壁の絵の女

 その絵との出会いは彼がコンビニに近づいたその瞬間だった。

 彼は視界に入ったそれを最初、白い外壁にへばりつく巨大な黒い虫だと思い、ツツツッと背骨を指でなぞられた様な気分になったのだが二度見したのち、足を止めよく見るとそれと目が合ったのだ。


 女性の絵だ。しかし、やけに眉毛が濃い。この感覚、既視感だろうか。記憶を探る彼。思い浮かんだのは『ディスマン』それとよく似ている。ただ、あれは男性だ。それ故にこれは下手な女装をしているように見える。

 絵は黒いペンキ、あるいはカラースプレーで描かれていて、絵自体の大きさはそれほどではないが、なぜだが異様な存在感を放っている。

 彼はその理由を知りたく、しばらく見つめ合っていたのだが、背後から子供たちの喧騒が聞こえたため後ろ髪を引かれるような思いでその場から立ち去った。


 その日の夜、彼は夢を見た。あの女性だ。

 ド、ド、ド、ドと鼓膜を打つような音。サイケデリックな空。荒野に一人立つ彼に向かってジワジワと迫ってくる。

 彼は両手を前にかざし、来ないでくれ、とどこか無駄だと思いつつも自衛しようとするのだが、女性も、手も波打つように歪んでいく。まるでダリの絵。

 女性のその毛穴まで見えそうなほど距離が縮まったとき、目が覚めた。

 体内で脈打つ心臓の音が鼓膜に響いていた。ドッ、ドッ、ドッ……。



 翌朝、あのコンビニに行くと人だかりができていた。何の騒ぎだろうかと彼は妙に思う。

 近づくだけで誰に訊くでもなく自然と話が耳に入ってきた。


「アーチストだ! うちの町にアチーストがきたぞ!」


 皆、そのように浮かれた調子だ。彼が更に耳を澄ますと聴こえて来たのは最近話題のアーティストの名。

 神出鬼没の路上芸術家。彼もニュースで知っていた。なんでもその絵は高い評価を受け、高額な値が付けられているとか。

 しかし、それは海外の話だ。こんな田舎町に来るわけがない。馬鹿なことを……。と、彼は呆れたがこの小さな町にとっては大きなニュース。すでに絵に近づかないようにとカラーコーンが置かれ、さらに誰だか知らないが警備員役を買って出たようで男が胸を張って絵の前に立ち、人波を整理している。

 写真を撮る人々。押し合いへし合い、凄まじい熱量。彼は背を向け、そのコンビニから離れた。そして避けるようになった。人混みは苦手だ。何て言うのは大きな理由ではないことは彼自身もわかっている。

 本当はあの絵の事が……。

 

 いや、こだわることでもない。それに、コンビニは他にいくらでもある。

 そう思い、彼が立ち寄ったあの絵と無関係のコンビニ。何かのフェアを開催中らしい。彼は棚に並べられたマグカップを一つ何気なく手に取った。


 眺めて数秒。マグカップは彼の手から零れ落ち、蛍光灯の光が反射する白い床に砕けた。欠けた顔が彼を見上げる。

 あの女だ。辺りを見回せば、あの女の視線が虫眼鏡によって集約された光のように彼の体に焦げ付いた穴を開ける。

 どうやら住民の熱量は町長まで届いたようで、町おこしに発展していたのだ。タオル、饅頭、皿、コップ、Tシャツ、ポスター。絵が印刷できそうな物なら手当たりしだいに商品化したのだろう。彼は逃げるようにコンビニから飛び出した。


 まるで宇宙人の侵略。そう思わせるほど急速に町のあちこちであの絵が顕在していた。

 彼は絵を見かける度に心臓を指で弾かれたような感覚に陥った。

 でも、それだけで終わらない。あの女に侵食されていく町。それに比例するかのようにあの女の夢を見る回数、長さが増えていく。

 夢の中で女の手が首に触れる。瞬間、彼は何故か自分の首の脈が感じ取れた。

 息苦しさに目を覚ますとその理由が分かった。


 手は自分の首を絞めていた。

 ……もう限界だ。彼は大きく息を吐く、けれど熱は逃げずに額から汗が滴り落ちた。 


 同様に町の熱は冷めない……と思いきや、ブームはやがて去るもので季節が一つ進む頃には町は以前と変わらぬ落ち着きを取り戻していた。恐らくは全国規模のニュースに取り上げられ、そして田舎者がバカ騒ぎしていると揶揄されたのがきっかけだろう。

 オリジナルであるコンビニの外壁に描かれたあの絵を保存しようという熱心な声は消え、子供のボールの的になっても誰も咎めはしなかった。


 今や雨風にさらされ剥げている。その顔に向かってボールが飛ぶ。音が響く。バンッ……バンッ……バンッ……ドッ……ドッ、ドッ、ドッ。


「あ、何すんだよ!」


 彼は壁の絵に近づき、子供が投げたボールを叩き落とした。そして足元で跳ねたボールを掴むと遠くへ放り投げた。



 ……僕は涙した。走り去る子供に暴言を吐かれたからじゃない。

 壁に縋りつき、さらに泣いた。

 溜め込んでいた想いが涙と叫びとなって体の内から出ていく。

 それがどこか心地良い……。

 もう……認めるしかない。


 僕は一目見たときから彼女に恋をしていたのだ。

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