悲鳴

 黒ずんだ雲が浮かぶ夕暮れ時、一人の青年が道を歩いていると背後から突然、声が聞こえた。

 彼はすぐにそれが女性の悲鳴だと気づいた。それもまるで鍵盤を力任せに叩いたように激情的。ふざけ合い、栓が外れて出るような声とは違う、悲痛なものだった。


 痴漢?

 ひったくり?

 それとも通り魔?

 振り返りながら青年の頭に次々、可能性が浮かんでいく。

 転回する視界。それに一瞬映った電柱に凭れかかるように置かれてる『不審者注意』と書かれた看板が、危機感が煽る。


 しかし、背後には誰もいなかった。一軒家が向かい合う一本道だ。見通しはいい。

 青年はその場に立ったまま耳を澄ますが何もない。

 近くの住宅に強盗が入った? そして、あれはもう二度とない断末魔だったのか? それとも庭に出て、空に向かって奇声を上げただけ? これが一番想像がつく。思えば狂気を孕んでいたような気がする。


 それなら被害者はいない。良かった……とはならず、青年は身震いした。現像液に浸した紙に写真が浮かび上がるように想像上の、不気味な女のその姿が色濃くなっていくのを感じたからだ。

 青年は恐れを振り払うように、頭を振り、また前を向いて歩き出した。


 一歩

 


 二歩

 


 三歩――


 またも悲鳴が聞こえた。先程よりも大きい。だが、恐らく声量は同じだ。距離が近いのだ。

 青年は素早く振り返った……が、誰もいない。


 青年はまた歩き出す。今度は逃げるように。


 一歩


 二歩――


 また悲鳴だ。素早く振り返るも声の主の姿は見えない。

 胸がざわつく。声は確かに先程よりも近づいていた。それなのになぜ姿が見えない?

 青年は前を向き、足を踏み出す。今度は走るつもりだった。


 一歩――


 悲鳴。息やその臭いさえも感じそうなほどのその距離。青年は耳どころか体を引き裂かれるような激痛を感じ、とっさに耳を塞いだ。

 が、無駄だった。すぐに何も聞こえなくなったからだ。


 何も。


 そう、悲鳴も。地面に膝をついた音も。落ちていた石を拾い上げ、また落としても、その音は聞こえない。自分自身の悲鳴もその耳は捉えはしなかった。機能を失ったのだ。青年の耳の中からドロリと血が垂れる。


 青年は辺りを見渡した。何が起きたのか、誰かに助けを。そう思いながら。

 その最中、独特な匂いを嗅いだ。

 カレーの匂いがする、どこの店だろうと思って見回したら、思っていたよりも遠くにカレー屋があったように、それはどこか遠くから流れてくるように鼻をくすぐった。


 そしてそれは意識を逸らした後、先程より濃くなってまた鼻に届いた。まるで少しずつ迫るように……

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