シンプル

 アパートの一室。男は畳の上で目を閉じ、胡坐をかいている。

 この部屋に無駄なものは一切置いていない。テレビも。時計もない。シンプルが好きだ。彼の主義と言っても良いかもしれない。

 静寂の部屋。今はただ耳を澄ませる。終わり、いや始まりの合図を。


 ――ピーッピーッピーッ


 カッと目を見開いた彼が見つめる先。部屋の中央。折り畳みテーブルの上。

 そこに置いてある炊飯器。

 先程まで勢いよく噴き出していた蒸気は今は止んでいる。

 彼はフッーと息を吐く。まだだ。まだ。蒸らす時間が必要だ。ものの数分。だが凝るほどに彼の肩には力が入っていた。

 まだだ、まだ……まだ……よし。

 

 ――カチッ


 炊飯器のスイッチを押し、蓋が開くと湯気が勢いよく飛び出し、天井にまで届いた。

 瞬間、彼はプハッと息を吐いた。無意識に呼吸を止めていたらしい。そしてその心地良さに彼は思った。

 海の中に深く潜り、そして今、水面から顔を出したのだ。そう、彼らも同じ。そうだ、彼らもこの瞬間を待ち望み、そして喜んでいるのだ。 

 

 炊飯器の中を覗き込む彼。しかし目は閉じている。そのまま、ゆらりゆら立ち昇る熱い湯気を鼻から吸い込む。

 恍惚とした表情。今、目を開けると満面の笑みに変わった。

 新雪……否。何かにたとえる必要がどこにある。炊き立ての白米。それこそ最高峰。


 彼はキュッと唇を引き締めるとゴクリと涎を呑み込んだ。

 炊飯器から顔を離すと、しゃもじをそっと米の中に通し掬い上げ軽く、ほんの軽く混ぜる。

 そして、ご飯をお茶碗によそい、自分の体の前へ。

 テーブルの上に準備しておいたバター。それも新品の封を開け、ナイフで四角状に切り取ると、ご飯の上に載せた。

 途端、バターは溶けだし蜜のように広がり染みていく。

 さらに醤油をその上からトットットッと数滴たらす。

 箸で混ぜない。一口目は白米、8。バター、2の割合。その一塊をそっと箸で掴みそして……


 美味い。


 まず米本来のうまみ。そしてバターがそっと後ろから抱きしめるかのように、口の中で彼らのじゃれ合いを微笑ましく見守る。

 天上。そこに築かれた楽園。バター色の陽光が降り注ぐ、ふわふわ雲の白の楽園。


 二口目。今度は先程よりもバターの比率を多めに、そして醤油が薄くかかった部分を口の中に運ぶ。

 

 見事だ。


 思わずそう褒め称えた。誰を? 自分ではない。これを作ったのは自分だが、でも違う。誰でもいいから褒めたい。そんな気分。

 ワサビ。海苔。鰹節あるいは黒胡椒。この三つに合う組み合わせは無数に存在する。が、これでいい。シンプル。これでいい。

 無論否定はしない。何も。今は誰かと争う気分ではないからだ。

 各々の理想。それを楽しめばいい。

 この米自体、そう高いものではない。バターもそうだ。スーパーによくある品。そして醤油もまた同じ。

 それが、この組み合わせでここまでの――三口目。

 彼はフッ、と己を笑った。もう十分だ。思いを巡らせるのは、と。


 四口目。五、六。手は止まらない。止まるはずがない。

 お茶碗、最後の一塊を口に入れ、ふぅと息を吐く。当然、これで終わりではない。二杯目、三杯目とご飯が自分を待っている。

 

 だが……保温のため、一度閉めた蓋を開けようとしたその時だった。


「邪魔するよ」


 えっ、と彼は声も出せなかった。男が一人部屋に上がり込んできたのだ。その男はふっー、と息を吐きつつ彼と対面する形で腰を下ろした。


「ご飯が……さ」


 俺を呼んだのさ。その男は彼が問う前にそう伝えてきた。野暮だというように言葉をすべて口にすることなく。


 男はご丁寧に茶碗と箸を持参していた。だが、彼の目を引いたのはそれではなかった。


「これ……? これさ……」


 これが何か? 俺のご飯のお供はこれさ。


 男がテーブルの上に置いたのはパックの福神漬けであった。

 

「言わないでくれよ……高なんだ」


 カレーもないのに邪道だなんて言わないでくれよ。これが最高なんだ。昔、祖父母の家によく預けられたんだ。親の仕事が大変な時期でね。祖父母は小学生である俺の好みを考えてくれたのかカレーライスを作ってくれた。『好きなだけ福神漬けを載せて良いよ』ってさ。

 俺が美味しい美味しいって言うとそれからカレー以外の日も白米、ご飯の上にのっけていいよってさ。

 だから……最高なのさ。


 思いは……伝わった。不思議と。

 彼は頷くと炊飯器の蓋を開けた。

 そして手を男に向けて伸ばした。茶碗を受け取るつもりだった。よそってやると。握手と勘違いされるかなと思った。それでもよかった。

 

 だが、どちらでもなかった。違和感。開けた瞬間、炊飯器の内部に溜まっていた湯気がまた上がるはずだった。なのに、何もなかったことに気づいた。

 彼は男と顔を見合わせ、炊飯器の中を覗き込んだ。


 歯だ。


 例えではなく、そこにあったのは炊飯器いっぱいの真っ白な歯であった。

 部屋の電灯に反射し、眩いほど輝く白い歯がびっしりと。

 あの可愛さをも見いだせた柔らかな米はただの一粒も見受けられなかった。

 

 なぜ、なぜ、なぜかはわかる。突然現れた男、その心情が伝わってきたのも。

 

 ああ、これは夢だ。


 彼がそう確信したとき、腹に巻かれたワイヤーに引っ張られ、海中から引き上げられるかのように夢の世界から追い出された。


「仕事の続きだ。そいつをさっさと吐かせてくれ」


 ……目覚め。俺は目を擦り、伸びをすると椅子から立ち上がった。そうだ、少し眠ることにしたんだ。

 ここはタイル張りの暗い地下室。俺は、俺を起こした男が廊下に消えるのを見届けると、椅子に縛り付けられた男のもとへ。


 ――これも職業病といえるのかね。


 あの夢の中にいた『彼』も今、起きたかのように目を瞬かせる。そして、ああ、これは夢ではない。まただ、また始まる……。そう思ったのかみるみるうちに目が恐怖の色に染まっていく。

 

 そんなに怯えるなよ。もうかなりお互いの事を知ったじゃないか。夢で逢うほどに……いや、知ったのは俺だけか。

 俺は少し笑い、またペンチを握ると男の口の中へ。


 結局これが一番効くんだ。そう、シンプル。シンプルに……。



「……ご飯の上に……なに載せる?」


「……バ、バター、しょ、醤油も少し」


「それ……前にもここで話したか?」


「い、いや……」


「だよな……俺は福神漬けだ」


 二人、腹が鳴った。俺はなんだかどうでも良くなった。

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