海が燃えている
夜。僕は砂浜に座り、ひとり。燃える海を眺めていた。
と言っても夕日で赤く染まる海や火事を言うような比喩表現じゃない。
本当に燃えているのだ。
波と燃え盛る炎が混じり合い、ゴオオオオと轟くような音を成している。
――唸り声みたいだ。
ふとそう思った。怪獣が海から姿を現し、この町を焼き尽くしてくれたら……なんて子供染みた夢想だ。
田舎は噂が広まるのが早いという。
どこどこの息子がどこの大学を受験したとか。どこどこの家はゴミの出し方が悪いとか。セキュリティの面もあるのかもしれないけど想像するだけで胃が痛い。
僕が引っ越してきたこの町は田舎というほどでもないけど、みんな噂好きだ。必要以上にお互い干渉しないことが美徳だと思う僕には少々しんどい。いや、かなり。
夜の散歩は喧騒とは無縁で、僕の心を少し穏やかにさせてくれるからほぼ日課になっていた。
そうして、行き着いた海岸で偶然目にしたこの光景もそうだ。
水と炎。相反するものが交じり合う、この光景は僕の好きな天気雨と同じで魅力的に感じる。
……相反する、ね。
さて、このままここに居ようか。それとも海に入ってみようか……。
――妹の話――
突然でした。兄が不登校になったのは。
家族みんなが驚き、母はうろたえて、よく私やご近所さんに不安を口にしていました。
父は楽観的な人だから特に何も言わず、のほほんとしているだけです。
当然、苛めを疑いました。自分の兄を優等生なんていうのはちょっと、なんかくすぐったいですけど、まあ、優等生で人気者ゆえに嫉妬されたのではないかと。
でも不思議なことにクラスメイトたちが毎日のように家に遊びに来ていました。
男子です。男子。女子はいませんでしたね。私は母に頼まれて兄の部屋のドアの前で聞き耳を立てていましたが、脅されているわけではなさそうで、楽しげな声が聞こえてきました。不良っぽい子たちではないし、勉強会もしているようで母は一先ず胸をなでおろしていました。
私は失恋したんじゃないかと思っています。はい、クラスメイトと。それで行き辛くなったんだと思います。私も独自に聞き込みをしましたのでその説が濃厚だと思っています。
――クラスメイトの女子の話――
慶介くんと付き合っている女子はうちのクラスには居なかったと思います。
彼は明るくて顔も頭も良く、人気があったので女子からは常に気にされてましたね。
なので突然の不登校には、みんな驚いていました。
最初はみんな、風邪かと思っていました。女子の間では誰がお見舞いに行くか牽制しあっていましたね。でも何日も来ないから不思議に思っていました。
失恋とか、先輩からの脅しとか学校のトラブルではないように思います。クラスでは家での虐待ではと話が上がりました。
だって慶介くんのお母さんってちょっと神経質そうというかなんというか……ね。過保護みたいで小学生の時は家を出る時、どこへ誰と遊ぶか必ず言わなきゃいけなかったみたいですよ? テストの点とかも気にされるみたいで、うーん、教育ママ? ヒステリックママ、ふふっ、そんなこと言っちゃ駄目ですね。
ああ、でも男子たちが彼の家に行くようになったのはそういう理由かもしれませんね。やっぱり心配してましたから。見張りとか、探りに行ってたんだと思います。
……でもね、私は何かに対してのボイコットかと思います。その何かはわかりませんけど。いずれ学校に対して何か改善を要求するんじゃないですか?
――クラスメイトの男子の話――
別に大したことは話してねぇよ。と、言うか、うまくはぐらかされたって感じだな。
母親は別に普通そうな人だったな。ちょっと内気っぽいけど。妹は何かウロチョロしてたな。父親は見かけてないな。
いや、別居とかじゃないだろ。じゃあ何でって、さすがに遅くまでお邪魔しているわけにはいかないだろ。
ん? 話? ああ、だから別に大した話じゃない。
まあ、恋愛話だな。あいつはアリ。あいつはナシ。簡単にさせてくれそう。そうそう、ワーストスリーが決まってさ。デブとおとこ女と出っ歯眼鏡の……って、はははっ、こんな話はマズいか?
――担任の先生の話――
えー、あー、慶介は、あ、慶介くんはな、あー、実に優等生でな。でー、えっーと友人も多く、え? あー、先生にな、相談事とかは……いや、なかったわけじゃないぞ。そうだ、ちょっと話したことがあったな。先生がな、そうそう「何か悩みでもあったらいつでも話してくれていいんだぞ」って言ったときがあってな! そう、うん。察していたのかもしれないな。あいつが何か心に抱えていることにな。ん? ああ、あいつはこう言ったよ。
「ありがとうございます」ってな! 信頼関係はバッチリだ。ま、そのうちまた学校に来るようになるだろう。何かあいつが悩んでいたらみんなで解決してやろう!
波打ち際に立ち、足首を何度か波に撫でられると靴と靴下が濡れた事など、どうでも良くなってきた。きっとこのままズボンやTシャツ、全身が濡れたら他のこともどうでもいいと思うだろう。そんな気がした。ヒソヒソと、あの噂話も。教室も。親も。自分も全部、全部。
あの火を見つめながら歩けばいい。ただそれだけで。全部、焼いてしまえばいい。怪獣がいないのなら、自分でこの身を。
――怪獣
一歩、踏み出した時だった。
突然、波の中から何かが姿を現した。
それは天を見上げ、短い咆哮を上げ、そして……笑った。
怪獣ではない。人だ。男みたいだ。泳いでいたのか? こんな時間に?
……と、こっちに来る。なんで? あ。
「……由良木慶介くん?」
手の届く距離まで来てようやく顔を確認できた僕はそう言った。炎と月明かりで照らされた彼の表情はどこか神秘的に見えた。
「やあ……と、座ろうか」
彼はそう言うと、さっき僕が座っていた辺りを指さした。
僕は「あ、うん」と頷き僕らは並んで腰を下ろした。
由良木慶介。彼とは同じクラスだけど、恐らく話したことはない。
彼はクラスの人気者で、僕はというと人と距離を置くようにしているからまあ普通っちゃ普通だ。
どうして海に? あの炎はまさか君が? 僕が疑問を口にしようか悩んでいるうちに彼が口を開いた。
「直木さ……直木くん、ここで何してるの?」
「え、ああ、うん。歩いてたら海の方が明るいなと思って
来てみたら海が燃えてたから……」
「うん」
「怪獣が出るのかと」
「怪獣?」
彼はそう言うと海を見た。
「確かに」
彼は笑った。それが僕をバカにした笑いではないと感じたから僕も笑った。
どうして不登校に?
学校の問題?
それとも家の問題?
この海は?
彼に訊きたい事はいくつもあったけど……やめた。
だってそれじゃ彼の周りに聞き込みをしていた新聞部の連中と同じだもの。
それにそんな話、この光景には相応しくない。
それから僕と彼は他愛のないことを喋り合った。学校のどの子が可愛いとか好きな本、服、音楽、そんな話。楽しくてどのくらい時間が過ぎたのかはわからない。一通り話し終え、会話よりも間が多くなると彼はそろそろ行くねと言った。
「家に帰るの?」
「ううん」
彼は首を振った。そんな気はしていた。行く宛はあるのだろうか。でも不安そうには見えなかった。
「じゃあ、また」
「……うん、また」
手を振ったあと、駆け出した彼の背中を見送る。
運動部だからか姿勢がいい。僕とは大違いだ。
彼の姿が見えなくなると僕は視線を海に戻した。
海はまだ燃えていた。
翌朝、教室に入ると慶介くんが死んだとクラスメイトから聞いた。
普段、僕に話しかけたりしないのに、ビッグニュースに興奮していたのだろう、そのクラスメイトは「あ」って顔をして気まずそうにそそくさと僕から離れた。
詳しく聞く必要も聞き耳を立てる必要もなかった。クラス中、その話題一色に染まっていたからだ。いや、学校中、恐らく町中がその噂で持ちきりだろう。
事故か自殺か、みんな腕を組んだりまじめな顔をしてテレビ番組のコメンテーターのように仮説を立てあっている。
僕は喧騒まみれの教室の中、自分の席に座った。
彼は乗っていたボートが炎上して死んだらしい。
どうしてボートに乗っていたのかも、どうして燃えたのかもわからない。
ただ、遺体が見つかっていないことだけはわかっている。
僕が会った彼は幽霊だろうか。
違うな。
隣に座った彼は立ち上がるとき、体についた砂を少し煩わしそうに手で払っていた。
幽霊がそんなことするかな? しないな。どうでもいいと思うはずだ。でも彼は思わなかった。
そして、あのスッキリした顔。以前から時々、彼は窮屈そうな表情をしていた。
だから彼は行ったんだ。ここじゃないどこかへ。
「あー、ちょっといい? 新聞部なんだけどさ、全員に話を聞いてるんだ!
由良木くんの事なんだけど……」
――クラスメイトのおとこ女の話――
……話すことなんてないよ。
「あ、そう……じゃあ、ね。あ、そこのきみ、きみぃ! 話を――」
……僕は彼と会ったことを誰にも話すつもりはない。
彼の家族に対しても同じこと。彼は誰にも手紙を残さなかったらしい。そのことから察したというよりは、なんとなく彼がそう望んでいると、あの夜すでにそんな気がしたからだ。
彼がはっきりと口止めをしなかったのは僕の自由を尊重したからだと思う。そんな彼に敬意を表したかった。それにその気があればいずれ自分で電話なり手紙を送るなりするだろう。
あの夜、海から出てきたのは怪獣ではない。
でもこの町を燃やしてくれた。
前にしてた僕の噂話など今は誰もしていない。それは一時的な事かもしれないけど、でもあの夜、彼に『学ラン、似合っている』って言われたから僕の背筋は前よりも伸びている気がする。
彼に次、会った時にみんなのこの慌てふためいた様子を話そうか。……いや、やめておこう。彼とはまた他愛のない話をしてみたい。
海はまだ燃えているだろうか。目を閉じ想像する。
穏やかな海が頭の中に広がり、心が安らぐのを感じた。
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