少年の姉
お香の煙が四箇所から立ち昇る和室。
その中央に敷かれた座布団に座っているのが少年の姉。
蝋燭の灯りに照らされていても、その肌は白いことがわかる。柄のない真っ黒な着物を着て、普段は流している艶やかな長い黒髪は飾りがついた簪で後ろに纏めている。その下ろした視線はどこか物憂げで、そして色っぽい。
少年は廊下に膝をつき、僅かに開いた襖から息を殺して覗き見ていた。
今、胸を満たしているのは姉の事。姉弟であるのに似ても似つかない……と行かないまでもパーツの配置や微妙な違いのせいか平々凡々な自分の顔。劣等感はない。姉への嫉妬心も。
少年は知っているからだ。その姉には美人特有のある悩みが付き纏っていることに。
それはストーカー。そうではあるが少し違う。
生霊だ。少年の姉のもとには毎晩のように生霊が現れる。
昔の同級生。買い物した店の店員。すれ違った人。姉を一目見た異性は(時々同性も)その心の中の余白を姉への想いで埋めることになる。そんな彼らは実際に姉を付け回するが、姉は慣れたもので、たやすく撒いてしまう。
そうして少年の姉への思いを募らせた彼らは、意図してかせずか生霊を姉に向けて飛ばすというわけだ。
そのせいで少年は幼い頃に夜中、廊下で彼らを見て、トイレにいけず部屋に戻り震えたことが何度もあった。
いくら想いが強いと言っても、流石にそう長い期間はとり憑けないようだが、ひっきりなしに現れるので少年が怖く感じることに変わりなかった。
しかし、ここ数年は少年の姉が対策を見つけたようで生霊を見かけることもほとんどなくなった。
その対策というのがコレらしい。姉は見るなと言っていたが、どうしても気になった少年はこうしてコッソリと襖から覗いているというわけだ。
……と変化が起きた。少年は目を凝らし、集中する。
お香の煙が不規則に揺れ始め、そしてその中から水面の波紋が収まり、覗き込んだ自分の姿を映すかのように、三人の男が姿を現した。少年は一人一人、分析する。
あれは……どこかの会社員か。電車に乗ったときかな? もう一人は書店員っぽい。三人目は高校生くらい? ……いや、中学生! クラスメイトだ! 顔に見覚えがある!
のっそりと立つ三人。その目は虚ろだが少年の姉のことをしっかりと見つめている。
さて、ここからだ。姉はどうやって彼らを祓うのだろうか。拳を突き出して『破!』とでもやるのでは。と似つかわしくない、勇ましい姉の想像して少年は思わず笑いそうになった。
少年の姉はゆっくりと立ち上がり、会社員の男のそばに。そして大きく口をあけ空気を吸い込み始めた。
深呼吸? 準備かな?
少年はそう考えたが、すぐに違う事に気づいた。
吸い込んでいる。姉の口の中にズズズズッと男が頭から吸い込まれていく。まるで風船がしぼむみたいに手も足も小さく捻じれながら、あっという間であった。
同様に他の二人も吸い込んだ姉は満足気な笑みを浮かべた。蝋燭の灯りに照らされたその頬はほんのり赤く、火照ったように見える。妖艶。色気が増したように思えた。唇に指を添えるその仕草に少年は思わず息を呑んだ。
これが美の秘訣だろうか? 増々、彼らを惹きつけそうだけど、それもまた狙い? そう、少年が思った時だった。
目が合った。
怒られると思った少年は襖から素早く顔を離し、後ずさりした。背が壁に沈む。そして小さな足音。襖が開き、姉が少年を見下ろす。暗くてその表情から感情は読み取れない。少年はただ震え、何も言い出せずにいる。
「……どこにも行かないでね。捕まえるから……必ず」
少年の姉は静かにそう言った。
少年は思った。姉さんは僕が恐れ、家を出て行くとでも思っているのだろうか。ない。だって僕は姉さんのこと……。
その時であった。少年は前に感じた感覚。恐怖が忽然と込み上げてきた。
それは廊下の先。幼き頃と同じ、トイレに行く道すがら出くわした生霊。違う、もっと最近……。
少年が横に視線を向けたことに姉も気づき、廊下の奥、闇に目を凝らす。
その目を見開くのが先か、後か。
動いた。
それは少年でも姉でも生霊でもなく、男。
生きた男であった。その証明は手に持つ包丁。それは次第に開け放たれた襖から廊下に差し込んでいる蝋燭の灯りに染められていく。そしてそれはより色濃くなるであろう。姉の血によって。
血に塗れた包丁。その繊細なイメージが頭に浮かび、少年が動いた。
蝋燭の灯りと共に廊下に漏れ出ているお香の煙がふわっと舞う。
煙を身に纏う少年。それを目にした男が悲鳴を上げた。
「な、なんでお前が!」
すると、少年はピタッと動きを止めた。違和感。しかし今はそれどころではなかった。
今度は姉が動いた。少年の姉は髪から簪を引き抜くと、腰が引けている男の顔に振りかざした。
絶叫が廊下に轟いた。男の眼球に刺さった簪の飾りが揺れる。
男は泣き叫び、悶え、そしてフラフラと廊下の奥へと逃げていった。
少しすると窓ガラスが割れた音。どうやら外の道路へ逃げたようだ。
男の怒号と泣き声。通行人の戸惑いの声がここまで聞こえた。やがて騒ぎは警察の耳にも届くだろう。
ホッとした少年と姉はその場にヘタヘタと座り込んだ。
二人は笑い、笑った。しばらく笑った。そして笑いが収まると少年は「ありがとう」と呟いた。
流れ出ているお香の煙が少年の体を包む。
少年は自分の手足が煙と溶け合うような奇妙な感覚にとらわれていた。
しかし、恐れはなかった。
和室の仏壇に自分自身の写真を見つけても。
白煙が視界を覆っても。
少年は姉に向けられた笑顔を想い、意識が糸を垂らし下降していく蜘蛛のようにゆっくりと落ちていった。
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