鼓
寂れた旅館だ……。
それが男が抱いた第一印象。外観だけでなく通された部屋もみすぼらしい。ストーブを点けても良いが火事にならないように気をつけてくれと初老の女将に念を押された。
――こんな旅館燃やされたほうが却って保険が下りて良かろう。
心ではそう思っていても、おくびにも出さず「はい」とにこやかに返事をする。外面は良いと男は自負していた。
予約の手違いから始まり、空きがないと断られ続けようやく泊まれたこの宿屋。雪は降らないまでもこの寒さの中、外に放り出されては、その得意の笑顔さえ凍りつくだろう。
そこそこの夕食。そこそこの風呂。男はそれらを元を取るように堪能し、部屋に戻ると敷かれた布団の上に鼓が置かれているのを目にした。
――なんの趣向だ?
鼓を手に取り、叩く。ポンと子気味の良い音が鳴った。しかし、それだけ。二、三回叩いてみたが特に何も起きない。奥の襖から芸者でも出てくるのではとひそかに期待したのだが。
男は溜息をつくと鼓を横に放り出し、電気を消し布団の中へ。
中は少々冷たいがそのうち温まるだろう。そう、ぼんやり考えながらストーブを見つめその橙色の光で心が安らぐのを感じていた。
――ズッ
何か音が聞こえた。と、言ってもまどろみの中だ。ここ数分間、起きていたような眠っていたような記憶が曖昧であった。もしかしたら夢で聞いたのかもしれない。
――ズズ
……まただ。どうやら間違いなさそうだ。そう、また。ではさっきの音も現実ということか。
男は眠気を払うように瞬きを繰り返す。
ストーブはいつの間にか消えていた。誰が。
――ズズッ
この音……襖を開ける音だろうか。襖で仕切られた隣の部屋。まさか、そこに誰かいるのか?
男は体を起こし、音がしたほうに顔を向ける。
――ズズ
……指だ。襖の隙間から指が伸びている。薄暗いため良く見えないが、異常に白く、反対に爪は黒い。
――あれは人の手ではない。
そう直感した男は慌てて起き上がり、電灯の紐を引っ張った。だがカチカチ音が鳴るだけでなぜか点かなかった。
――ズズッ
――ズズ
そうしている間にも開かれていく襖。もう両手の指が見えている。
電気などどうでも良い。逃げなければ、いや、間に合うか。今に、今に……。まず襖を抑える。いや、相手が物の怪ならそれも無駄では……
と、体が強張り後ずさりするのが精一杯の男の足に何か当たった。
鼓だ。
男はそれをサッと拾い上げ、脇に抱えた。
無意味なことはわかっているが、何も持たないよりは心強い。威嚇か己を鼓舞するためか、はたまた早鐘を打つ心臓の音を、恐怖を誤魔化すためか男は鼓を叩いた。
――ポン
暗闇、静寂に響く音。あの指を前にしてはこれすらも不気味に思えた。
しかし、愚かな行動、まったくの無意味と思ったのだが、これはどういうことか指が引っ込んだではないか。
だが、男は口を開け、そのまま呆けていると、またもや指が這うように襖の間から出てきた。
まさかと思いつつも男は鼓をまた叩く。
――ポン
やはりだ。この音が嫌いなのか指が襖の中へ引っ込む。
男は今度はその隙に襖をピシャリと閉めて、手で押さえた。
これで一安心……
――ズズ……
などではやはりなかった。男が抑える力など意に介さずにまたも少し襖が開いた。男はすかさず鼓を叩く。
――ポン
指が引っ込んだ。
男はひひっと引きつった顔で笑った。
このお決まりの流れ。一つのルールが心にもたらした安堵が呼んだ笑いであった。
しかし、完全に安心したわけではなかった。これは……いつまで続ければいいのか。
朝が来るまで。
ふと頭に浮かんだ。物の怪を退ける決まり文句。
――ズズ
――ポン
――ズズズ
――ポン
――ズズッズズ、ズズズズ
――ポン
部屋の外に逃げればと思い、鼓を叩きながらドアの方に近づく。だが駄目だった。間隔が短くなっている。
そして、離れれば効きが悪くなるようでもあった。
傍で鳴らし、そして指が引っ込んだ隙に襖を閉めなければリセットもされない。
背中を見せたら最後。部屋を出るその寸前で後ろから……そもそも部屋を出ても無事な保証はない。
やるしかない。朝まで。
男は布団の上で胡坐をかき、鼓を叩き続けた。
そして……。
――ポン
――ポン
――ポン
……夜が明けた。睡魔は男の身体を掌握しつつあったが襖の奥の者を退けることができた。襖は風を受ける窓のよう僅かに動くのみ。朝日もまだ弱々しいが思ったとおり、中の者には効果があるようだ。
形勢逆転と言ったところ。今ではもう、襖に指が掛かっては鼓の音に怯えるようにサッと引っ込め、と動作を繰り返している。
さあ、あと少しだ。ようやく眠れる……。
……いや、馬鹿な。怪物か妖か何かは知らないが、あんなのが隣の部屋にいるかもしれないのに寝てられるか。とっととこの宿から出ていこう。アレの正体などどうでもいい。どうせもう泊まることはないんだ。女将をとっ捕まえ怒りを吐き出し、宿代を踏み倒してやろう。それくらいしなければ気持ちが収まらない。
そう考えた男は鼓を置き、立ち上がった。
……ポン、と足で鼓を叩く。
もう十分なようだ。少なくとも、この部屋を出る暇はある。
男は鼻から息を吐き歩き、部屋のドアノブに手をかけ回した。
――ポン
鼓の音がした。
男は思わず脇を見た。当然だが、自分ではない。振り返って確認。部屋の鼓は転がったままだ。ではどこから? 気のせいだろうか。幻聴……無理もないが……。
――ポン
男はドアを開けたが、鼓の音がした途端、押し戻されるように体が引いた。
なぜだ。まさか……。
男はドアを少し開け、隙間から外を覗いた。
あの女将だ。手には……
――ポン
ドアがバタンと閉まり、男は額をぶつけ仰け反った。
そして
――パタン
背後から襖を開け切った音を男は耳にした。
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