母の妊娠

 母が妊娠した。

 幸恵は瞼を閉じ浮かんできたその言葉に乾いた唇を噛んだ。

 あり得ない事だが実際に起きた。

 経過は順調。幸恵はつい先程、その後ろの扉の向こうで医者が「これは奇跡です」とやや興奮気味で言っていたのを思い出す。

 でも、悪い意味での奇跡ではないだろうか。私には良い事とはどうしても思えない。


 幸恵は唾を呑んだ。痛んだ喉にへばりつきながら落ちていくのを感じられた。

 目を開け、ロビーに向かって歩きだすも心ここにあらず。思うのは直面した問題のことのみ。


 母は……いや実際には私が母を「お母さん」と呼ぶ事はしばらくの間なかった。娘に合わせて「おばあちゃん」と呼ぶのが自然となっていた。

 母はもう八十代半ば。この病院に移動するまで介護施設に入居していたのだ。

 

 なぜ妊娠? 相手は? 母の口から妊娠を聞いた当初。それが嘘でも冗談でもないことを知った幸恵が湧き出る疑問を容赦なくぶつけることができたのは血を分けた娘ならではだろう。他人ならこうも根掘り葉掘り聞けない。

 いや、他人事ならどれだけ良かったか……と、幸恵はまた唇を噛んだ。


 相手は母と同じ施設に入居していた老人で、しかも母の高校の同級生だった。

 昔から母に好意を抱いていたらしい。それを告げられた母は何を思ったのか受け入れたのだ。

 その相手の男性はすでに他界しており、この件を知った相手の家族はただただ困惑しているとのこと。……母の虚言と疑っているとの話もある。とにかく関わりたくないそうだ。

 責める気はない。訴訟だなんだ揉める気力はないし、気持ちはわかる。

 母が今になって私たちに妊娠を告げたのは、もう相手方の遺産についてのやり取りは済んだと判断したのと、膨らむお腹を隠しきれなくなったから。

 ……そう、あのお腹がなければまだ悪質な冗談や勘違い、妄言と思えたかもしれない。

 幸恵はベッドに横になりお腹を擦る自分の母の姿を思い出し、再び言いようのない感情がこみ上げてきた。


 ……私もあと何年かすれば六十歳だ。それなのに弟か妹ができるなんて。一人っ子ゆえにそれを望んだこともあったと思う。もう、遙か昔だが。

 しかし、何も今になって……そもそも無事産めるのか? 母のあの様子。恐らく産む気だろう。愛しかったのか? その男が。営みを想像して吐き気がこみ上げてくるのは老人だからか、それとも実の母だからなのか。

 ただ、本当にその男が相手なのか? そもそも、やっぱり……いや、医者がああいっているんだ。私は信じたくないだけ。想像妊娠という言葉を、もう何度ネット検索したことか。

 妊娠したという事実を認めるのは簡単だ。「今、赤ちゃんがおなかを蹴ったわ」と言う母にすり寄り、触らせてと頼めばいいだけ。最近じゃ、その手すらも触れていないが。老化により、緩慢で自由奔放な脳になった母のあの無邪気な声がどうしても癪に障る。

 私は認めたくない。産むなんてこと……。


 ロビーについた幸恵は出入り口付近のベンチに座る。

 喉の渇き、それに手持ち無沙汰が気になり自販機で缶コーヒーを買ってみたが、蓋を開ける気にはならなかった。

 下を向いて膝を見ているうちに幸恵は自然と瞼を閉じる。眠りに落ちる。その自覚はあったが抵抗する気は起きなかった。ただ願った。目が覚めた時、全てが夢でありますように、と。


 幸恵のその願いは叶った。と、言えなくもない。瞼を閉じ、季節が変わり秋から冬。そして翌年の春。幸恵の母は亡くなった。

 

 ――あの子を産むことは母の夢で終わった。


 幸恵は葬儀場の部屋の一つ。安置された母を見下ろす。

 元々の寿命なのか妊娠により体力がなくなったのか、あるいは周囲の反応による気疲れか、母が死んだ理由は曖昧なままだ。

 お腹も膨らんだまま。芽吹くことなく腹の子も母とともに送られる。憎むべきか、それとも慈しむべきか。幸恵は未だに判断がつかなかった。


 幸恵はそっと母の手をとった。少し冷たいゴムみたいだった。恐らくエアコンの冷気のせいだろう。少しの逡巡の後、お腹に触れた。


 ……動かない。当たり前か。何を考えている。

 幸恵は椅子に座り、ため息をつく。

 私は……安心しているのか。母と共に心配事が一つ消えた。あれこれ悩み、結果的に母を失う悲しみが紛れたから良かったのかもしれない……。

 幸恵は瞼を閉じ、込み上げてきた安堵感に身を浸した。



 ……いつの間にか眠っていたらしい。相当、疲れていたようだ。

 瞼を開けた幸恵は軽く肩を動かした。

 夢を見た気がするが覚えていない。母の夢だった気も。そろそろ帰ろう。最後にもう一度、母の顔を見てそれで終わり。


 そう思った幸恵は椅子から立ち上がり、母を見下ろす。こういうのを安らかな顔というのだろうか。目を閉じて口の中の噛み切れない食べ物と格闘している最中に見えた。次いで幸恵は滴る水のように視線を腹部へと下ろす。


 ない。


 お腹の膨らみがない。一時、風で膨らんだカーテンが元に戻ったかのように膨らみは消えていた。


 どうして……どうして、どうして。

 よろめく幸恵。電話が鳴った。発信元は娘。このことを話すべきだろうか。少なくとも聞いて貰いたい。

 幸恵は通話ボタンを押す。



 妊娠した。

 電話の先の娘が嬉しそうな声で幸恵にそう告げた。不妊治療を続けていた娘にもたらされた福運。電話片手に跳ね回っている姿が目に浮かんだ。

 娘は少しすると冷静になったのか、はしゃぐ気持ちを制し、おばあちゃんの葬儀前でごめんねとも言った。

 電話を切った幸恵。なんて受け答えしたか、もう覚えていない。体はもう一度母の前へ。

 

 奇跡。


 祖母から孫への贈り物。そう言えば聞こえは良いだろう。だがそんな良いものに捉えられないのは何故だろう。

 得体が知れない。胸に渦巻く不安はぐるぐると臓器を巻き込んで膨らんでいく。

 目眩。幸恵は足元が揺らぎ、景色が波紋起きる水面のように曖昧になった。


 夢だ。これは夢。夢。良かった。


 ……でも夢なら娘の妊娠はなかったことに。


 両手に一本ずつ紐を握らされたような感覚がした。

 

 選択。


 私は今岐路に立たされている。幸恵はそう直感した。どちらを選ぶ、夢か現実か。


 ……お母さん。


 母ならどうする? 幸恵は瞼を閉じ、母の声を求め耳を澄ますも空調の音が聴こえるだけだった。

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