舞台の上で死にたい
『舞台の上で死にたい』『それが役者としての本望』と、ベテラン俳優の彼は酒の席で事あるごとにそう口にしていた。自分の発言に酔いしれているのか、それを肴に酒を呑む。あるいは、酒を呑むことその罪悪感を和らげるために言っていたのか。死などいつでも受け入れてやる、と。
その真意は本人にもわからないが、なんにせよ不摂生が祟り入院し、余命あとわずかとなった。
こうなってくると『舞台の上で死にたい』という思考。それは湿度を伴う言葉となり、習慣となり、性格、行動と、そしてこれは運命なのだと本人は疑わなかった。信念というより執念。何が何でも舞台の上で死にたい。伝説を残すのだと息巻き、関係者に片っ端から連絡を取った。
しかし、いくら死にゆく者の最期の願いと言っても、舞台の上で人が死ぬとなると縁起が悪い。役者と監督らは揃えられても会場側は渋るだろう。
だが、彼は外面がよく、病気に倒れた彼の舞台をもう一度望むファンも多い。採算は取れる。交渉に交渉を重ね、ついに彼の死出の舞台が整えられた。
むろん、余命僅かの身。そう派手な立ち回りがある役ではない。しかし適任。病人役。
絶対に失敗してはならないと他の者が稽古に精を出す間も、彼はほとんど病室で過ごし、自然と熟成されていく。
そして舞台当日。マスコミの大々的な宣伝もあり、客入りは上々どころか完売御礼満席であった。民衆が処刑を娯楽にしていた時代もあった。これはそれとは少し違うが、人が死ぬ瞬間を、めったに観られないものを観られるというのは貴重、中々に興味深い。と、客は購入したパンフレットで期待に満ちた顔を隠し、待った。
さあ、いよいよの時。彼が杖を突いて舞台に登場すると、マナーを守り、声こそ出さなかったが、わっと会場が湧いた。
彼もその空気の揺らぎに気づいたようで、気分が高揚し、軽く目眩を起こしよろけるが、それもまたいい。全てが脚本通りではない。舞台は生きている。そう、私も生きている。彼は胸に手を当て、そう強く思った。観客は熱の入った演技だ、と唾を飲んだ。
彼の科白はしわがれた声に時々、痰が絡んだがそれもまた演技の一環と観客は気にしない。いや、息を呑むばかり。彼の一挙手一投足全てが正しいのだ。彼が歩く道こそが正道。
ストーリーは彼の人生を彼とともに振り返るというものであった。むろん、ところどころ脚色され、美しくまた時に客受けを狙った派手さがあったが、死の直前に見るという走馬灯を舞台上で表現し、彼の人生を観客に追体験させ、主役である彼に感情移入してもらい、そして彼の命をもって、死というもの観客自身に体感させることが狙いなのだ。
きっと最期は誰もが胸を打たれることだろう。脚本を受け取った彼はそう思った。『舞台の上で死ぬ』それは決して終わりの物語ではない。むしろ始まり、永遠になるのだ。人々に語り継がれる伝説に。そうやって死を克服するのだ。彼は震えた。
川のせせらぎの音がし始めると彼は虚空を見つめた。そして少年時代の彼が登場した。
舞台裏で死なれては意味がないので彼は舞台に出ずっぱりである。観客に見えるよう、しかし邪魔にならないようスポットライトの光を僅かに弱め、彼を照らす。立った状態がつらい彼は舞台中央に設置された階段を上がり、腰かける。『死ぬ時は前に倒れる感じでお願いします。できれば舞台の真ん中に転がるように』というのが監督からの指示であった。
ほんの五、六段だが、見下ろすとなかなかに怖い。落ちたら痛いだろうな。しかし、死ぬのだ。どうせ痛みなど感じやしないだろう。派手に行こう。と彼は自分を奮い立たせる。おっとそれもいけない。リラックスリラックス。精神が昂り、今死んでしまえば、この舞台はそこでおしまいとなる。まだ少年時代。老年期の現在まで、最後の自分の科白まで生きながらえねばならない。
いや、実際、そこで幕が下がるかどうかは聞いていない。いや、聞いたかもしれないが記憶がおぼろげだ。細かい打ち合わせなどは周囲に任せっきり。準備に疲れ、死んでしまっては元も子もないことはみんなわかっている。
思えば、今日この日を迎えるまでが大変だった。死んではならない。死んではならない。その一心でここまで来た。病室は個室で、それほど広くはないのだが、それでも独りだったせいか広く寒々しく感じた。食事は不味くはないが味がせず、量も少ないが食べきれず、ショックを受けたものだ。この舞台が決まるまでは、ろくに見舞い客も訪れず、ああでも、舞台の準備は楽しかったなぁ……。
と、彼自身もまた人生を振り返る。そのうちに少年時代編が終わり、青年編へ。青年の彼を演じるのは今勢いのある若手。色めきだつ客席に彼は何事かと我に返るが、まだまだ見せ場は先だ。ぼんやりと、眠らぬようにと気をつけつつ、また過去を振り返る。
不摂生が祟ったなぁ。でもまあ、老人になるまで生きられたんだ。もっと若くに酒に殺された連中もいるだろうに。しかし、禁酒できなかったなぁ。楽しいもんなぁ酒の席は。一緒に呑んだ周りの連中にちょっとが当たりが強かったこともあったかなぁ。おれは酒癖が悪いとよく言われたもんだからなぁ。おれが説教した後輩はどうしたっけなぁ。この舞台に参加しているんだったかなぁ。感謝感謝だ。みんなよく来てくれたなぁ。
と、話は進み、青年から壮年、中年へと移り替わった。役者になるべく都会へ出てきた自分の苦難と葛藤を演じる若手俳優を見下ろし、ちょっと演技がクドいなぁと彼は目を細めた。
……でも、そう言えばおれもあのくらいの時はあんなもんだったかなぁ。
再び過去に足を踏み入れる彼。抱いた女たちが瞼の裏に浮かび、パッと目を開けると会場の闇にその残像が一瞬だけ映り、また消えていく。
完全に遊びのつもりでもなかったんだけど結局、誰とも結婚しなかったなぁ。子もいなくて、だからおれは舞台で伝説に、と、ああ、おろさせたことがあったなぁ。腹を殴って、いや、それは違うな。ああ、別の女だ。それに妊娠していないし、蹴ったんだ。そうだ、おれはよく女を殴ったっけなぁ。腹が立つとつい手が出るんだよなぁ。
彼が思い耽るうちにまた物語は進み、熟年、高年。差し迫る老年期に、背の高い雑草の中を突っ切るように走り、ザリガニ釣りと、少年時代まで遡りどこか夢心地だった彼もさすがに現実に立ち返った。
いやさてさて、ここは舞台だ。おれの舞台だ。見せ場まであともう少しだ。……しかし、死ねるのだろうか。まあ、死ねなくともその演技はできる。なぜならおれは役者だからだ。しかし、ああ、しまった。おれの最期の科白は何だったかな。忘れてしまった。思い出せ。ええと、『また明日ね』それは少年時代のおれの科白だ。思い出せ。『おぎゃあおぎゃあ』ああ、さらに退行してしまった。母親の腹の中に忘れてきたわけではあるまいにしっかりしろ。……はて、昔誰かにそんなようなことを言われたかな。なんだったかな。『酷い人ね』これは抱いた女のどれかだ。『酒はもうやめな』これは友人の誰かか。はははっ、これでは啓発の舞台じゃないか。説得力はあるだろうがな。『後悔することになるぞ』『そんなんじゃ自分の周りから人が離れていくよ』『最低』『愛したことも愛されたこともないのね』『やめて! 痛い!』『あんたみたいにはなりたくない』違うな。違う。確か、ああ――
彼を照らすスポットライトの光が強まった。いよいよの瞬間である。
立ち上がった彼はスッと腕を横に伸ばし、両手を広げ、杖を落とした。
音が響く。そして、止んだ瞬間、彼が口を開く。
「これが……我が、人生!」
目の前が暗く、また明るくと点滅を繰り返し、気づくと彼は舞台の中央で天井を見上げていた。次第に黒ずんでいく視界の中、照明は星の輝きのようであり、拍手は木々のさざめきのようであった。
彼は幕が下りたことを実感した。この舞台が見事、成功を収めたことも。
ただ、何よりも痛みを感じないことに彼は安堵した。
やがて、目の前が完全な暗闇となると、彼は声だけを聴いた。反響しているようで近いのか、遠いのかそれもわからない。死んだはずだが、まだ現世と繋がっているということなのだろうか。魂が肉体に残っているのか。声に集中する彼はそれが周囲の者たちの会話だと察した。
「初日で死んでしまうとはねぇ。クソッ、どこまでも自分勝手な人だよ」
「問題ない。この時のために彼の動きや声、大体のデータはとってある。あのロボットなら彼の役を問題なく演じてくれるだろうよ」
「しかし、すごいな。こうして見比べると顔がそっくりで、皮膚の感じもまあ……でも、ごまかせるかな。やはり少し違和感が」
「まあ、仕方ないさ。予算と技術的な面でな。でも舞台上は暗いし、科白もほとんどないから平気だろう。ふふっ、『あいつ、なかなか死なないなぁ』と妙に思われて、いつかはばれるだろうが、まあそれはそれで――」
その後、上演され続けた舞台は全て成功を収めた。彼の演技をなぞらえたそれがロボットであると知れても斬新だと、なお好評で、時が経っても定期的に再演された。彼は他の舞台にもたびたび登場した。病人やひょうきん者、悪党や幽霊役など様々。
彼は永遠となった。それが彼が望んだ形であるかどうかは死人に口なし。
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