揺らぐ水面

 鬱陶しいと思うほどの鳥の鳴き声。レースのカーテンを輝かせる陽の光。

 朝だ。一日の、世界の始まり。少年はぼやけた眼を擦る。

 今日は誰も起こしに来なかったみたいだ。じゃあ、もう少し寝ちゃおうかな……。どうせいつ起きたって……

 

 ――えっ 


 そう考えた少年だったが足先から伝うその感触に驚き、目を見開いた。

 次いで、足を動かしてみる。さぶっと音がした。

 

 ――水だ。嘘でしょ、これ…… 

 

 少年は念入りに瞼を擦った。抱えていた重さ消え、痛みでややジンとした。

 しかし、これが現実などとは到底、思えなかった。


 夢……だよね?

 当然そう思うはずだ。はっきりとしてきた少年の視界に映るのは、水に浸かった自分の部屋だったのだから。

 少年はもう片方の足も下ろし、ベッドから立ち上がった。

 水位は足首よりやや上か。足の指を動かしてみる。間違いなく水だ。

 これは絶対に夢だ……と少年は思う一方でその感覚のリアルさに他の可能性を考えてみる。

 浸水……いや、だってここは二階だもの。あり得ない。それとも大雨が降って世界全体が水浸しになっちゃった?

 

 そう思った少年は窓に目を向ける。

 

 ――コンセント!


 その窓から斜め下にあるコンセントが視界に入り、少年は慌てて水から足を上げてベッドに尻餅をついた。

 しかし、どうやら感電の心配はなさそうだ。ブレーカーが落ちているのかもしれない。

 しばしそのままジッとしていると、もう一つわかったことがあった。

 箒で地面を掃く音が外から聞こえる。お隣さんの日課だ。とすればこの部屋だけが、あるいはこの家だけが水に浸かっていることになる。

 思い返してみると昨晩、雨は降らなかったはず。蛇口の閉め忘れ? いやいやいや、それにしたって妙だ。一切水が漏れることなく二階のこの部屋まで水が溜まる? それに早朝とは言え、外から見ればその異常さに気づき、騒ぎになるはず。

 ……母さんと妹は無事だろうか。父さんは朝早いからもう出かけてるかな。

 あれこれ考えた少年は最終的にそう思った。家族の安否。確かめるにはこの部屋を出るしかないとも。


 少年は両足をまた恐る恐る水につけた。

 慣れない感覚。馴染ませようと少年はベッドに腰を下ろしたままバシャバシャと水を蹴った。

 そして静かに足を下ろすと、揺らぐ水面、波紋が収まっていくのをジッと見つめた。

 波立った心もまた穏やかになっていく気がした。


 ――あっ。


 視界の端で水面が揺らいだ。

 それに目を向けた瞬間、今度は足をくすぐられる感覚にびくっと震える。どこから現れたのか、金魚が足の間をするりと泳いだのだ。

 泳ぐ二匹の金魚。少年はその光景を見て安堵とそして少しの落胆。

 やっぱりこれは夢だ。この家はもうペットを飼わない。理由は死んだとき、心が苦しいからだ。

 とくればもう慌てることはないな。

 そう考えた少年はゆらゆら泳ぐ金魚をただ眺めた。


 ……あれ?


 少年はその金魚にどこか見覚えがあった。記憶を辿るのはそう難しくはない。あれは昔飼っていた金魚だ。夏祭り……に行けなかった僕のために父さんが買ってきてくれたものだ。名前は……忘れてしまった、薄情か。

 少年は自嘲気味に笑う。


 ただ、似ているだけかもしれないな。もう一匹、黒いほうは友達だろうか。それとも奥さんだろうか。それとも恋人かな。 

 尾びれがゆらゆら。ひらひら。

 ひらひら。ゆらゆら。

 揺らいで、揺らいで、増えて、増えた。

 

 見つめていると金魚がもう一匹、また一匹と、どこからか現れ、やがてそれは群れとなり大きく泳ぎだした。

 大群だ。少し、波が起こるほどの。

 そして金魚の群れは壁に向かって泳ぎ出した。

 

 ぶつかる! と、少年は片目をつぶったが金魚たちはまるで壁に吸い込まれていくように消えていった。

 と、思ったら反対側の壁から現れ、群れの最後尾と合流した。まるで自然の川のような一つの流れが出来上がった。


 ……そっか、これが三途の川か。

 少年はベッドから立ち上がり、懐かしむようにゆっくりと歩いた。病気で歩けなくなって以来の足に伝わる感触がやはり少しこそばゆく頬が緩む。

 川の流れはマッサージのように優しく、穏やかで部屋のドアに手をかける少年の心もまた落ち着いていた。

 その手でゆっくりドアを開けると暖かな光がまるで迎え入れるように少年を包んだ。


「おはようっ」


 そう、世界に挨拶する少年の声は晴れやかで澄み渡っていた。

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