カウントダウン
男はその奇妙な現象に気づくと、ぴたりと足を止めた。
集中し考察するためか、それとも恐れを抱き足がすくんだのか本人にもまだ判断がつかない。
しかし、気のせいではない。自分とすれ違う人全員が、すれ違うその瞬間にだけ強調するように話し声を大きくするのだ。
「充! 分だってばぁ」
二人組みの女性とすれ違う際に片方がそう言った。
「く! るしいよその言い訳は」
これはカップル。
「蜂! とアブってどっちがどっちかわからなくなるよな」
これは友人同士。
「バ、ナナ! は朝食べるのが良いらしいわよ」
これは夫婦。
「ろく! でもないなソイツは」
と、ここで男はその法則に気づいたのだ。
「ご! めんてごめん」
これはたった今。道の真ん中で立ち止まっている男の横を電話しながら通過した女。
「仕! 事が忙しくてさ」
「散! 々だったよあの時は」
カウントダウン。もはや疑いようがない。
「に! くが食いてぇ!」
しかし、確信したところで遅すぎた。カウントはゼロに近い。そして目の前にはこちらに向かって歩いてくる人の姿が複数。
サファリパーク。裸でライオンの群れの前に放り出された気分。
男は恐怖で膝がガクンと揺れた。来る、来る。もうどうすることも……。
と、そのとき視界の端、横道があることに男は気づいた。民家の庭から伸びた木々が影を作り、薄暗くひんやりとした雰囲気。
せめて人通りが少ないほうへ。男はそう思い横道に入った。
「一! 番!」
弾丸のように走って来た子供とすれ違った。かけっこをしていたようだ。
まさにもう後がない。立ち止まろうにも後ろから人が来る。
前に進むしかない。そうだ、聞こえさえしなければ……。
そう考えた男は耳を塞いだ。
「冷 蔵庫の中にいるよ」
確かに聞こえた。吐息がかかるほど近い。
まるで手の平に口が生え、囁くように。
しかし、たった今の出来事なのにその吐息が冷たかったかも生暖かかったかも記憶に残っていない。
頭に残っているのは……冷蔵庫。ふと男が横を見ると、空き地に不法投棄だろうか、冷蔵庫が古タイヤと一緒に置かれていた。
これは罠なのか、それとも私を、あるいは僕を見つけてと助けを求める声だったのか。
開けるべきか……。関わるべきではない、か?
気にはなる。ひょっとしたらお宝が、なんてことも……ははは馬鹿な。
十。
去るべきだ。
九。
これまでの影響か男は無意識にカウントダウンを始めていた。それに気づくと力なく笑った。
八。
やめようとしたが頭に数字が浮かぶのを止められない。シロクマの事を考えるな、というやつだ。
しかし、選択を迫られた状況。結論を出すには都合がいいとも思った。判断は数秒後の自分に任せようというどこか他人事のような感覚を抱いた。
七――
だが、そのカウントが七を過ぎる前にゆっくりと扉が開き始めた。
曇り空から差す薄日が冷蔵庫の中に敷き詰められた青白い腕を露にした。
カウントは残っているのに、もう続けることできなかった。いや、もう向こうのは終わっていたのだった。
勢いよく伸びた手が男を掴む。もう指折り数えて待てないというように。
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