卵を貴方に

 百黒健吾は天井を見ていた。

 彼は今、事務所の黒いソファーに仰向けに寝そべっている。

 理由? 退屈だからだ。彼が営む探偵事務所に来る依頼は月に二回程度。無論、それで順調と言えるはずもなく、貯金を切り崩し、また、時々の日雇い労働で凌いでいる。


 手持ち無沙汰だな。スーパーボールでも買おうか。探偵らしからぬ無意味な思考。脳の無駄遣い。そんな無駄働きの悪い脳は酒にでも浸してやろうか。いい味になる。そうしよう。

 彼がそんな事を考えていた時だった。

 事務所のドアが勢いよく開いた。健吾は寝そべったまま、顔を少し傾け目を向ける。


 ――女。

 ――薄いピンク色のショートヘア。

 ――小柄。

 ――胸は中々。

 ――依頼者……依頼者!


 スイッチを入れ、フル回転させた脳に体のほかの部位も連動する。シャキッと立ち上がり、顔を引き締め、健吾は笑顔を浮かべた。


「ふぃらっしゃい、どのようなご依頼を……」


 噛んだ。そこそこ頭が切れる探偵と言えど、中年の健吾の舌は肉体の突然の再起動にまだついてこれてなかった。

 プッと軽く噴出し笑う女性。それにつられて健吾も照れ笑いした。


「久しぶり、健吾」


 はーっと笑い疲れたように息を吐いた女性が呼吸を整え、そう言った。


 ……久しぶり? 誰だ。まったく覚えていないが……顔に出すのはまずいな。

 健吾はそう考えたが


「覚えてないんだ……」


 手遅れだった。健吾はむくれる女性に拝むように手を合わせる。

 その女性はカナエと名乗った。そのカナエが言うには以前助けてもらったとか。健吾はまったく覚えていなかったがカナエが小さかった頃の話かもしれない。それなら見覚えがないのも無理もない。女性の成長というものは目を見張るものが……。


「どこを見て、何を考えているの?」


 むくれ顔で胸を手で隠すカナエ。健吾は目を逸らし、話題を変えるため小さく咳払いし、なんの用で来たのか訊ねた。


「実は……恩返しに来ました!」


 狐か鶴か、それとも白鷺、いや結婚詐欺なら赤サギか……。

 顎ヒゲを撫でながらそう訝しがる健吾。何を考えているのか察したかのように、カナエが上目遣いで言葉を付け加えた。


「いやー、ちょっと住む場所に困ってて……」


 そんなことか。じゃあ不動産屋を紹介してやろう。そんな健吾の考えを見透かすようにカナエは更に言葉を繋ぐ。


「ここに住んでいいかな?」


 ここは健吾の事務所兼住居だ。二人で暮らすには狭い。その上、金には困っている。養う余裕なんてない。

 健吾はそう断ったのだが、家賃は半分払う上に生活費等も手助けするとの事。

 虫のいい話だ。何か裏があるに決まっている。健吾はそう考えたのだが、家賃折半は魅力的だ。それに狙いがあるのなら名探偵らしく看破してやればいい。

 胸を張る健吾。快く承諾した。


 カナエは仕事を呼び込む幸運の女神……というわけには流石に行かなかったが、寂れた事務所に花を添える、そんな役割は十分担った。

 そのおかげか依頼は微増。結局、時折の日雇い労働はかかせなかったが、弁当作りや家事をしてくれるなど生活は格段に華やかなものとなった。結局、恩返しの鶴のような形になったなと健吾は笑った。


 ある時、健吾が帰宅するとシャワーの音が聞こえた。覗くわけない。その辺は尊重すべきだと考えていた。寝室に向かって、部屋干ししてある自分のシャツなどを回収する。

 この寝室は主にカナエの部屋となっている。健吾はソファーで寝ているが、特に不満はない。あのソファーだけはお金をかけたこともあり寝心地がいいのだ。

 とはいえ流石にベッドには勝てない。久々に寝転びたい衝動に駆られ、健吾はその衝動に従った。


 クシャ


 何かを潰した音。

 これは……卵か。

 健吾が布団をめくるとそこに四つの卵があった。大きさと形状からして鶏の卵だろう。

 卵好きなのは普段の料理からわかるが何故ここに? 

 暖めて孵化させようとしていたのか? はっ、馬鹿な。まあ、面と向かってそう言われれば可愛いと思ってしまうだろうが……。と、健吾が思考をめぐらせている間も白身がシーツに染みていく。


 ――もったいないな。


 貧乏性故そう思った健吾は卵を殻ごと両手で掬い取り、キッチンへ向かった。

 フライパンの上に乗せ、殻を取り除く。


 ――焼けば問題ないだろう。

 

 健吾はコンロのスイッチを入れた。ジューッと耳心地の良い音を聞きながら、目玉焼きか卵焼きかどちらにしようか考える。


「あ、卵!」


 シャワーから出てきたカナエの髪はまだ濡れていた。火照った顔。血色の良さが窺えた。健吾は事のあらましを説明したが、何故、卵をベッドの上においていたのか訊こうとは思わなかった。いや、思えなかった。

 健吾の頭の中はカナエの事しかなかった。白い肌、滴る水。澄んだ声。視覚から体の柔らかさが伝わる。そう、自分がカナエにとっくに惚れていたことに今気づいたのだ。


「そっか……それならしょうがないね」


 説明を聞いたカナエは微笑む。健吾がつい手を握ると一瞬動揺を見せたが、優しく握り返し、また微笑んだ。


 翌朝、目を覚ました健吾の隣にはカナエの白い背中があった。

 それを指でなぞる。まだ眠っているようだ。

 朝食の準備をしてやろう。ベッドで一緒に食べるのも良いな。そう考えた健吾は体を起こす。


 クシャ


 足のあたりで何かを潰したような音がした。そして広がる湿り気。

 ……卵だ。

 また? 昨日寝る前にはなかったはず。

 健吾は掛け布団を下から上にゆっくり捲った。

 カナエの白く美しい足。それが露わになっていく。


 そして……ゴロッと転がる白い卵。それが八つ。

 やや、ぬめりがありそうだ。健吾は茫然とそれを見つめた。


 まさか……産んだ? じゃあ今まで食べてきた卵は……。

 そう思考した途端、健吾は口を押さえた。

 逆流する胃液をなんとか押し込んだが代わりに喉が痛んだ。吐き気は治まったがヤカンが音を立てて沸騰するように健吾の思考は止まらない。


 ――何故食べさせた?

 ――自分の子供では?

 ――孵らない?

 ――無精卵……無精卵!


 健吾はカナエの背を見つめた。

 まだ眠っている。白い背中。ニキビやシミなど一つも見られない、造られたような肌。不気味さにこちらが皮膚をゾワリと撫でられた気になる。


 鶴の恩返し。健吾は唐突にその昔話を思い出していた。カナエは以前健吾に助けられたと言っていた。

 しかし、聞いたときも今もやはり、身に覚えはない。

 ただの口実?

 恩返しのために人に化けた鶴。健気で聞こえは良い。物語の鶴はそのつもりだったのだろうが、生き物が擬態するのは敵の目を欺くためと捕食のためだ。あるいは……。


 健吾は卵を手に取り、耳に当てた。聴こえたのはおぞましい、命の脈動。そしてヒビが入った音。それはカナエの白い背か、それとも卵か、そのどちらか確かめるのを躊躇ううちにシーツが擦れる音がした。

 そしてまた一つ、また一つと、日常が壊れる音が聴こえた。

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