謎ルール
……お、来たな。
ある朝。その青年は後ろから迫ってくるドタドタと優雅さの欠片もない足音と荒い息を耳にし、振り返った。
いつもこの道を全速力で走る男がいた。スーツを着た、ごく普通の会社員風の男だ。
目的の電車に乗るために走っているのだ、と青年は最初はそう思った。そんなに走るくらいなら早起きしろよとも。
しかし、なぜかその男はその道の角を曲がるとぜいぜいと息を切らしてスピードを緩める。
そう、それが朝のいつもの光景。もう三年くらいになるのか。青年はいつも気になっていた。
なぜあの男はこの通りだけ全速力で走るのだろう? もうじき僕は高校を卒業する。春から大学生に。そうなれば時間が合わなくて、あの男を見かけることもなくなるだろう。
で、あるなら聞いてみるのもいいな。チャンスは今だけ。それに舌打ち、それから無視されてももう顔を合わせることないんだ。気まずい思いをすることもない。
そう思った青年はこの朝、もし出会ったなら勇気を出し、あの男を引止めようと考えていたのだ。
「あの! どうし――」
「ばっ! 馬鹿野郎! ルール! ルールがぁ! あぁ!」
男は肩に乗せた青年の手を、体を揺らして振り払った。
何もそんな、やっぱりどこかおかしい人だ、と青年は思った。
が、青年は我が目を疑った。
目を剥き、口をパクパクさせる男。その眼球が飛び出そうなほど大きく、いいや、目だけではない。頬が、鼻が、耳が、唇、顎、顔全体が真っ赤にそして青い血管が浮き上がり、まるで……。
そう、風船。
青年がそう思った瞬間だった。
膨れ上がった男の顔は轟音と共に周囲に爆散した。
肉片が辺りに飛び散り、青年の頬に叩かれたような痛みが込み上げそして、胸の辺りまで温かい液体がかかった。
咄嗟に顔の前に構えようとした手は虚しく、熱持った空気に触れるだけに終わり青年はただ、だらんと下ろした。
その瞬間、首の穴から湯気を上げていた男が地面に倒れ、青年は奇妙な、一体感のようなものを覚えた。
周りの人たちの悲鳴。ビリビリと電信柱や周りの住宅の窓に響く。
その中、青年はぼんやりとある事を思い出していた。
ルール……。そういえば小学生のころ横断歩道を渡る時『白い部分しか渡っては駄目。黒いアスファルト部分は沼』といった謎のルールがあったなぁ……。
懐かしく、顔にかかった温かさもあってどこかぼんやりとした感覚。青年の頬が緩む。そうだ、夢だ。これは夢だ。よかった。ああ、他にも何かあったかなぁ。
――てはならない。
今のは何だろうか……。青年が意識を頭の中に割くと、まるで波紋で揺らぐ水面からゆっくり上がってくるように頭の中に文章が浮かんできた。
『着ぐるみに触れてはならない』
……ルール。あの男が言っていたのはこういうことか?
じゃあ、もし破れば……でも、これくらいなら別に。そもそも着ぐるみなんてそこらにいるものじゃない。もしいたら全力で逃げればいいのか。……でも、いつまで続く? 一生? そういえばたまに変なことをしている人を見かけるけど、あの人たちももしかしたら……。
あ。
耳に届く、接近離反を繰り返す喧騒。未だ夢心地の中、青年は空を仰いだ。
――してはいけない。
――してはならない。
――しなければならない。
――いけない。
――ならない。
流れる雲から星が顔を出すように脳内に次々とルールが浮かび上がってくる。
口を開け、それらをただ嚥下する中、青年は思った。
そうか、一つとは限らないのか。
僕はこの先いくつのルールに縛られ、そして死ぬのだろうか。
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