ノックの音

 ――コン、コン


 男が便座から尻を浮かせた瞬間、その音は鳴った。

 ノックの音だ。

 背筋に寒気が走り、自分の袋が縮み上がったんじゃないかと彼は思わず下を覗き込んで確認した。

 そして息を殺し、最大限に自分の存在感を消すことに努めた。尿の一滴さえ便器の中に落としてはならない。緊張の余り、唾を飲みたかったがそれも堪えた。

 なぜこのアパートの部屋の主たる自分がコソコソと。そんな思いが一瞬頭に浮かんだが、だからこそである。

 客は来ていない。何なら引っ越してから一度も。

 では、今誰がこのトイレのドアをノックをした?

 ……決まっている。泥棒だ。古びたアパート、入り易しと考えたのだろう。事実、ソイツはやってのけた。それはいい、このアパートのセキュリティの弱さを嘆くことは後にしよう。

 問題はソイツの性格だ。臆病か、それともキレやすいか。臆病な上に、キレやすいかもしれない。凶悪犯……考えれば考えるほど不安と恐怖心は肥大化していく。

 彼は臆病者ではない。己を奮い立たせ、トイレから飛び出し、犬のように顔を険しくしながら雄叫びを上げ侵入者に突進することも頭に浮かんだ。だが

『泥棒と出くわした住人、刺し殺される』

 ノックの音がしたその時、彼の脳内にそのニュース映像が鮮明に蘇ったのである。

 無論、その泥棒は逮捕されたから同一人物ではないことはわかっている。だが、それは大した慰めにはならない。同時期に同じ事件や事故は起こりやすいものだ。


 彼は静かにフゥーと息を吐いた。

 息継ぎだ。思考の海に溺れかけた。

 冷静に。そうだ鍵は……。

 彼はドアの鍵に目を向けた。大丈夫。鍵はかかっている、スライド式だ。ちょっとやそっとじゃ入っては来れないだろう。一先ずは安心していい。ここは安全地帯。

 しかし、好き放題物色されるのはいい気がしない。その間、自分は怖くてトイレに篭っていましたなんて警察に説明する未来を想像すると、憂鬱な気分。

 最良は、泥棒が部屋の物色に夢中になっている間にこっそりトイレから出て、その後頭部に一発お見舞いすることだろう。

 バットは玄関においてある。錆びた金属バット。子供の頃に使っていた物だ。今では侵入者撃退用。埃をかぶっているが問題ない。捨てなくてよかった。


 ……そろそろか?

 ノックの音から時間が経った。目を閉じ耳を澄ます。家捜しするような音は聞こえない。

 今、奴は何をしている? ひょっとしたらさっきの音は気のせいなんてことも……。

 西田はゆっくりと鍵に手を伸ばした。


 ――コン、コン


 その直後、またもノックの音。

 彼は目を見開いた。まさかずっとドアの前にいたのか? 俺がここにいることに気づいている? それとも念のために?

 荒くなる息遣いを聞かれぬように彼は手で口を覆った。

 もしかしたら考えている間に無意識にうーんとか唸っていたかもしれない。

 奴はそれを聞いていた? それともやっぱり気づいていない?

 そうだ、気づいているのならもうとっくに逃げているはずだ。ただの空き巣と強盗、それも怪我をさせた場合では罪の重さが段違いだ。当てが外れたのなら逃げたほうがいい。

 それとも金の在り処を聞き出したくて俺が出てくるのを待っているのか? それなら声をかけるはずだ。

 そうだ、やはり奴は確信を持っていない。そして今、耳をドアに押し付けてこちらの反応を窺っているのだ。

 ……いや、待て。だとしてもだ、なぜドアノブを回さない? ノックせずとも人がいるかいないかそれで確認できる話じゃないか。何故だ? 思いついていないだけ? いや、そもそもの話をするならばなぜノックなんてしたんだ? 開ければ済む話じゃないか。

 ……ごちゃごちゃ考えても無駄か。この狭い部屋に答えはない。真新しく、綺麗だが一晩過ごせるほど快適とまではいえない。少し、外の様子を見るだけでもするべきだ。


 そう考えた彼は便座から立ち上がり、ズボンを上げ鍵を開け、ゆっくりとドアノブを回した。



 そこには誰もいなかった。暗い廊下に漏れたトイレの明かりが、近くに侵入者がいないことを明示している。

 西田は玄関まで行き、錆びたバットを手に取ると手当たり次第に部屋の電気をつけ始めた。暗がりからネズミを追い出すような、そんな気分だった。

 しかし全ての部屋を(尤もそれほど多くは無いが)見て回ったのだが泥棒はおろかその痕跡すらない。

 確かにノックの音がしたのに……と彼はトイレのドアをバットで押し、閉めたあと小突いた。


 ――コン


 ――ドン!


 ノックが返ってきた。彼の手から床に落ちたバットが、カランカランと音を立てた。


 何故だ。中に誰もいなかったのは今、目にしたところだ。

 それに今の音。あの感じ……つまり……さっきの音は内側で鳴っていたんだ。

 古いアパート、しかし不釣合いに真新しいトイレ。その理由は、改装しなければならないほど汚れたんだ。


 瞬間。彼の脳内に鮮明なイメージが浮かび上がった。

 トイレの中で朽ち果てる老人。

 理由は知らない。持病だろう。死ぬ前に助けを求めて唯一出せた音があのノックの音。

 当然、誰に聞こえるわけでもなく空気に霧散した。

 自分はその位置にいた。

 老人が死んだ位置に座っていたんだ!


 彼はこみ上げる吐き気を便器の中にぶちまけたかった。

 しかし、ドアノブを握り、そこで動きを止めた。

 いる……。確実にいる。なぜだか確信があるのだ。お菓子の袋の膨らみ。見ただけで中身があるとわかるような存在感。自分が想像したとおりの痩せこけた老人の姿がそこにある。


 ――コンコン


 ノックの音がした。

 だが、目の前のドアからじゃない。

 今度は玄関からだ。


 ――バン!


 今度は窓を叩く音。


 恐らく全て、内側から……。

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