深淵を♪ 覗きましょ♪
「あ……おはようござ――」
「あらー!? お隣の! どうもおはよう! お元気ー!? うふふふふ!」
「ええ、まあ、元気よ……」
と、彼女は言ったが、たじろいでいた。
隣の家の奥さん。こうしてゴミ出しの際、たまに会うことがあるのだが、最近のその様子の変わりぶりが気になっていた。いや、奥さんだけでなく……。
「あらぁ、そうでもないように見えるけどなんてね、あふふふふ!」
「あ、あはは……」
「それじゃあ、どうもぉー!」
「あ、あの」
「んー? うふふふ」
「あの、最近、そちらの旦那さん……人が変わったように明るくなってない?」
「ああ、ふふっ! 気づいた?」
「ええ……。ニコニコ笑って、何ならそれ以外の顔を見たことないというか……。
それに貴女も……と言うか貴女のほうが凄く明るくなったというか……。あと……それ」
「ああ、この指輪? 夫が買ってくれたの! 高かったんだけど自分の趣味の物、全部売ってくれてねー!」
「一体どうして……? 言っちゃ悪いけど弱みでも握ったり?」
「ふふふ、違うわよ。深淵を見・せ・た・の!」
「深……淵……?」
「そう! 異界の神様とのつながり……。ま、おまじないね!
こうしてね、指をちょっと複雑だけど組んで……んでここをこうして、手の中を、あ! 今覗いちゃ駄目よ! ふー! 危ない、危ない! あはははっ」
「それで……手の中を見せたらどうなるの?」
「人が変わるのよ。それも真逆にね。正直言うと……ほら私の夫ひどい人だったじゃない?
私の体の痣、気づいていたでしょ?
でもね深淵を見せたらフフフ、今度は家を買ってくれたわ。借金してね。
サプライズですってフフフフハハハッハアハッアッハハフフフアアアアアアアア!」
隣の家の奥さんは狂ったように笑い、彼女は逃げるように家の中に戻った。
ドアを閉めると、安堵感が込み上げたが、それでもまだ笑い声は続いていた。
「……どうしたんだ。外、うるさいな」
「い、いえ、なんでしょうね」
『どうせ、お前が原因だろ?』と言わんばかりに夫が鋭い目つきで彼女を睨んだ。
一挙一動、足先から頭のてっぺんまで全てを観察され、その全てが不満だと言いたげだと、彼女は感じた。
「何の真似だ?」
そう言われ、彼女はハッと我に返った。夫が毛虫を見るような目で自分を、いや自分の手を見ている。
彼女は無意識に手を組んでいた。さっき教えて貰ったあのやり方で。
「い、いえ、特に何も……」
そう言い、彼女がパッと手を解くと夫は舌打ちし、洗面所に入った。
出勤前の身嗜みチェック。
変化は見られない。隣の奥さんが言ったような変化は。
もっと近づけなければダメなのだろうか、と彼女は考えた。
――そう、覗き込むように……こんな風に……えっ。
突然のバチンという音。そして頬に痛み。彼女は一瞬、まさかこれが……と思ったが、それは深淵とは無関係だった。
「邪魔」
夫は彼女の頬を叩いた手を下ろし、肩で押しのけた。
そしてドスンと腰をおろし、靴に手を伸ばす。
彼女はただ黙り、その背を見つめながら、考えていた。
手の中にこちらを覗き返すような目はなかった。お隣さんは多分、いや確実に妄想に取り憑かれているのだ。
……ただ、この手。どうしたのだろう。違和感。落ち着かない感じ。何かを持っていなきゃいけない気がするのは。
自分、何しているんだろうって。そう、まるでリモコンを持っていないのに、テレビのチャンネルを変えようと手を向けているように……。
彼女は夫に握った手を向けた。
すると馴染みのある感触がジワジワと現れ始めた。
これは……ああそうだ。毎日キッチンで握るもの。
早く取ってこなきゃ。
夫が家を出る前に。
こちらに背を向けている間に。
早く早く早く。
ああ、どうなるか想像しただけですごくワクワクする。こんな楽しい気分、久しぶり……。
手の中には確かに狂気があった。
彼女は今、もう一度覗き込めば、目が合う気がした。
笑い声は未だ、収まっていない。
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