彼の葬式

 お坊さんの口から読み上げられるお経だけが、夜の湿った地面の上のナメクジのように会場内を這っている。

 整然と並べられたパイプ椅子の一つに座る沙知は下腹部に若干の痛みと頭から血の気が引き、脳みそを吸われているような感覚に襲われていた。

 

 <i>――</i>お経が嫌い。ううん、葬式が嫌い。


 落ち着かない雰囲気に咳払いさえ躊躇う。いくつも穴を開けられた障子から覗き見られているかのよう。

 沙知は目を閉じ、全ての情報を遮断しようと試みた。関係のないことを考え、今をやり過ごそうと。しかし、思い浮かぶのは当然とも言うべきか葬式のことだった。


 お葬式は残された人たちが区切りをつけるために行われるものと聞いたことがある。死別を受け入れ、前に進むためのものだと。

 同級生の私たちにこれ以上の動揺を与えないための配慮だろうか、棺は固く閉ざされていた。

 お経にどこか聴き覚えがあった。お葬式に参加するのはこれで三回目だからだろうか。そのうちの二回はどちらも小学生、それも低学年の頃だけど。

 初めてのお葬式は祖父の時だった。祖父は私をよく可愛がってくれていたけど、まだ幼かった私には死がどういうものなのよくわからず、とくに悲しい気持ちにはならなかった。

 なんとなく落ち着かない雰囲気が嫌だった。

 二回目は従妹の女の子。祖父のお葬式を経験していた私は、これもあの時と同じようなものだろうと考えていた。

 でも違った。祖父の時は、どこか「まあ、長生きしたよな」と諦めというか称えるような雰囲気がその場にあった。

 でも従妹の時は想像を絶する叔母の悲痛な叫びや、初めて見る母の涙に私はその場から逃げ出したくなった。

 怖くて怖くて泣いたことを、叔母は悲しんでくれるのね、とそっと頭を撫でてくれた。私はまるで嘘をついたみたいで、そしてそれが申し訳なくて胸が痛んだ。

 だから私はお葬式が嫌い。もちろん、好きな人はいないだろうけど、私は特に嫌い。自分のことばかりの私が嫌い。悲しんであげられない自分が嫌い。

  

 ふぅと沙知が息を吐き、思考が一時途絶えると、布が擦れるような音が聴こえた。無意識にその音を探ると、沙知はそれがすすり泣く声だと理解した。

 沙知が瞼を開け、目立たないように気をつけながら辺りを見回すと同級生の何人かが泣いているのが確認できた。

 泣いているのは女子が多かった。彼は特に女子に人気があったからだろう、と沙知は思った。その沙知はというと、やはり涙を誘われることはなかった。気丈に振る舞うつもりもなかった。単に彼と親しかったわけではないというだけ。友人の友人……そのまた友人と言ったところ。だから仕方がない。そう自分に言い訳をした。せめて、振りじゃなくて悲しんであげたい。あの時とは違って。

 沙知はそう考え、思い出か何かないだろうか、と彼との繋がりを記憶の中から探した。

 落ち葉が浮かぶ池の中に落とした物を探すように手で水を掻いて。すると浮かび上がってきた。

 

 あれはたしか、友達から休日に遊びに誘われたときだった。放課後に寄り道する程度ならよくあったけど、珍しく誘われ、そして珍しくその誘いに乗り、来てみれば彼がいた。いや、彼からしたら私のほうがそんな存在だろう。何せ彼は人気者。中心の存在。顔も運動神経も頭もいい。

 彼と会話したことは片手で数えられるくらいのものだけど彼の発言には、はっとさせられるものがあり、私は自分の未熟さを恥じるとともに、彼への羨望と敬意の念を覚える。

 そんな彼がどうして自ら命を絶ったのか。


 焼香が始まり、沙知はふっと我に返った。自分の番はまだまだ先だが、沙知は顔を歪めた。事前にネットでやり方を調べるのを忘れていたことに気づいたのだ。

 でも、他の人のやり方を真似ればなんとかなるだろう、と小さく息を吐く。緊張からか、また体調が悪くなってきた。

 沙知はまた気を紛らわせるために、先ほど浮かんだ疑問に意識を傾けた。どうして彼は死んでしまったのだろうか。


 幸せになる人間かそうではないか、ケーキを二等分するように分けるなら彼は間違いなく幸せな人生を歩む人だ。

 別に嫉妬するわけじゃない。そんな人間に至るまで、彼は考えられないくらい努力をしてきたはず。彼をよく知らない私でもそう感じる時があった。

 日常生活に不満はなかったはずだ。恋人こそはいなかったようだし(同じ学校にいれば女の方が自慢げに触れ回ったはずだ)勉学も交友関係も良好だったはず。

 うん、家族との関係も悪くはなかったはずだ。葬式会場に置かれていた彼の日記には高校生らしい悩みを綴ったものもあったけど私なんかよりもずっと日々を楽しんでいるように感じた。

 尤も、自分の死後に家族が日記を公開することを予期し、心中を吐露することを控えていたのかもしれないけど。……いや、それなら日記そのものを処分しただろう。何にせよ彼の日記には暗号めいたものもなく、彼の家族の憔悴しきった様子を見るに彼を自殺に見せかけ殺した、なんてことはなさそうだった。

 でも、どうしてだろうこのモヤモヤは。始まりからどこか違和感があるのは……。


 <i>――</i>わっ 


 ふいに肩を小突かれ、沙知は思考の海から顔を上げる。

 自分の番がきた。沙知は椅子から立ち上がり、通路に出た。同列に座っていた生徒たちが沙知の後に続き、沙知は少し恨めしく思った。なんでよりによって自分が先頭なんだ、と。おまけに沙知は考えに夢中で前列の人のやり方をよく見ていなかった。


 ええと、確か摘んで、それを顔の前に持ってきてそれで……ああ、その前にお辞儀……。


 沙知は平静を装いながらどうにか焼香を終えて、通路を歩く。

 その時であった。一番後ろの列に座っていた女性と目が合ったのは。

 と言ってもその女性はサングラスをかけていたので実際に目が合ったかまでは分からないが、沙知はくすっと笑われた気がし、そんなにぎこちなかったかな……と、ずんと胃の辺りに重さを感じた。

 ……まあ、どうせすぐに忘れる。ここでも彼が主役だ。と、沙知は息を吐き、席に戻った。


 いつまで続くのか、まったく終わりが見えないお経を耳から耳へ通し続ける中、沙知は彼の棺に目を向けた。そして次に、先ほどの女性が座っていた方をちらっと確認する。ちょうど、その女性も沙知を見ていたようで、沙知は慌てて顔を背ける。

 ……彼女、誰なんだろう。若い。同年代っぽいけどサングラスをしているからよくわからない。お葬式が始まったときはいなかった気がする。制服を着ていないことから考えて、うちの学校の生徒ではない? もしかして彼の恋人? 可能性はあるけど、でもそれなら笑ったりなんて。でも、それも見間違いだったかもしれない。ただ、彼女というよりは……。

 沙知はもう一度彼女のほうを見たい衝動に駆られたが、我慢することにした。彼女が焼香を上げる時に確認すればいいと。


 だが、彼女は焼香を上げはしなかった。ゆえに沙知は脳裏に浮かぶ彼女の姿をただ反芻し、ある疑問。思い浮かんだその推測が育っていくのを見守り続けた。

 そして、葬式が終わり、会場を出て行くその背中を目にすると、すぐに後を追った。


 彼女はお焼香をあげなかった。それは、彼と親しくなかったから?

 ……いや、目立ちたくなかったからだ。


 彼女の背中が近づくにつれ、沙知の中にある推測が成長し、花開こうとしていた。


「……君だよね」


 その背中に沙知はそう言った。すると彼女はピタッと足を止め振り返り、サングラスを取った。


 彼だ。閉ざされた棺の中にいるはずの彼が目の前にいた。


「ばれちゃったか」


 彼は舌を出し、小さく笑った。

 どうして? と湧き上がる疑問を押さえ、沙知は場所を変えることを提案した。ちらほらと会場から出てくる生徒たちの姿があった。

 彼はサングラスを掛け直し、頷いた。

 二人は葬式会場から少し離れた公園のベンチに腰を下ろそた。

 彼はなぜ変装し、自分の葬式会場に来ていたのか。そう彼に訊ねる前に沙知は思った。彼の姿。一時だけの女装というには様になりすぎている。


「君は……女の子になったの?」


 冗談と本気。半々くらいであったが、彼は驚いたように目を大きく開くと頷いた。


「性転換したんだ」


 バイトで貯めたお金で性転換手術を受けたのだと彼、いや彼女は言った。


「両親はすごく落ち込んでね。それでも受け入れてくれたけど、ううん、あまりに急な話だから、受け入れるためにお別れがしたいって」


 ちょうど、引っ越す前に身内だけでひっそりやるつもりだったのに、どこからか話が漏れて、まさかここまで話が大きくなるなんて、と彼は困ったように笑って付け加えた。


「香典は断ってたみたいだけど滅茶苦茶な話だね……」


 沙知がそう言うと彼女は申し訳なさそうに頷いた。でも、お葬式を敢行したのは、息子を失うということがそれだけ衝撃的なことなのだろう。お葬式はお別れの儀式。この場合も間違いではないのかもしれない。沙知は責める気も呆れる気もなかった。


「みんなには話さないの? 誰にも?」


 沙知がそう訊ねると彼女は首を横に振った。


「うん。天国ほどじゃないけど遠くに引っ越すから。……でもいつか話せたらいいなとは思う。みんながあんなに悲しんでくれるなんて思わなかったよ」


 沙知は会場の様子を思い返し、頷いた。彼からしてみてもお葬式をやってよかったのかもしれない。


「君のぎこちない動きは面白かったけどね」


 沙知がぐぅと声を漏らすと彼女は笑った。沙知も笑った。


「よかったら友達になれないかな」


 と、ふたり、ぴったり口を揃えて言ってまた笑い合った。

 空は青く晴れ晴れとしていた。

 この後、空っぽの彼の棺は焼かれ、この空に昇るのだろう。送り出すにはいい天気だ。

 こんなお葬式があってもいいな、と沙知は思った。

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