カーターの追憶

 階段を下りきったところでカーターは後ろを振り返り、社屋を見上げた。

 ちょうどそのタイミングで明かりが消え始め『こんな遅くまでかかってしまった』と仕事の疲れがどっと出た。しかし、このあとの予定を思うと股座が熱を帯びていく。


「どうもカーターさん」


「おお、ニールソン。なん、ああ、調査の報告か。しかし、こんな夜遅くまで外で待っていたのか? 雨も降っていたんじゃないか?」


「ええ、ですが直接お渡ししたほうが確実なのでね」


 そう言いニールソンは封筒をカーターに手渡した。バッチリ撮れてますよと笑顔を添えて。

 封筒は気を利かせたのか薄いビニールに覆われていた。中身はカーターの妻の不貞の証拠だ。カーターは探偵であるニールソンに依頼し、証拠を集めてもらっていた。これで鬱陶しい妻と離婚ができる。それも有利な条件で。

 カーターはニヤりと笑い、封筒をそのままスーツの内胸ポケットに仕舞い込んだ。


「それで、この後は若い子といつものお楽しみですか?」


「窘めてくれるなよニールソン。これが楽しみ。それが人生だ」


「ええ、わかっていますとも。しかし自分が浮気していながら、妻の浮気に腹を立てるなんてっと余計でしたかね」


「余計だとも。まぁ相手は毎回ただの商売女だ。妻への思いはあったさ。あのメス犬の浮気を知るまではな」


 そう言ったあと、多分なと付け加えたがニールソンの笑い声と重なり、それが聞こえたかどうかはわからなかった。

 人はコントロールできない。それがカーターの信条だった。そしてカーターは今日も気の赴くまま、待ち合わせ場所まで向かう。


 ニールソンと別れて、およそ十分ほど歩いた場所。カーターは人気のない駐車場に来た。

 オレンジ色の街灯が影を追い払うより、寄り添うような印象を受ける。夜にパラついた雨で濡れたアスファルトが煌めいていた。


「アナタね」


「ああ」


 カーターは背後からの声に二つ返事で答えた。

 今日の相手はマッチングサイトで見つけた女だ。サイトに載っていた写真は金髪で小顔、小麦色の肌でいかにもな女。

 尤も写真と現実は少し、時には大きくかけ離れている場合がある。そんなときは片目を閉じて、もう片方の目は薄く開けてやり過ごす。著しい場合は女に紙袋を被せる。

 しかし、このときのカーターの目は大きく見開かれた。

 似ても似つかないが面影はある。ただ……その女の父親が女装してきたと言ったほうが納得がいった。

 短い黒のスカートに網タイツに膝丈のブーツ。髪はソフトクリームのように巻き上げられている。肌はオレンジ色の街灯で小麦色かどうかわかりかねたが、顔の皮膚はブルドックのように弛んでいた。


「あー、君がキャシディ?」


「そうよ、あたしがキャシディ」


 野太い声を精一杯隠そうとしている努力が見受けられた。しかし、それを可愛げがあるとは到底思えなかった。


「それじゃあ、ここじゃなんだし行きましょうか」


 キャシディが伸ばした腕を、カーターは驚いた猫が飛びのくように避けた。そして「キャンセルで」と言い放つと同時にカーターはキャシディに背を向けた。

 だから彼女もとい彼がそう言われてどんな表情をしたかカーターは知りようがなかった。一秒でも長くその顔を見ていたくなかった故の行動だったが、キャシディにとっては幸運なことだった。まるっきり無防備な背中を向けてくれたのだから。


「がっ!」


「逃がさないわよぉ……」


 キャシディはカーターを羽交い絞めにし、そう、耳元で囁いた。

 もはや隠そうともしない野太い声であった。


「すごくタイプ。アナタ、モテるでし――」


 グギャッという、その重さで地に落ちるような低い悲鳴。

 カーターが靴の踵でキャシディの足を踏みつけたのだ。

 鈍い音がし、首に巻かれた腕が緩んだ。カーターは素早くキャシディの腕を振りほどき、吸い込んだ空気を言葉に変換する。


「カマ野郎!」


 息を切らしながら発した一言。今度はキャシディの顔を見ながら言った。そしてカーターはキャシディの顔に怒りが浮かび上がるのも見る事になった。

 ブルッと背筋が伸びあがり、カーターは背を向け走り出した。その脳内にはアドレナリンと嫌な思い出が湧き上がっていた。

 男、所謂そっちの界隈の人間との事。何年たってもひどくカーターの心を蝕んでいた。


「待ちなさいよおおおおぉぉぉ!」


 夜の街に響く咆哮。残念ながら耳にするものはカーター以外にいない。いてもネズミくらいだ。

 夜も更けた。カーターは左右に目を走らせたが人影はない。助けを求めて叫んだところで無駄だろう。


 しかし救いはあった。一台のタクシーが前方からやってくるのが見えたのだ。

 カーターは手を振り上げた。するとタクシーはゆっくり止まり、後部座席のドアが開いた。

 カーターはタクシーの中に飛び込むように体を滑り込ませるとドアを荒々しく閉めた。


「頼む! とにかく走ってくれ!」


 返事はなかったがタクシーは動き出そうとした。そのタイヤが半回転ほどした時


「止めなさいよおおおお!」


 キャシディがボンネットの上に飛び乗った。元々、ボサボサの髪は静電気を帯びたように更に広がり、顔は歴戦の闘犬のようだった。


「いい! 行け! 早く!」


 カーターの指示通り、タクシーは構わず進み、キャシディは振り落とされた。

 後ろの窓から道路に座り込むキャシディを見て、捨てられた子犬のように見え、カーターは昔飼っていた犬を思い出した。嫌な事件とともに。

 バンは白地に黒を塗ったようなフレンチブルドッグだ。幼い頃、友達が多いとは言えなかったカーターには良き友であり、弟のような存在であった。

 だが、ある日突然の別れの時が訪れる。

 始めの犠牲者は近所に住む二歳年下の少年、マイクだった。

 彼は雨上がり、湿った芝生の上を歩く蛙を見つけ、踏み潰そうとした。

 彼はパン! と内臓が弾け出るのを想像していたが、実際に目にしたのは自分の足が弾け飛ぶまさにその瞬間だった。

 悲鳴は三ブロック先まで届いた。住民は何事かとドアを開け、顔を出した。カーターもその一人だった。

 開けたドアの隙間からバンが飛び出し、庭を駆け回った。遊びの時間とでも思ったのだろう。そして、カーターが連れ戻そうと首輪に手を伸ばした瞬間だった。

 銃声、それと同時にバンは飛びのき、そして倒れた。

 大慌てで駆け寄ろうとするカーター。その目の前にレインコートを着た男が現れた。

 銃をカーターに向ける。

 しかし、その背後からこちらに向かってくる警官の姿があった。

 カーターは警官に向かって助けてと叫んだ。するとその男は素早く振り返り、駆けつけた二人の警官の内の太ったほうの下顎を銃で吹き飛ばし、その警官は蛙のように引っくり返った。

 男がそれに気をとられた隙にもう一人の警官が取り押さえた。


 捕まった男から動機を聞き出した警察は口を歪めた。

 彼は信仰といって良いほど蛙を愛していたのだ。バンは蛙を追い掛け回していた。だから撃たれた。男はその後……。


 ここでカーターの回想は途切れ、現実に立ち返った。

 キャシディがブーツを脱ぎ去り、走り出すのが見えたからだ。

 だが、流石に追いつけはしない。見る見るうちにその姿は小さくなっていき、比例するように安堵した。


「助かったよ。このまま家まで頼むよ場所は――」


 運転手に住所を告げ、カーターは窓の外を眺めた。

 更に落ち着きを取り戻すためだ。

 ローブストリートの看板が見えた。この通りの近くにはチャン一家が営むコンビニがある。

 店主のミンはレジ後ろの棚にある青龍刀で強盗の腕を叩き切ったと豪語しているが、カーターはあれは模造品だと考えていた。

 ただ、ちょうど歯磨き粉が無くなりかけていたし(ここ数年、妻は買い置きなどしてくれない)見知った顔を目にし、更なる安心、日常を取り戻すために寄ってもいいかなと思い始めた。


「……あれ?」


 だが、カーターは妙な事に気づいた。タクシが家とは違う方向を進んでいる。

 さっき住所を告げた時、運転手は一切反応を示さなかった。もしかして聞こえていなかったのか? そう思ったカーターは運転手に呼びかけたが無反応だった。


 不気味な男だ。思えば一切顔を見ていない。このタクシーを止めたときもその顔は影に隠れて見えなかった。

 カーターの中に、にじり寄るように不安が迫る。

 だが、運転手はカーターの再三の呼びかけに応じず、タクシーは次第に街から離れ、人気のないほうへ走る。

 近道、秘密の抜け道なんて楽観的な考えはもうできなかった。明らかに木々が増え始めた。何かがおかしい。

 カーターはそう思い、ここで降りると財布から取り出した紙幣を料金台に叩きつけたが、タクシーが止まることはなかった。

 窓を叩き割る事はできないかとカーターが考え始めたその時、ようやくタクシーが止まった。

 林に囲まれたやや開けた場所。何か狙いがあるに違いなかった。そう、恐らくは旅行者などを狙う悪質なタクシー。強盗。ついていない時はとことんついていないものだ。と、カーターは達観した気になった。それも正常性バイアスのうちだろうが。


「なあ、金は渡すよ。全部やる。ああ、この腕時計もいいぞ。だからさ、せめてもう一度道路の方へ戻ってくれないか?」


 ――バン!


 大きな音に体がビクッと震えた。タクシー運転手の男がダッシュボードを金槌で叩いたのだ。


 ――バン! バン! バン! バン!


 続け様に叩く。裁判長の木槌のように。

 いよいよ、金はとられても怪我はしないだろう、なんて考えは消え失せた。命。その危険まで感じた。


「開け、開け、開け開け開け……」


 カーターはドアとダッシュボードを叩きつける運転手を交互に見ながらドアを開けようと手を尽くした。

 そして、ドアが開くと雪崩のように車内から身を出し、地面に転がった。湿った土の匂いがした。


 ――こいつもイカれている。なんて夜だ……。

 

 逃げなければ。そう思ったカーターが足に力を入れて、立ち上がろうとした瞬間だった。


「はぁい」


 声のほうに振り向くよりも先に、体にのしかかった重みでカーターは地面に突っ伏した。

 聞き覚えのある声。

 ……キャシディ。なぜここに。

 その疑問を口にするには空気が足りなかった。首を膝で押さえ込まれ、うまく呼吸ができなかった。


「大丈夫ですか! カーターさん!」


 落ち葉を蹴る音、救いの声。ニールソンだった。

 体から重さが消え、カーターは大きく咳き込んだ。目を走らせるとキャシディが無表情で自分を見下ろしているのが見えた。


「息が苦しそうだ! 私に任せて!」


 そう言うとニールソンはカーターに自分の唇を押し付けた。

 青髭が肌に擦れ、女とするそれとは違うことをカーターに思い出させた。


「ど、どういうつもりだクソ野郎!」


 押しのけられたニールソンは尻餅をついた。

 そして笑い出した。キャシディもだ。

 悪夢の中にいるようだった。無秩序で理不尽な。

 その笑い声の中、カーターはタクシーのドアが開く音を聞いた。運転手が降りてきたのだ。

 月明かりの中、見上げた男の顔、その下顎はもぎ取られたようになかった。


「彼に見覚えは? カーターさん」


「は、は……? あるわけないだろう。それよりなんだ? 二―ルソン、お前まで、グ、グルなのかお前ら!」


「では、彼女には?」


 ニールソンは話を続けた。

 キャシディはブーツを脱いだ。義足だった。


「知らない、知るはずがない」


「ではこの写真の犬は?」


「それは……俺の、昔飼っていた」


「私の犬ですよ。カーターさん。アナタが撃ち殺した私の犬」


 カーターは口をパクパク動かした。視線はある一点を見つめている。


「彼らに見覚えがないのも無理はありません。

彼は大分痩せましたし、彼、いや彼女は見ての通り。

まあ、顔を撃たれた彼と違って、足を撃たれた事と見た目の変貌には関係はありませんがね」


 キャシディがハァーイ、と手を振ひらひら振った。


「ソイツをどこかへやってくれ! 蛙、蛙が……」


 カーターの目にはどこからか現れた蛙が映っていた。蛙もまたカーターを見つめている。

 それで、ふと頭に浮かんだ。


「……そうだ、俺じゃない! 俺は蛙が嫌いだ! 昔からな! 犯人は蛙が好きだったんだろう!?」


「いーえ、カーターさん。犯人は蛙が嫌いでした。それにアナタと同じく男色家もね」


 足を狙ったんじゃなく、蛙を狙っていた。

 蛙を追い掛け回す犬ではなく蛙を。

 太った警官は蛙に似ていた。倒れた姿にさらにそれを見出し、銃で狙いをつけていた。自分の父親を撃ち殺したように。

 カーターの脳裏にその日の情景がハッキリと浮かんだ。かかる息の温度も、汗で湿った裸体も。


「私は探偵となり、あなたを探しました。

未成年で更に父親からの性的虐待を受けていた貴方は法に守られ姿を隠した。

見つけてどうこうとは考えていませんでした。貴方が罪と向き合ってさえいればね。

しかし、貴方は全てを忘れ、自由気ままに暮らしていた! いえ、それどころか身勝手に!」


「蛙、蛙が……」


「……ただ、別に復讐しようと集まったわけじゃありませんよ。

不自由はありつつも、それなりに暮らしているわけですからね。特に、私なんて言ってもまあ、犬だけですから。ただ……」


「……ただ?」


「やはり罪には罰を。それなりのものを受けてもらわないとね」


「下顎と足と犬」


 ニールソンはカーターの体を指差した。


「犬、犬は飼っていない……」


「犬」


 カーターは二―ルソンが自分の胸の辺りを指差していることに気づいた。


「メス犬」


 カーターは胸ポケットに手を入れ、封筒を取り出した。

 震える手から封筒が零れ落ち、その封をニールソンが破り、逆さにして振った。

 中に入っていた写真が躍り出た。その写真を見た瞬間、カーターは込み上げた吐き気を止める事できず嘔吐した。


 写真に写っていた妻は死んだ蛙の様だった。


「奥さん、浮気はしていませんでしたよ」


 カーターはその場に突っ伏した。自らの吐瀉物に顔を沈めて動かなくなった。


「カーターさん? 気絶……したようですね」


「写真がトドメになったのね。良いアイディアだわ」


「ええ、気づかれないか心配でしたが。

タクシーのヘッドライトを消してくれたおかげで助かりました。この月明かりだけではよく見えなかったんでしょう」


「偽物……なのよね?」


「当然です。そこまでしませんよ。合成写真です。それで……いいのですか? 復讐は」


「ええ、いいのよもう。アナタは?」


 タクシー運転手は頷いた。


「だそうよ。さぁ彼はもうこのまま置いて飲みにでもいく?

色々と語ろうじゃないの。知能犯さんの話が聞きたいわぁ。キスに、蛙まで用意したなんて周到じゃないの」


「蛙?」


「彼、指差してたけど? アナタの目の前にいなかった?」


「ああ、でもいないと思いますが……私と彼の間には何も――」



 カーターがぬらりと立ち上がった。

 すでに正気を失ったようではあるが、蛙、蛙がと呟き、異様なまでの威圧感を出す彼を前に三人は、まるで蛇に睨まれた蛙の様に動く事ができなかった。

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