歯音

 頭の中に霞がかかっていた。

 自分の意思と関係なく自然と開け閉めを繰り返す瞼。それで徐々に周りの景色も晴れてくる。体を伸ばすと関節が鳴る音と小さな息が漏れた。

 いつの間にか眠っていたようだ……。だが無理もない。私は電車に乗るのが好きだ。心地好い揺れ。暖かい座席。走行音。そして旅。


 ――カチカチカチカチカチカチ


 ……カチカチカチ? 妙な音だ。聞き慣れない、なんだ、と……あれか?

 伸びをしつつ音のほうをチラッと見ると、横に二人分ほどのスペースを空けて女が座っていた。どうやら聞こえているのは、あの女の歯の音のようだ。顎を動かし上下の歯をぶつけ合い、音を鳴らしている。


 気味が悪いな……。新しい美容法? まさかな。この角度からでは顔が見えないが地味な服装からして、そう意識が高いとは思えない。単に頭がおかしいのだろう。

 女から顔を背ける。構う必要はない。お調子者の仲間がここにいたら一緒になって揶揄し、クスクス笑ったかもしれないが今は一人だ、そう一人……。

 なんだ? 違和感が。まあ、いい。まだ眠い。再び瞼を閉じるとバターが溶けるように意識が落ちて行くのが自分でもわかった。


 夢を見た。山を登っている。傍らには気の合う仲間たち。高校の時からの付き合いだ。暖かな陽の光に包まれ、昔と変わらずくだらない冗談を言って笑い合っている。

 歩き、歩き、踏んだ砂利が靴の下で音を立て擦れ合う。その一つがはじき出され、山の斜面を転がっていく。その音がやけに響いた。不自然な。でもどこか聞き覚えがある。

 私は妙に思い、耳を澄ませる。


 ――カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ


 ……あの音だ。

 

 再びの目覚め。

 音が近い。不自然なほどに。


「……っと! う!?」


 横を向くと息がかかるほどの距離に女が座っていた。

 驚きのあまり、座席からずり落ちそうになったが、私は必死に留まった。出かかった悲鳴もどこかへ消え失せた。当然だ。投げ出した足が、あるはずの床に着かなかったのだ。

 見下ろすと吸い込まれそうな深い深い奈落。電車の床は消え失せ、底の見えない暗闇がただそこにあった。


 ――カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ


 歯を鳴らしながら、女がのしかかるように体を寄せてくる。

 眼前に迫る女の顔。髪が私の顔に被さる。そこに目と鼻はなかった。代わりにあるのは顔全体を占める大きな口。そして大きな白い歯。それは、白い……白い……



 雪……? 雪……だ。

 気づくと私は雪の上に横たわっていた。


 でも、なぜ……ああ、そうだった。


 夢を見ていたのだ。体の感覚はとうに消え失せ、降りしきる雪、体を覆うその重さも冷たさも、もう感じない。

 

 静かな空間。

 ただ歯が鳴る音だけが体に響いていた。

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