蚊帳の外
真夜中、ジョギング中に何やらこの夜に似つかわしくない声が聞こえた。
青空の下、少年野球の試合の掛け声のような元気いっぱいの声だ。
近くの公園の隣には確か野球ができる場所があったはずだ。
しかし、家を出た時間から考えるに今は夜の十一時を過ぎていると思う。
こんな時間まで練習? 流石に夜遅すぎるだろう。
それとも試合? 延長戦? 親は?
気になった私は公園まで行くことにした。
照明も落ちて暗闇、野球スペースを囲むように設置された緑色のネットの中でボワッといくつか白いものが動いている。
一瞬ゾッとしたが、あれは少年たちのユニフォームだ。靴下と靴は黒いためか足がないように見えたがちゃんとある。
そのネットの外で一人の女性が少年たちを見守っていた。誰かの親だろうか。一人なのは気になるが暗さのせいで見えないだけだ。目を凝らすと向こう側にも一人いた。
と、せっかく来たので私もネットに近づき、少し眺めることにした。
カキーンと白球を飛ばす音が耳心地良い。私自身、野球の経験はないが見るだけならそこそこ楽しめる。
「あの……」
「えっ、あ、はい……」
と、眺めているとあの女性が私に声をかけてきた。不審者扱いされるのかと思い、身構えたがそうではないらしい。
話を聞くにどうやら今日の試合は手術を控えたチームメイトのためのものらしい。言われてみればユニフォームが一チームのみのように見える。おそらくレギュラーだけではなく、普段ベンチの選手も混ぜて試合を行っているのだろう。
手術を控えた少年というのはあの一番細身で小柄の少年か。体調を崩さないのかと親でもないのにハラハラしてしまう。
部外者の私が見ていても良いのかと訊ねるとぜひ一緒に見て欲しいと女性は言った。
その説明の中で「うちの子のために集まってくれた」と言った事から、この女性がその手術を控えた子の母親らしい。
なるほど気苦労が耐えないのか少々老けて見えた。無論、それを指摘するほど無礼者ではない。
私はその母親とともに少年たちの試合に見入った。
闇夜の中を駆ける白球。よくもまぁ追えるものだなと感心する。少年たちの積み重ねた修練の賜物なのだろう。一人ひとりが眩しく見えた。
一番の長身の子がバッターボックスに立つと空気が変わったように思えた。
隣の母親も祈るように手を合わせている。恐らく彼がチーム一番の強打者。今は同点。ここが勝負の分かれ目なのかもしれない。それを肯定するかのように両チームの選手が大きく声を張り上げる。
……ストライク。
……打った! ……ファールか。
……スト、ボール。
すごい緊張感だ。ピッチャーの子の息遣い、心臓の音が聴こえてくるようだ。
思わず握っていた拳。汗をかいていた。
と、あ……ボールが……ネットに当たった。当たった!
遥か上部。文句なしのホームランだ。
私と母親は拍手で彼を称えた。
少年はこちらを向き、ガッツポーズを見せた。
「ありがとうございましたー!」
互いに列になり、一礼した少年たちは顔を上げると笑い合い、ワチャワチャと混ざり合った。お互いの体を叩き、健闘をたたえあう。それは手術を控える子の激励を含めているのだろう。
私は小柄な少年を見つめ、次にあの母親に声をかけた。
「手術、成功するように祈っています」
「……それはもう大丈夫です。
それより一緒に見ていただきありがとうございました。
私たちだけじゃ不安で……でも、おかげでほら、成仏できたようです」
成仏? それを聞いた私は少年たちのほうに振り返った。
あの小柄な少年はそこにはいなかった。
それどころか他の少年も。
残っていたのはたった一人。
ホームランを打ったあの一番の長身の少年。
少年はネットから出て、私たちに近づく。
「……終わったよ母さん」
涙声だった。
成仏……少年野球チーム……。
ふと、私の脳裏に昔見たニュースが甦った。
地元の少年野球チームを乗せたバスの事故。
乗っていた者は監督以外全員死亡した。
手術のために入院しており、事故を免れたあの親子はチームメイトの少年たちの心残りを晴らすためにここに来たのだろう。
私はどうやら母親の説明を聞き間違え、自分で納得できるよう話を挿げ替えていたようだ。しかし、そうと分かればこれは心温まる感動的な話……なのだろうか。
母親と少年が握手を求めてきた。私はある煮え切らない思いに駆られながらそれに応じた。口に出すほど無粋ではない、が……。
握手を終えた親子は一礼をして公園を立ち去った。
あの親子の記憶の中ではいつまでも素晴らしいチームメイトとの日々が刻まれ、今日のことは人生の彩として箱にしまうように大事に保管、そして時々見返すのだろう。
事故の前にバスとすれ違った対向車の運転手の話ではバスの中で少年たちがひどく騒いでいたらしい。窓から身を乗り出す少年もいたそうだ。
奇跡的に助かった監督に何故注意しなかったのか事故は防げなかったのかと、そういった声も上がったが「そんな事実はない」「バスの運転手の操作ミス」と涙ながらの訴えにその声は退いた。
しかし、彼らは試合の勝利に浮かれていたのだと私は思う。
少年たちも監督も。
もしかしたら、車内で軽くキャッチボールをしていたのかもしれない。
そしてそれが原因で……。
グラウンドに残された一つの野球ボール。
闇の中で白くぼんやりと魂のように見えるその向こう。
緑のネットの外でバスの運転手らしき男が恨めしそうにそのボールを見つめていた。
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