地下室のネズミ
その少年は吐き気を催していた。だが、それは車に乗っているせいじゃない。
ネズミ色の道路を走り続けても一向に目的地に着かないのは自分にとってそう悪くないことだ、そう思っていた。
彼にとって悪いことというのはこれから行く先。彼の祖母の家だ。少年は去年、その地下室で見たのだ。彼を見つめるネズミの大群を。
少年が何故、そのおぞましい光景を目にしなければならなかったのか、それはこの車の助手席に座る彼の姉のせいだ。姉は何が面白いと思ったのか、着いて早々に少年を地下室のドアの向こうへと追いやりドアを押さえた。
少年はパニックになり、必死にドアを叩いた。けれども返ってくるのは姉の笑い声だけ。目から涙が零れ、彼は鼻をすすった。だが、ないているのは彼だけじゃなかった。
キィーキィーという声。ひとしきり泣いた後、その声に気づいた少年は階段の下を見た。
暗闇の中、何かが蠢いていた。
少年は涙を服の袖で拭い、壁に取り付けてあった懐中電灯を手に取り、下を照らした。
すると、いくつもの丸い小さな光が一斉に点いた。それが彼らの目だと気づいたのはその時かその後か。
驚いた少年は足をすべらせ、階段を転がり落ちたのだ。そして、気絶した。彼の姉はその瞬間にはドアの前にいなかった。そして少年が目を覚ました後も。
だから目覚めた少年は折れた足を引きずり、木の板でできた脆そうな階段を慎重に上らなければならなかった。
姉は母親に叱られ一週間ほどは殊勝な態度で過ごしたが、すぐに元に戻った。
しかし、少年はというと骨折もそうだが、あの時地下室で見たもののせいで前のようにはいかなかった。
地下室とネズミ。その二つが彼の恐ろしいものリストに加わったのだ。それは一年経った今でも変わらない。
彼の必死の訴えも通らず、結局こうして彼らの祖母の家に来てしまった。
しかし、祖母の笑顔の出迎えにより、少年の暗い気持ちはいくらか薄れていた。来て良かったとまでは思えないけど、地下室に近づきさえしなければそう悪いことではない。お小遣いも貰える。少年はそう、前向きに考えた。
「ちょっと来なさいよ」
出た。彼の苦手なものリストのトップに君臨する姉。
ジュース片手にテレビを見ていた少年はしぶしぶ姉の後についていく。逆らうと状況は悪くなるだけだと少年にはわかっていた。
「ネズミがいたって嘘でしょ?」
「嘘じゃないよ」
あの日から何度か繰り返された問答だ。少年自身も見間違いだったのでは、という気持ちはあったが否定されるたびに意地になり、今では数千匹の巨大な大ネズミが地下室にギュウギュウ詰めになっていると頭の中の映像が脚色されていた。
「今見たらいなかったわ。ほら! アンタも見てみなさいよ!」
ネズミに関しては彼の祖母も母親も懐疑的だった。祖母が実際に確認したところ一匹もいなかったらしい。
少年が目を覚ましたとき、一匹もいなかったのだから、そう言われることは覚悟していたが数千匹はないにもしても、あのネズミたちはどこに行ったのか。
少年はドアの隙間から覗き見る。暗くて見えないが、確かに動くものの気配はない。
「行きなさいよ」
彼は姉に背中を押され、その体が沓摺りを完全に越えた時、ドアが閉められた。
学ばない姉。少年はわかってはいたがドアを叩いた。だが開かれることはなかった。
「ちゃんと下まで行きなさい。そうしたら開けてあげる」
何の権限があって、なんて逆らうのは無駄だ。少年は前のように懐中電灯を手に取り、階下を照らした。
なにもいない。舞う埃だけだ。
彼自身も薄々思っていたことだ。あの日見たものは恐怖のあまり作り出した幻覚だと。
だが、前向きに考えるならこれは良い機会だ。苦手なものリストから二つ消去できる。
地下室とネズミ。
勇気を出し、少年は階段を一歩ずつ下りる。深海探査艇になった気分だった。「ウィーン」や「ボコッコポコポ」とそれらしく効果音を付けた。階段が軋む度に黙り、また足が竦んだが、時間をかけ一番下まで辿り着いた。
あの日と変わらない地下室だ。祖母も普段立ち入ることはないと言っていたから変化がないのは当然か。
「下まで来たよー!」
少年はドアに向かって言った。少しの沈黙の後、返事があった。
でも、それはドアの向こうからではなかった。少年の姉は飽きてどこかへ行ったのだろう。代わりに後ろの壁からノックの音が聞こえたのだ。
――ドンッドッ
少年の心臓の鼓動が徐々に速まる。頭の中で考えがグルグル廻る。
気のせいかもしれない……。そうだったらいい…………確かめるべき? このモヤモヤを抱えたまま地下室から出るの? 家のベッドの中で思い出す? いやそれならまだいい。数年前、おじいちゃん(と言っても少年と血のつながりはない。祖母の再婚相手だ)が突然出て行ったらしく、おばあちゃんはいつも寂しそうにしている。泊まっていったらいいなぁとぼやくかもしれない。そうなれば僕は家鳴り一つ聞くたびに、飛び上がらなければならなくなる。ほんの数歩……。確認に一分もかからない……。
少年は壁に近づいた。耳を当てようとしたのだが足を大きな箱にぶつけ、ヒッと声を上げた。
重い。道具箱のようだ。
「ふぅー……え?」
力を入れ、どかした少年。すると驚いた。箱が置かれていた場所の壁に穴があいていたのだ。
少年はハッと気づいた。これは彼らの出入り口だ。あの時、ネズミは確かにいた。そしてそれらは階段から落ちた僕に驚き、穴の中に。臆病な彼らはそのまましばらくは出てこなかったのかもしれない。
その後、おばあちゃんはこの地下室に来た時にこの穴を見つけ、近くの箱で塞いだ。そしてそのままずっと……。
――ドン!
壁を叩く音に少年は爪先から頭のてっぺんまで震え、後ずさりした。
壁から砂がパラパラと落ち、埃が舞った。
穴から声が聴こえる。騒がしい、興奮したような声。
それを前になおも少年は考えていた。
閉じ込められた彼らは何を食べていた? お互いを? それでも、おなかを空かせているかもしれない。それに同じ味に飽き飽きしているはずだ。そんな時に地下室に降りてきた間抜けな子供の匂いに気づき、壁の向こうでヨダレを垂らしているのかも……。
――ドン!
また壁が叩かれた。
壁に亀裂が走り、小さな穴があいた。
彼らは飢えている。間違いなく。
また一歩後ずさり。と、ふと少年は妙なことに気づいた。
亀裂が入った少年の前の壁だけ、色合いが他と僅かに違っている。まるで一度穴を開けてまた埋めたみたいに。
今、また壁が崩れた。あいた穴は拳一つ分ほどだろうか。
少年はその穴に懐中電灯の光を向けた。
蠢くネズミ。そして、その中に汚れた服。それを着ているのは骨。ネズミたちがよじ登り、その寂しい隙間を埋めるように纏わりついては離れてを繰り返している。少年にもあれが人骨であることはわかった。
少年はその場で叫び出し、祖母を呼びたかった。
だが、息を大きく吸い込んだところでやめた。
少年は壁から離れた。足首をひねりかけたが、目は壁に向けたままだ。一瞬だが壁が迫り出したように見えたのだ。
それは気のせいじゃなかった。壁の欠片が落ちる音。そして……。
ショットガンで撃ち抜かれたようにバン、バン、バンと壁に穴があいた。
そしてそこから飛び出すネズミたち。その勢いで穴から亀裂が広がり、壁はついにダムが崩壊するようにに大きく崩れた。
ネズミが少年の足に、肩にのぼる。重い。そして大きい。少年が小柄だからではない。バラつきはあれどウサギほどの大きさのネズミが少年の耳に甘く囁いている。
少年は必死に体を振り、ネズミを落とした。
得た自由に狂喜乱舞するネズミをかわし階段を駆け上がり、ドアを閉めた。
体にはまだネズミの感触が残っている。耳には声、鼻にはその臭いも。ドアの向こうでは絶え間なく彼らの嬌声がしていた。
地下室から出た少年は姉と祖母を探した。できるだけ静かに、足音を立てないように気をつけながら。
それほど大きな家じゃない。そう時間はかからなかった。何より、音が彼を導いた。
革で何かを叩く音。その音の近くで姉を見つけた。それとネズミも。巨大な、とても巨大な。
初めてあの地下室でネズミを見たあの日、家に帰ったあと少年はネズミを図鑑で調べた。知ることは恐怖を和らげることと、前に学校の先生が言っていたからだ。
残念ながら大した効果はなかった。でもおかげで彼はネズミに少し詳しくなった。だから知っている。
くすんだピンクの肌。たるんだ皮膚。うっすら生える毛。巨大なハダカデバネズミ。一瞬だが確かにそう見えた。
でも、祖母だった。
裸になった彼の祖母が、下着だけを身に着けた姉を革のベルトで叩いている。
少年は途端に理解した。台風の翌日の空みたいにハッキリと。
姉は僕を守りたかったのだ、と。
ドアを閉める意味は閉じ込めるだけじゃない。大事なものをしまっておいたり、隠しておくために。
「いいかい、これは躾だからね! わかった!? 私も父親にこれをやられて立派に育ったんだ!
……さぁて、アンタはもういいよこれで。さぁ弟はどこだい! 去年はし損ねたからねぇ」
少年は母親のことを思い浮かべた。
このことを知っているのだろうか。いや、知るはずがない。そう思いたい。
もしかしたら感づいていたかもしれないけど言えなかったのかもしれない。父親がいない僕らの家は貧しく、おばあちゃんからの援助がないと暮らしていくのは厳しいのかも。……いや、今、考えるべきことは。
少年はその場からそっと離れ、地下室にドアの前に来た。
そして中に入り、ドアに向かって叫んだ。
「おばあちゃん! きて! ぼく、地下室にいるよ!」
これまで大声を出すのをこらえていた分、スッとした気持ちになった。
だが浸っている暇はない。少年はすぐに外に出てドアを閉め、物陰に隠れた。
「いまぁ行くからねぇ」
少年の目に祖母が弛んだ皮膚を揺らしながら歩いてくるのが見えた。
ペタペタと足音を立て、鼻がヒクヒク動いているようだった。
醜悪極まりない彼の祖母はドアに手を掛け、開けた。
少年はその瞬間、物陰から飛び出し、その背中に思いっきり体当たりをした。
ヒッという一瞬の悲鳴のあと、凄まじい音がした。
肉がぶつかり何かが折れる音。
少年は今しがた聞いた音を頭の中で整理しようとしたが、地獄の底から突き上げるような怒鳴り声ですべて吹き飛んだ。
「降りて来い! クソガァァキィィィィァァァァァ!」
その耳を劈くような叫声に少年は慌ててドアを閉めた。
その後も同じような言葉で繰り返し怒鳴り散らす祖母の声。少年はその台詞に恐怖し、そして少しホッとした。
きっと上がれないのだ。さっきの音。階段、あるいは足の骨が折れたのだろう。それでも、あの怪物は執念で上がってくるかもしれない。
そう考えた少年はドアが開かないように体全部を押し付けた。
古い木の香りがした。その後で、ふんわりと石鹸のような匂い。姉のシャンプーの匂いだ。後ろからやってきた姉も一緒にドアを押さえたのだ。言葉はなかったが、少年は姉と気持ちが通じた気がした。
一方、地下室では彼の祖母が息を切らしていた。
散々怒鳴った後で頭がクラクラしていた。
クソッと悪態をつき、階段を見上げ、そして下を見下ろす。
暗い。だが目が慣れてくると足が完全に折れていることがわかった。
唾を吐き捨てる。そのピチャッという音は掻き消された。
彼らの鳴き声によって。飢えたネズミたちは一時、その怒号により闇に身を潜めていた。
だが、それが無くなった今、祖母に向かってにじり寄らない理由はどこにもない。
「なんだい! なんなんだい!」
出て行ったとされる少年の祖父を殺したのは祖母だ。夫を殺し、壁に開けた穴の中に放り込み、その壁を雑に埋めたその時点で、元々地下室をねぐらにしていた数匹のネズミもその穴の中に入り込んでいたのだ。
自分たちを惹きつけた少年の祖父の肉を食らい、暗い中で彼らは平和に暮らしていた。
やがて壁にあいた穴から外に出たが、少年が階段から転げ落ち、斬りつけるような懐中電灯の光に恐れをなし、巣穴に隠れたところを少年の祖母が唯一の出入り口を箱で塞いだ。
その後、飢えて死んだものを食らい、そしてまた繁殖し……それを繰り返していた。
ネズミたちにとって少年の祖母は上質な食料を与えてくれた恩人であり、また、自分たちを閉じ込めた、仇敵でもあったがネズミたちがそのどちらも理解することはない。
ただ飢えた体の目の前にいる餌としか見ていなかった。
一匹のネズミが折れた足に食らいついた。
祖母は悲鳴を上げたあと、ネズミを掴み上げ、壁に向かって放り投げた。
足から流れた血の匂いが彼らの空腹感を刺激した。そして投げつけられたネズミは何てことはない、と祖母を取り囲む一群の中に戻った。
その瞬間、群れは目の前の肉を完全に餌だと認識した。足から背に、肩に顔に歯をつきたてる。先程の怒号にも負けぬ声量の悲鳴であったが意に介さなかった。
やがてその悲鳴もネズミたちの喜びの声に劣った。服を着ていないことがより彼らの食事を容易にさせた。
祖母は倒れ、コンクリートの床に鼻を打ちつけた。背中に、腕に食らいつく。指を引きちぎり口内を、胃を満たしていく。彼女は自分の肉が咀嚼される音をその耳で聞いていた。やがてそれしかできなくなった。ネズミは共食いする。この地下室のネズミは特に。
祖母の怒号が聞こえなくなると少年はドアに耳を押し当てた。
ネズミの鳴き声が聞こえた。歓喜の声。
「ネズミ、いたでしょ」
少年はわざと「それ見たことか」と鼻を上げ、姉にそう言った。
姉は笑みを作ったあと、コツンと少年の額を叩いた。
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