

「ですが、学校と家族にはどう説明します?」

「冬休みに入ったら朝比奈あさひなさんに頼んで、俺をこの時間にタイムトラベルさせてもらえばいい。俺自身が事情を知ってるわけだし」

「それは無事に帰ってこれたら、ですが。分かりました。ただし帰ってくるとき、ご自分と衝突しょうとつしないように注意してください」

「分かった」


 車が校門前に着いた。

「鍵がかかってたらどうしようか」

部室棟ぶしつとうの鍵はここにあります。校舎の防犯センサーは一時的に切ってあります」

手回しがいい。俺と古泉こいずみは誰もいない校舎に忍び込んだ。夜の校舎には前にもハルヒと来たことはあるが、あまり歩き回ってみたいと思う風景ではないな。

 部室の鍵を開けた。俺は、ほかにいるものはと部屋を見回した。壁に貼ってある、長門ながととハルヒが写っている写真に目をめた。去年の夏休みに孤島に行ったときのものだ。別に形見かたみというつもりでもなかったのだが、俺はそれをがしてポケットに入れた。

「これを」古泉こいずみがジップロックに入った文庫本を差し出した。

「それからこれを」

さらに茶封筒を俺に渡した。空けてみると万札が入っている。

「なんだこの大金は」

「五万円ほどあります。突然だったんでそれだけしかかき集められませんでした。向こうの世界の具合によっては、もしかしたら必要になるかもしれませんので」

「そうか。これは預かっておく。帰って来たら耳そろえて返すからな」


突然ドアをノックする音がして二人ともビクッとした。こんな夜中に誰だ。背筋に冷たいものが走った。

「ど……どなたですか」俺の声か、古泉こいずみの声か分からないが裏返っている。

「……喜緑きみどりです」消え入りそうな声がした。

「驚かせてごめんなさい」

喜緑きみどりさんがドアを開けておずおずと入ってきた。

「あの……長門ながとさんを探しに行かれるんですか」情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいには隠し事はできないようだ。

「そうです。長門ながとがやったのと同じ方法で」

「これを言付ことづけに来たんです」

喜緑きみどりさんは手元のカバンからソフトボールくらいの球を取り出した。つやのない、漆黒しっこくの球だ。

「それはなんですか」古泉こいずみが尋ねた。

「ちょっと説明するのが難しくて、でも長門ながとさんに渡せば分かると思います」

受け取るとずっしりと重い。

「分かりました」たぶん長門ながとを助け出すためのスペシャルアイテムだろう。思念体しねんたいもたまには気のいたことをするじゃないか。

情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいはあなたを全面的に支援しています」

長門ながとを必ず連れて戻ると伝えてください」

「伝えます。気をつけて。無事に帰ってきてくださいね」

ささやくような喜緑きみどりさんのやさしい声にうなずいた。ええ、必ず戻ってきますとも。


古泉こいずみ朝比奈あさひなさんに伝えてくれ。黙って行ってしまってごめんなさい、とな」

「分かりました。こういう事態ですし、彼女も分かってくれるでしょう」

「じゃあ、はじめるか」

「もし一週間って帰って来れないようなら、切り札として涼宮すずみやさんを動かします」

「そうならないように願う」

「幸運を」古泉こいずみはそう言って、俺と最初に出会った日のように手を差し出した。

俺はうなずいて手を握った。


 古泉こいずみは笑ってはいなかった。

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