再会

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 聴き取れず、無意味な音の羅列にしか思えないのは、始まってからしばらく経っても耳に慣れない念仏だからか、それとも自分の精神が思ったより参っているのか。

 男はふぅと息を吐き、隣で手を合わせて必死に祈る妻に気づかれないように後ずさりし、ポケットのタバコの箱から一本取り出す。

 部屋に置かれた燭台の蝋燭で火をつけた。


 ……カオスだな。


 自嘲気味な笑いと共に吐き出した煙が踊り、揺れる。男はそれを蝋燭の淡い明かりの中、ぼんやりと眺め、物思いにふける。


 息子が死んだのはちょうど一年前の今日だ。

 俺は当時よりは立ち直ったが妻はそうではなかった。生活は荒れ、藁にも縋る思いで見つけたのがこの霊媒師。

 当然だが胡散臭い。だが、妻に息子が会いにきたと思い込ませることができれば、少しはマシになるかもしれない。……あくまで今よりは、だが。


 三回目。吐いた煙が周りに広がり視界を薄く覆う。と、そこで男は匂いでバレないだろうかと心配になった。妻がぐるんと首を回し、こちらを睨むのではと。

 軽く手で仰ぎ、煙を散らすと蝋燭の火が揺れたので慌てて手を止めた。そしてまた煙草を口に咥える。


 ……まあ、バレやしないか。俺のことなど気にしていない。妻が祈りに集中しているのはその背中越しでもわかる。息子の事を考えているのだろう。

 俺はどうだ? 息子との思い出……。

 一緒に料理を作ったけな。なんだったかな。ああ、確かあれは……いや、十分だ。もう何度も思い返したじゃないか……。

 葬式は故人のためではなく生きている者のためと聞いたことがある。別れを言い、区切りをつけるのだと。妻はそれができなかった。今回のこれが区切りになるといいのだが。


 だが……もしも本当に息子が現れたら……。

 いやいや、馬鹿な考えだ。


 男は声を抑え、吐き捨てるように笑った。その時だった。


 ――ん?


 突然、部屋の蝋燭の火が一斉に揺れた。

 風だろうか。いや、この部屋に窓はなかったはずだ。


「来ました」


 突然、念仏が途絶え、その針で刺すような声に男は自分の態度が咎められたような気がしてビクリと背筋を伸ばした。

 老婆は部屋の隅を指差していた。


 男が目を向ける。

 蝋燭の灯りが届かないそこは壁のはずなのだが、その奥に無限に続いているんじゃないかと思うような闇が陣取っている。


 男の妻が顔を上げ、ゆっくり立ち上がった。

 闇の中を見通そうと、目を必死に見開き呼吸さえを忘れているかのようだ。

 

 ――まさか。

 ――有り得ない。

 ――だが

 

 希望というのものがまるで毒のように男の体に染みわたり、体を震えさせた。

 男は妻に向かって一歩ずつ、ゆっくり近づく。

 足音を出すことも呼吸の音さえも躊躇った。

 何かに対する配慮。

 蝋燭の明かりのような繊細な何かを消してしまわないようにと。

 何かがいる。

 妻に近づく度にその確信は色濃くなっていく。

 その妻は目を凝らしているようで、じっと動かない。しかし、何かがいることには気づいているようだ。口角が上がっている。


 今、闇の奥から音が聞こえた。

 何かが床に落ちた音だ。


 前にも聞いたな……これは……。


 男の脳裏に先程の息子との思い出の続きが甦る。

 料理。キッチンでハンバーグを作っている。

 笑顔。はしゃぐ声。それが「あっ!」という声ののち、途絶えた。息子が手でこねている最中に床に落としたのだ。そして、ママには内緒にしてね、と困ったように笑う……。


「い、いやあああああぁぁぁぁぁぁああぁぁぁ!」


 叫び声。男はそれで我に返った。

 男はその声が妻のそれと気づくのに僅かにだが、時間を要した。およそ人のものとは思えない、体を引き裂かれている真っ只中の獣のような悲痛な叫びであったのだ。

 床に蹲り、体を丸める妻。悲鳴が、か細くなると音が際立った。


 ――ピチャ


 ……ああ、失念していた。


 ――ベチャ


 何も幽霊が五体満足とは限らないじゃないか。


 ――ズズズ


 息子はトラックに轢かれて死んだ。


 ――ズリュ


 男は目を閉じた。それを見ずに済むように。

 しかし、瞼の奥の暗闇は、この部屋の闇と繋がっている気がしてならなかった。

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