落としましたよ
「これ……落としましたよ」
朝、通勤途中の男は後ろからそう声を掛けられた。
振り返ると中年の女性が革製のケースに入った定期券を手のひらに乗せている。色と形状からして間違いない、自分のものだと男は思った。
「あぁ、ありがとうございます」
男はお礼を言い、受け取ると前を向いて歩き出した。
いつ落としたのだろう。自分らしくないミスだ。そう、首を傾げるも数歩歩けばもう気にしなくなった。だが……。
「あの」
「はい?」
男が振り返る。そこにいたのは先程の女性。
さっきは意識しなかったが、こうして見るとたまに自宅アパートに訪問してくる宗教の勧誘の女に似ていると男は思った。どこか浮いた雰囲気。
なんだ? 礼金でも欲しいのか? と男はやや訝しがった。
「これ……落としましたよ」
そう言い、女性が差し出した手にはハンカチが。見覚えがあったが、男はまずズボンの後ろポケットを確認した。
ここにいれたはずだがない。自分の物で間違いなさそうだ。
「どうも……」
男は礼を言い、受け取る。しかし、その声に表れているように釈然としない。が、顔には出さないようにしつつ「では」と会釈をし、歩き出す。
チラッと振り返ると女性はまだその場に立っていた。
どこかホッとしつつ、まさかスリ? なんて考えた自分を自嘲気味に笑う。
そして男は歩きながらポケットに穴が開いていないか念入りに調べた。
問題ない。そういうこともあるものだ。だが三度目はないだろう。そう思った。しかし……。
「これ……落としましたよ」
数分もしないうちにまたそう声をかけられた。
振り返る男にずいと女性が財布を差し出す。見覚えどころの話ではない。間違いなく自分の財布。しかし先程までポケットに入っていたのは確認済みだ。あり得ない。
男は女性にわずかでも触れることを恐れ、また嫌悪し手を伸ばすことを躊躇ったが財布なしで行くわけにもいかない。
警戒心の高い、野良猫かネズミのようにサッと半ばもぎ取るように受け取り、礼も言わず走り出す。
「あの、あの」
その男の後を女性が追ってくる。なんだなんだと他の通行人の目が嗤う。
一体何なんだ! あんた、気持ち悪いぞ!
そう、言葉が喉まで出掛かったときだった。
横からの強い衝撃。
上がる悲鳴。
下には地面。
何だ? 車? 確かめようにも体は動かない。
男の視界は血にまみれ、辛うじて見えたのは地面にこびりつく誰かが吐き捨てたガムだけだ。
罵倒のために吸い込んだ空気が喉を通り切れかけのゼンマイのような渇いた音を鳴らした。
「あの」
男の頭上で声がする。その方向に顔を向けようにも動かすことができない。
それを察したのか女性は男の目の前に手を出した。
「これ……落としましたよ」
目玉。
俺の? 片方……。
男はそう思ったが、もう触れて確かめることすらできなかった。
全てを落としてしまったのだ。
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