死後の抽選会

 ……ここはどこ?

 

 その青年はただ漠然とそう思った。

 取り乱さなかったのは夢から醒めたばかりのように頭がボッーとしていたのもあるが周りに人が、それも今、自分がいる場所のことがあったからだ。尤も、そこがどこかはわからない。真っ白い空間。いくつかの列。

 そう、列。彼は気づかぬうちにそこに並んでいた。

 前よりも後ろの方が長そうであった。背伸びをしてもその最後尾が見えない。で、あれば離れる気は起きない。それは損得勘定なのか何なのか。彼にはわからない。何も。情報が欲しい。

 周りの人に声をかけてみようか。いいや、自分と同じ状況だろうか。と、彼が思ったその時であった。


「広い場所広い場所広い場所ぉ……広い場所がいいぃ……もう、もう公衆トイレは嫌だぁ嫌だ嫌だ嫌だ……」


 後ろに並んでいる男がブツブツとそう呟き、祈るように手を合わせていた。彼は今気づいただけでその男はもしかしたらずっとそうしていたのかもしれない。そんな気がした。


「あんた死にたて?」


 前に並ぶ中年の男が彼にそう話しかけてきた。彼は質問の意図が分からず声も出せなかった。


「いやぁ、なんかキョロキョロしてたからさ。初めてじゃないかと思ってさ」


「え、は、はい……でも死にたてって?」


「ん、死んだの俺ら。列に並んでるやつらみーんなそう」


 中年の男はニカッと笑って両手を広げた。


「あっ」

 

 記憶が甦った。次いで彼は一瞬、吐き気がしたがそれは気のせいだと思った。体調などもう悪くなりようがない。自分は死んだのだ。間違いなく。


「おーい。もしもーし、大丈夫?」


「あ、はい……」

 

 彼は自分の目の前でニヤニヤしながら手をひらひらさせる中年の男に苛立ちを覚え、死後でもそんな感情を抱くのだなと少し意外にも思った。

 感情が鈍化しているのは確かであったが死ぬ少し前の記憶が甦ったことがあるように、徐々に頭の中がハッキリとしてきている気がした。

 もしかしたら取り乱さないように、列に大人しく並ぶように麻酔のような処置をされていたのかもしれない。

 誰に? 誰だ? 神? 天使? 気になるが彼がまず訊ねたのはこの列についてだった。

 中年の男は伸び、それと欠伸をしながら答えた。


「ん、派遣先決め」


「派遣先……?」


「そ。幽霊になって一年間そこに居るの」


「え、何のために?」


「んー、知らないよそんなこたぁ。必要なことなんじゃないの?」


 すんなり天国だの地獄だのには行けないというわけだろうか。しかし、後ろの男が先程から呟いている『公衆便所は嫌だ』というのはまさか……。


「自分の持ち場からは離れちゃ」


「ダメー。というか離れられないのよどういうわけかね。

ちなみに俺は前回ネットカフェだったからだいぶ良かったね。

客の見る映画や漫画を後ろから見たり

ドリンクバーを勝手に出しちゃう悪戯とかしたりね。

まぁそれはたまにと言うか稀に調子のいい時にしかできないけど」


 それは……と、彼は他にも質問したいことがあったが、後ろに並んでいた男が話に加わったためその機会を逃した。


「ほんとそれは当たりですよ……。私なんてもう二回連続公衆トイレで……」


「ぶはっ! それはあんたついてないね! 死ぬ前に余程悪い行いしてたんじゃないの?」


「な、し、失礼な! あ、あなたこそ良い人間には見えませんがね!」


 中年の男は笑って返す。二人の争いを尻目に彼は自分ならどこが嬉しいか考えてみた。

 先人に倣うならば動きのある場所が良いだろう。映画館……水族館……動物園……行きたい場所なんてない。どうせ何もできやしないんだ。彼は誰にも聞こえないよう小さく呟き上を見上げた。空はなく、明るいが太陽もなかった。ただただ白く、圧迫感さえあった。



「どうぞ」


 やがて彼の番が来た。商店街の福引で使うようなガラガラ鳴る抽選機のもち手を回す。するとガラス玉のような透明な玉が出てきた。それを係員らしき男がつまみ上げ、まじまじと見る。どうやらそこに派遣先が書かれているらしい。

 その係員も抽選機も、なんとも味気ないなと彼は思ったが、死後の世界は、いやその手前の世界はこんなものなのかもしれない。

 いや、天国などあるのだろうか。ここがもしかしたらその死後の世界そのものでは。彼はそう思うと少しゾッとした。 


「……はい、あなたは電気屋ですね。鍵をどうぞ」


「おーおー! いいじゃない! テレビ見放題じゃん!」


 声を上げる中年の男。聞けば競馬場を引いたらしい。上機嫌かつ自慢げに自分の運の良さについて語り始めた。


「また公衆トイレええええええぇぇぇぇぇ! それもやっぱり男子いぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」


 その喉を締め上げられた鳥のような声の方に振り向くとそこにいたのは無論、彼の後ろに並んでいた男。泣き崩れ、なぜだなぜだと慟哭している。


「ハッ、不運だねぇあいつ……さて、そろそろ行かないと怒られちまう、ん? おいおい」


 彼は泣き崩れる男に近づき、そっと手に持っていた鍵を渡した。


「いっ、いいんですかぁ……?」


「はい」


 聖人だ! 天使だ! あなたこそが神だ! いいやそれは言い過ぎだ! とにかくありがとう! ありがとうありがとう、と何度も熱がこもった礼を言われる彼。対照的にその心はどこか冷めていた。

 別にどうでも良かったんだ。どこだろうと死んでいるのだから、と。


「へっ、もったいねー。ま、もう会わんと思うけど達者でな」


 彼も周りの人の見よう見まねで、鍵をその場で挿して回すような動作をすると、そこにドアが現れた。

 ドアノブに手をかけ、回す。開かれたドアの向こうへ足を踏み入れると便器の前に出た。ここが持ち場らしい。イメージ通りごくごく普通の公衆トイレ、その個室だ。臭いはないが想像しやすい。


 持ち場と言ってもこの個室の中だけでなく公衆トイレ全体だろう。そう思った彼は振り返ると個室のドアを手で押そうとした。

 がすり抜けた。

 ああ、本当に死んだんだな。彼は小さく笑った。誰にも聞こえていない。人はいなかったが、いても同じことだろう。


 個室が二つ。小便器は四つ。掃除用具入れが一つ。

 そしてなにより汚い。古い。ここはどうやら公園の公衆トイレらしい。外から「ばいばーい!」「じゃね!」と公衆トイレの網のような四角い曇りガラスの窓が震えそうなほど大きな子供の声が聴こえた。

 その窓からはオレンジっぽい光が差し込んでおり彼はどこか寂しい気持ちになった。

 

 ここで一年か……。

 彼は一人でそうぼやく。声には出したか出さなかったか。彼自身にもわからないどうでもいい。

 そう、どうでもいい。場所がどこだろうが同じだ。

 思い出すだけでも苦痛を伴う、生き地獄の毎日。生きているうちに自由などないのだと絶望し、自ら命を絶ちそして死んでからも自由はないと今知った彼にとって、なにもかもがどうでもいい。

 恐らく自分は、いや自分たちは消耗品。擦り切れるまでこうやってただこの場に存在し続けるのだろう、と。



 それから何ヶ月か経った。彼はトイレのカビの成長を盆栽を愛でるかのように眺めている。

 時折、人は来るが皆すぐに出て行ってしまう。当然だ。ここに長居しようなんて考える者はいない。

 最初の内は彼も自分の存在をアピールしてみたりもしたが今は目も向けないことのほうが多い。

 誰も自分の事を見ていない。やはりそれも当然だ。生きているうちに幽霊なんて一度も見たことがないのだから。

 驚かそうと全力で叫んだこともあった。しかし、電灯が少しチラついただけ。偶然かもわからない。無意味だった。

 深夜になり、羽虫集るその明かりも今、消えた。

 ただただ真っ暗。こうなるとより時間が長く感じる。眠れない。ゆえにただ無心に。感情を鈍く。もしかしたらこうしているうちに消えてしまうのかもしれない。成仏、と言うのだろうか。それが狙いか。誰の? 神? 天使? もうその疑問もどうでも良かった。


 彼は蓋の開いた便器を見下ろす。

 無価値だ。ここに垂れ流されるものと同じ。あるいはそれ以下か。何も影響を与えないのだから。人に、この世界に。ならばいっそその張り付いたトイレットペーパーの切れ端と一緒に誰か自分を流して粉微塵に消してくれないか。誰か、誰か……。

 

 影響……悪戯……気のせい程度の……。

 

 嘆きの果て、消えかけた感情が再び昂り、彼は便器の中に足を踏み入れた。

 レバーを睨み念じる。

 動け……動け……。できるはずだ。そうだろう? ドリンクバーを勝手に操作した? そうとも、少しの物なら動かせるはずだ。できる……できる!

 根拠はなかった。三途の川。水回りに霊が出る。水と霊。ただ今、実際に霊となった彼にはどこか直感めいたものがあった。それを信じたかった。


 ――ゴオオオォォォ


 全ての不浄を洗い流す音。そして彼の体は回転しながら水とともに……。



 ……ここは。


 どこかはすぐにわかった。気づけば彼は川の中にいた。三途の川……というわけではなさそうであった。目の前を大きな鯉らしき魚が通過する。水底には自転車らしき形のもの。泥まみれ、この汚れは現世に間違いない。そして、上には光。

 彼が川から顔を出すとその目に朝焼けが映った。

 

 ……持ち場を離れた自分はどうなるのだろうか。

 消えてしまうのか。それとも連れ戻されるのか。

 どうでもよかった。そう、どうでもいい。きっと大丈夫だと思えるからだ。


 彼は両腕を上げ、叫んだ。

 それは今、生まれて、そして死んでから初めて感じた自由に対する喜びと世界に対しての産声であった。

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