誘拐の電話
受話器に手を伸ばすと同時に電話が鳴ったので私は少し驚いた。
しかし、その電話の内容によって受けた衝撃はそれを大きく上回った。
『お、おたくの息子さんをね、い、今、こっちで預かってるんだけどもぉ』
まさか、こんなことが起こるとは思わなかった……。驚きつつも、電話相手の男のおどおどした声に思わず笑いそうになった。緊張しているのが丸わかりだ。とは言え、こんなことに慣れている者などそうはいないだろう。私は言ってやりたいことがあったのだが、相手は早くプレッシャーから解放されたいのか、金額や受け渡し場所、警察に知らせるななど、お決まりの指示を捲し立てるように喋り、早々に電話を切ったので口を挟む余地がなかった。
きっと今頃、一息ついているだろう。私もだ。大きく息を吐き、電話番号を入力した。非通知設定にして発信ボタンを押すとすぐに相手と繋がった。
『はい、もしもし』
「ああ、おたくの息子さんを預かっている者なんですけど」
どこか先程の電話に引っ張られ、そう言った私はフッと息を漏らしそうになったが耐え、速やかに用件を述べた。
電話に出たのは恐らく私が誘拐した子の母親だろう、『え? え? あの』と驚き、しかしどこか疑っている気配がしたので、その子の服装や目立つほくろの位置など特徴を喋ると『ひぃぃ』と短い悲鳴を上げた。
振込先を述べ、受話器を置いた私は目を閉じた。あの子の母親の青くなった顔が目に浮かぶ。今頃、ペタンと床に座り込んでいるだろう。警察には言うなとは言っておいたが、どうだろうか。まずは夫に電話か。それかもう上着を羽織り、ATMに向かう準備をしているかもしれない。果たして、ちゃんと金は振り込まれるだろうか。
と、考えていたら電話が鳴った。
「はい」
『あ、おれ、さっきのな、あれ、者なんだけどよぉ……』
「ああ、誘拐犯の」
『お、おお……』
私は自分の方がスラスラと用件を述べられたことにどこか勝ち誇ったような気分になっていた。相手は私のその態度に少し気圧されているようであったが、それも優越感から来る私の思い込みかもしれない。
しかし、相手はまさか誘拐犯に子供を誘拐したなんて電話をかけているなど思いもしないだろう。
そう、誘拐犯が誘拐犯に電話。とんでもない確率の出来事だろうが、まあ、こういうこともあるのだろう。尤も、私はそうは思っていないが。だからさっき言いそびれたことを言ってやることにした。
「あのねぇ。あんたさぁ……詐欺でしょ?」
『は、はぁ!?』
相手は心外だ、とばかりに声を上げたが、無駄だ。私はこれが詐欺だと知っている。
『あ、ああ。そ、そう考えるだろうと思ってまた電話したんだよ。へへへっ。ほら、さっきは声を聴かせるのを忘れててな。いいか? ちょっと待ってろよ。そのままだぞ!』
と、電話相手の男が受話器をテーブルだろうか、どこか硬いところに置いた音がした。ドタドタと足音も。声を聞かせるつもりなら初めから子供を近くに置いておけばいいものを段取りが悪い。所詮は詐欺師。そこまで気が回らなかったのだろう。軽蔑する……と、これは誘拐犯の矜持というやつなのだろうか。私はつい笑ってしまった。
『あー、ちょっとさ、あー、そのー』
「はい? どうしました? ああ、寝ちゃったとかですか?」
そう言い訳するだろうと思い、先に言ってやった。まあ、実際寝かせたほうが楽ではあるが。
私はちらと引き戸の向こう、このリビングの隣の部屋のほうに目を向けた。誘拐した子供は睡眠薬を混ぜたジュースを与えて眠らせてある。連絡先などはランドセルについたビニール製のケースに入った名札の裏に書いてあった。迷子対策だろう。犬みたいだと思ったが、声をかけ、のこのこついてきたことも含め、都合が良かった。
そう、私も計画的とは胸を張って言えないが、しかしこの詐欺師は杜撰も杜撰。考えが足りなさ過ぎる。尤も、数撃てば当たる。これくらいの精度でひっかかるような相手のほうが安全に金を奪え、事件の発覚が遅れたりするのかもしれない。案外、組織的にマニュアル化されたものなのかも。
『いやー、その、いなくなっちゃった……』
……これには驚いた。いや、呆れた。その声のあまりの覇気のなさに「どうしよう」と付け足すのではないかと私は思ったが、相手はただ黙ったままであった。
もはやそれはこちら「どうしたらいいんでしょうか?」と委ねているような気がしてならないが、電話の前でオロオロしているさまが浮かんだので、私は仕方なく、話を聞いてやることにした。
「いなくなっちゃったとは?」
『いや、ついさっきまでそこにいたんだけどよぉ、なんか、いなくて』
「窓は開いてましたか?」
『い、いや、閉まってるよ』
得られた情報はないに等しいが、話したことで彼は落ちつきを取り戻しつつあるようだ。
……と、危ない危ない。詐欺ではなく本当の誘拐で、そして逃げられてしまったのだと信じそうになった。情けない演技に関しては中々の役者だが、いや、もし本当の場合それこそ私にどうしろと言うんだ。
うーん、と唸る相手。まるで付き合いたての中学生が恋人に電話をしたものの話題に尽き、互いに困っているようだ。こんなことに付き合っている場合でもない。こちらは本当に誘拐したのだから。
「……なあ、もう十分だ」
『え、はい……?』
「私にはな、もう息子はいないんだよ」
『え、え、えぇ?』
「残念だったな。こっちも状況が、まあアレなんで興味深いと思って付き合ったが、もういい。詐欺なら他を当たるんだな。それじゃ」
『いや、え、本当に誘拐したんすよ……』
私の堂々とした態度のせいか、彼はいつの間にか敬語になっていた。受話器を両手に持ち、耳に当て、背を丸めているさまが目に浮かぶ。私は彼に聞こえるようにフッーとため息をついたあと、とどめを刺すつもりで言った。
「じゃあ、息子の名前を言ってみろ。さっきは言ってなかったぞ。言い忘れたつもりだろうが知らないんだろう」
『え、え。――くんですよね?』
え。
……一瞬頭が真っ白になったがなんてことはない。確かに彼が口にしたのは息子の名前だが、不思議なことではない。うちの電話番号を知っているのだ。名前くらい調べているだろう。無差別に電話をかけているのだと思ったが、狙いをつけていたのだ。恐らく、子供がいる家庭の名簿か何か出回っているのだろう。
「……まあ、詐欺グループなら、それくらい調べているだろうな。ああ、そう言えば声も若いな。バイトか? 報酬はいくらだ? ふふっ、こう指摘されたときのマニュアルもそばに置いてあるのか?」
『ち、ちが、そんなんじゃないっすよ! 詐欺なんて、一緒にしないでくださいよ』
「誘拐犯の矜持か? 馬鹿馬鹿しい」
『矜持? と、とにかく、本当にいたんですって、息子さんが! 電話番号も教えてくれたし、そもそも、向こうから声をかけてきたというか……あれぇ、番号間違えたのかな……いや、メモしたしな……』
「はいはい、もうわかったよ。だんだん、ああ、そうか……」
腹が立ってきた。怒鳴りつけてやりたかった。だが堪えた。涙まで出そうだったからだ。それに、相手が相手とはいえ、もう八つ当たりからの自己嫌悪に陥るのは御免だった。
「……うちの息子はな、病気で亡くなったんだ」
わかったら運が悪かったと思ってもう電話をかけてくるな。そう言おうとしたのだが、どういうわけか口をついて出た言葉は違った。そして、止められなかった。
「金が足りず、治療を受けさせてやることができなかったんだ。もしかしたら……なりふり構わず犯罪に手を染めてでも金を集めていたら、息子は今も生きていただろう。……でもどうにもならない。私のせいなのに妻に当たり散らし、そして今は一人きり……」
犯罪を……そう、身代金を手にしてでも。もし、そうしてたらと思い今日、私は見ず知らずの無垢な子供を誘拐した。
これが失敗したら、結局あの時も無理だったのだ、仕方がなかったんじゃないか。そう自分を慰められるとそんな身勝手な思いに駆られて。
「私は何をしてるんだろうなぁ……」
私がそう呟くと、受話器の向こうから嗚咽を上げるような音が返ってきた。
『うっ、くぅ、いや、わかりますよ。気持ちがぁ、う、おれも、娘が、病気で、それでどうしても金集めなきゃならなくてぇ。すんません、それなのに、おたくの息子さん、誘拐しちゃってぇ……』
鼻をすする音がする。真剣さは伝わってくるが、どうも話が伝わっていないようで私は笑った。
「だからな、うちの息子は亡くなったから、誘拐なんて――」
『おとうさん?』
「は、は?」
『あ、息子さんいました! いましたよ! ははは、かくれんぼかぁ? もーう。あの、すぐお返ししますんで! えっと、一人で帰れるか? あ、ほら、お菓子とか持って帰るか? 袋に纏めてやるからな。ほら、パパと話してな』
「あ、お、おい」
『おとうさん? あの、ぼくだけど……』
「あ、ああ、ああ……」
間違いなく、息子の声だった。こんなことは有り得ない。おかしい。でも、本当に……そもそもを考えたら、私が子供を誘拐したタイミングでこんな電話が来たこと自体が……では……。
「お父さんの、せいか……」
『ちがうよ。おとうさんのせいでも、おかあさんのせいでもないよ』
違う。そういう意味じゃなく、私が誘拐なんて馬鹿げたことをしたせいで、息子がそれを止めようとしたのではないか。私はそう思い言ったのだが、否定することも、その気も起きず、ただ涙を流すことしかできなかった。
『あ、あの、あれー? 息子さん、またどっか隠れちゃったみたいで、あれー?』
「……ああ、いいんだ。多分、帰ったんだ」
『え、そうっすか? あ、お菓子だけでも届けますか? 住所とか教えていただけたら、あ、いや、別に他の場所でも、その、謝りたいですし』
「……ああ、頼む。こっちも渡すものがあるから外で待ち合わせよう。それと交換で」
『え? 渡すもの?』
「身代金だよ」
『え、え、でも』
「必要なんだろう? いいから」
『え、あ、は、はい! あ、ありがとうございます!』
何度も礼を言う彼を遮り、待ち合わせ場所を決めると私は受話器を置き、鞄に銀行から下ろしておいた金を詰め始めた。
傍らのロープに目をやる。今さらこんな金に意味はないと、札束を踏み台にして首でも吊ってやろうかと思っていたが、もう出番はなさそうだ。
次に、私はリビングの引き戸を開けた。受け渡し場所に向かう前に、あの子を起こして家に帰らせなければ。いや、その前にあの子の家にもう一度電話をかけるべきか。それから妻にも電話して。いや、自首が先かな。いや、やっぱり前のほうがいいな。あと、留置所にお菓子は持ち込めるだろうか。ああ、前科がついてしまうかな。許されるなら妻とまたやり直したいが難しいだろうな……。
あれこれと考えが浮かび、不安にもなったが、見下ろしたその子の寝顔は息子とどこか似ていて、何も怖くないとそう思えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます