黒影
心地よい夜だった。一雨来たおかげか、残暑厳しい今の時期でも涼しい。水たまりが少々煩わしいが問題ないようで男は鼻歌交じりにジャンプしてサッとかわす。着地の際、よろけたのは日ごろの運動不足のせいか、それとも手に持っている缶チューハイのせいか。
いずれにしても改善する気はなし。良い気分だった。また一口飲み、大げさに息を吐く。
前方から来る自転車を見て、危うげな足取りで道の端に寄り、かわそうとする。
その時だった。
目の前の茂みから何かが飛び出した。
黒くて小さな何か。
黒猫だろうか。
暗い上に素早い動きのため男の目には黒い影のようにしか映らなかった。
そしてそれは自転車の前に。
「危ない！」と声を出す間は無かった。哀れ。猫が自転車の前輪に接触した……かに見えたが猫はスッと自転車の前輪を通り抜けた。
自転車の男は何も気づかず、そのまま男の横を通過していった。
水溜まりを割りつつ、遠のいていく背中を見つめる男。
鳥の影と勘違いしていたのだろうか……。
そう思った男は空を見上げる。手で掻き分けたような雲と空の間に星が見えた。どうも腑に落ちない。が、気にするほどの事でもない。男は首を傾げた後、また一口、酒を啜るように飲みながら一歩踏み出した。
その時であった。
耳を劈くようなブレーキ音。そして何かが潰れ、壊れたような音がした。驚き、伸びあがる背筋。嫌な予感を胸に振り返ると、交差点には倒れた自転車。そして仰向けになったまま動かない男の姿。そして白いスポーツカー。
どうやら先程の自転車乗りが車に轢かれたようだ。点いた電球に虫が集まるかのように、ポツリポツリと人が集まってきている。
無事なのだろうか。という心配より、男はあることが思い浮かび、それを考えていた。
『黒猫が目の前を横切ると不吉な事が起きる』
無論、ただの迷信だ。黒猫からすれば迷惑な話でもあるだろう。しかし、言葉や話とは変化し、後世に伝わっていくもの。
『黒い影の猫が体を通り過ぎると死ぬ』
もしかしたらそんな風にあの黒い影のことを言っていたのかもしれない。なんて突拍子のない話だが……と、目先に広がるの光景を前に笑ってもいられなかった。
ポツリポツリと現れた黒い影の猫たちが男を囲み出したのだ。
ある猫は顔を擦るような仕草を、またある猫の影は寝転び、体を地面に擦り付けている。その目がどこを向いているかはわからなかったが、男は鋭い視線を身にひしひしと感じていた。
男はゴクリと唾を飲み、新品の靴を履いた子供が水溜りを避けるかのごとく慎重に進んでいく。刺激しないように、静かに、祈り……。
「うわっ！」
一匹の影の猫が立ち上がり、尻尾を立たせ、男にトトトトと歩み寄る。
「ちゅ、チュチュチュチュ、と、違うか、これじゃ寄って来るか、いや、来るか？
えっと、フシャー！ いや、ワンワン！ アオーン！」
迫真の遠吠えのおかげ、というよりは男の滑稽な様にキョトンとしたように動きを止める猫たち。
……どうにか切り抜けることができた。男はそう、安堵の息を吐きつつ振り返って猫たちを見る。
あれらはかつて魔女の使いとして殺された黒猫たちの影ではないのだろうか。
主を失って影だけがさまよい続ける。世に不幸と恨みをばら撒きつつ。誰かがそう決めつけ、つまり望んだ通りに……。
そんな感傷に浸るのは心に余裕ができたからだろう。
男は後ずさりし距離を十分取ると、前を向き直した。
こんなところに長居は無用。酔いはすっかり醒めた。運動がてら走ってもいい。
男はそう思った。
だが……。
今、視界に映った物は。
気のせい。
いいや、まさか。
男はもう一度振り返った。
こちらに向かって迫る影。
その速さ、形はまるで自転車とそれに乗った男。ただし、解放され自由を喜んでいるかのように両手を振っていた。
そして、それは恐れ、手を前にかざした男のその影と今、まるで抱き合うように……。
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