椿の遺言

 まるで断頭みたい。

 庭の椿の花の茎にハサミの刃を当てながら少女はそう思った。

 その花を物憂げに見つめ、思い浮かべるのは近所の犬。


 ……これがあの犬の頭だったら。

 あのお馬鹿な犬は私が家の前を通ると、必ず吠えて柵に飛びかかる。嫌い。大嫌い。イライラする……。

 でもだからといって、椿に八つ当たりしようとしているわけじゃない。部屋に飾るため。そう、なんとなくの思い付き。

 ……だったのだけど、こうして椿の花の茎に刃を当てていると、自然と巨大なハサミで犬の首を挟む想像をする自分がいる。


 少女はウリウリと挟み、弄ぶ。

 微かな笑み。けれどすぐに馬鹿馬鹿しく思い、ため息を漏らした。

 手に力を込めるとパチンと音がし、椿の花は地面に落ちた。

 花びらが二枚、花から離れ、首から吹き出た血みたいだと少女は思った。


 犬は翌日死んだ。正確には朝、気落ちした飼い主が近所の主婦たちと話している内容を少女が学校に向かう途中に耳にしただけなので、昨日か今朝、いつ死んだのかはわからない。

 少女は慰める主婦たちの顔に押し隠すような喜びが見えた気がした。


 少女はその日の授業の内容をいつも以上に上の空で聞き流した。

 ただ自分の中に芽生えたある思いが養分を吸い上げ成長していくのを感じていたのだ。雑音さえもその養分。

 少女は学校から帰るとすぐにハサミを持って庭に出た。椿の木の下には前日切り落としてそのままにした花が少し萎れていた。

 少女は目を閉じて同級生の顔を思い浮かべる。


 ただただ不快なだけ。それだけ。でも消えてくれるならそれがいい。

 私が彼らを不快に思うか彼らが私を不快に思うか、どちらが先だったのかは覚えていない。ただ無視してくれればいいのに、ちょっかいをかけて来るのがひどくストレス。

 ……嫌い。

 嫌い。嫌い。

 嫌い嫌い嫌い……。


「あらー? 何してるの?」


 陰気な花占いの最中、少女はバッと声のしたほうに振り向いた。

 そこにいたのは隣の家のおばさん。不思議そうな顔をして見つめてくる事に少女は強い不快感を抱いたが、今は疑問が勝った。


 なにってなに……?

 私はべつになにも……あ。


 椿の木を見ると、少女の目の前で咲いていた筈の花は一つもなかった。

 足元で何かが蠢く気配。足首を虫が這い上がるような感覚がし、少女はバッと目を向けた。

 すると目が合った。

 ミニサイズの同級生の生首。少女を乾いた目で見上げている。口を鯉みたいに動かし、中にはニヤつく顔もあった。

 畳み掛ける不快感の波に吐き気が喉まで込み上げ、少女は家の中に逃げるように入った。

 少女は洗面台に向かって咳をしたが、花びら一つほどの胃の内容物も出なかった。

 捻った蛇口から勢いよく水が流れる音。それが僅かに落ち着きを取り戻させた。


 ……落ちた花を母が見たらきっと怒る。大事にしなさいって。

 でもどうでもよかった。明日学校へ行き、いくつもの空いた席を見て、作ったような悲しげな顔をした担任の教員の口から悲しいお知らせと題し、事を告げられることがただただ楽しみ……。


 明日への期待を胸に少女はその夜、いつ以来かの平穏な気持ちで眠りについた。



 翌日、相も変わらず騒がしいクラスで少女は自分の席で頬杖をついて次の授業の教科書をパラパラ捲っていた。


 ……期待はずれ。当然といえば当然かな。犬の件はただの偶然――

 

 カスッと何かが背中に当たり、振り返ると、男子と女子の一塊のグループが少女を見て笑っていた。

 少女のすぐそばには丸められた紙。


 猿が糞を投げるのと同じ。

 ここは檻だ。


 不快感を露にしながら少女が前を向き直したその時であった。


 ――ゴトリ


 少女の背後で何かが床に落ちた音がした。

 続けてもう一つ、さらにもう一つ。

 少女の後ろを見つめるクラスメイトたちが一斉に悲鳴を上げた。それは途絶えることなく続く。薪をくべるように音がする度に大きく。

 ――いち、に、さん

 その騒ぎの中、少女はその音の数を指折りで正確に数える事に集中していた。

 その音が止み、悲鳴だけになったとき少女は折った指の数を見た。

 丁度、切り落とした椿の花の数と同じであった。

 後ろを振り返ると、少女は思わず目を丸くした。驚きというよりは目に焼き付けようとしたのかもしれない。どこか見覚えのある美しい断面であった。そう、まるで切った花の茎と同じ。

 ゆらゆらと風もないのに揺れたと思えば膝から崩れ落ちる首無しの茎。血溜まりに倒れ、ビシャッと跳ね上げた血は少女の足元まで飛んだ。彼らの服に血が染みこんでいく。まるで椿が蕾を開くように真っ赤に広がる。

 少女はその光景にどこか感動を覚えつつ、笑い声をあげるのを必死に堪えた。

 しかし、顔が綻ぶのはどうしても止められなかった。ゆえに手で顔を覆い、誰にも悟られないようにした。ただ指の隙間は少し開け、その光景と鳴りやまない悲鳴を脳裏に焼き付けた。


 学校は閉鎖され生徒は全員、帰宅を促された。

 後日、警察による軽い聞き取りがあるらしい。保護者と共に帰宅する生徒が多かったが、少女は仕事場から向かう母を待つ気にはなれず、さっさと帰宅した。その理由。何よりも椿を見たかった。


 すごい武器を手に入れた。私だけの。


 逸る気持ちに歩調も速まる。

 その足が動きを止めたのは庭の椿が少女の視界に入ったときだった。

 葉が萎れている。

 椿は枯れかけていた。


 少女は崩れ落ちるように地面に膝をついた。

 どうして? なんで?

 少女の頭に浮かぶ疑問。


 花を一度にたくさん切り落としたのがいけなかったの? 力を使いすぎたと言う事?

 他の椿ではきっと駄目。アレは私の生まれた日に同じ名前だからと植えられたこの椿だからできた事なんだ。水をあげたころでたぶん無駄。もう死ぬだけ。


 風が吹くと葉が揺れ、一枚、また一枚と地面に落ちた。手を振り、涙を零しているようであったが少女が大きく見開いた目に涙はない。

 少女は見つけた。急速に茶色くなっていく葉。その中に色。赤い色。椿の木のてっぺん近くにそれはあった。

 花だ。まだ一つだけ残っていたのだ。

 少女はすぐに駆け寄り、片方の手で木の幹を掴むと体重を預け背伸びし、もう片方の手を目一杯伸ばした。

 ボキッ、ボキ、ガサガサと椿が悲鳴を上げる。少女は邪魔な枝を腕で押しのけ、へし折り上へ上へと。


 あともう少し……あっ!


 少女の指先が花に触れたとき、ポロッと花が落ちた。

 少女はとっさに手でそれを掴み、握り締めた。


 良かった……あと一回分……。


 ほっと一息。

  

 だが。

 

 手を開くと小さな生首と目が合った。


 私の顔。

 笑っている。

 なんで?


 吹いた風が少女の手から花を奪った。

 花が宙を舞い、そしてスローモーションで落下していく。


 誰の顔も思い浮かべなかったはず。何も考えなかった。自分のことだけ、自分の……。


 花が地面に落ちた。

 視界がぐるんぐるんと回転する。

 頬が地面に触れ、それはようやく止まった。

 少女はパクパク口を開いたが、声はスッパリ断たれたように出せない。

 椿、椿は……と、少女は精一杯眼球を動かし、目の前にある椿を見上げた。

 枯れた葉がまた一枚、ゆらり落ちていく。


 ああ、朽ちていく……。

 お別れもできず。

 何も残せないまま。

 遺言すらも。

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