癒しの音

 ある夏の終わりの夜、男は橋の上から川を見下ろしていた。

 風が強く吹くと金属製の橋の欄干が下手糞な弦楽器のような音を奏でる。男はそれをぼうっと聞き流し、風が止むと目を閉じ、耳を澄ます。

 虫の音色。魚が跳ねる音。穏やかな風に撫でられ体を揺らす、川辺の雑草の音。川のせせらぎが特に心地よい。ヒーリングミュージックというやつだ。

 男は眠れぬ夜にこうして川までやってきては自然の音に聞き惚れる。そして、程よく眠気を帯びたら家に帰るのだ。それが彼の習慣。

 雨の日は来ない。濡れるのが嫌だからじゃない。必要なら構わないことだ。ただ、雨の音がテープレコーダーの録音の邪魔になるというだけだ。カセットテープなど古いと男自身、思うことはあるが、テープが増えていく喜びがあった。


 眠くなってきたな。そろそろか……な……。

 男は体の力を抜き、目を閉じたまま深呼吸を始めた。


 引き寄せられる感覚がする。

 落ちる感覚がする。

 沈む感覚がする。

 そして、浮遊感……。

 すべてが心地よかった。これは自分の感覚だろうか。ああ、すでにここは夢の中かもしれない。

 

 瞼の向こうに女性の姿が見える。

 可愛らしい、素敵な女性だ。声をかけると少し驚いたが、すぐに微笑んだ。

 手を取り走り出す彼と彼女。そして……



 ――星……?


 瞼を開いた男の前に広がっていたのは川ではなく夜空であった。目覚めたての緩慢な脳と体に動揺が押し寄せたのは下敷きにしている草や石の感覚でも、片方の腕が川に浸かっていることに気づいたからではない。

 

 ――ない。


 起き上がり、濡れた手で触れることもお構いなしに彼はポケットの中を調べる。そして、辺りを見渡し、近くに落ちていたテープレコーダーを目にすると、男の顔にようやく笑みが戻った。

 

 ――ここは……。


 川辺。ただ、先程いた橋は見えない。下流か上流か。どちらだろうか。あの橋の上からここまで来た記憶がなかった。地面を背に寝ていたので背中、それに体の節々が痛い。服も汚れている。今、何時だろうか? 疎らに人の声がする。……耳障り。今夜はもう十分だ。

 状況を整理した男は体についた土を手で払い、歩き始めた。


 家に帰った男は服を脱ぎ、湯船に浸かった。

 手でお湯を掬い、トポトポトポと落とす。この音もまた心地よい。音を楽しみながら男は帰路でのことを思い返していた。


『川の下流で……』

『女だってよ女』

『まだ若いそうよ』

『いやねぇ。ほら、何ヶ月か前にもあったじゃない?』

『自殺でしょ』

『橋から飛び降りたんだよきっと』

 

 帰り道で出会った、川の近辺の住人の間で交わされていた会話。繰り返し、繰り返しそして折り重なり合い、不快なノイズと化したため男は潜ってそれを遮断した。

 静かな空間に浮かぶ考えと泡。


 女は橋から飛び降りた。


 違うな。首を絞められながら水に沈められたのだ。

 声をかけられ、正常性バイアスに身を委ね、手を引っ張られ落とされ、沈められ、そして浮かび、流された。

 女はひどく抵抗しただろう。手足をバタつかせて。

 音がする。

 ばしゃばしゃ。

 ばしゃばしゃ……。


 風呂から上がった男は体を拭き、テープレコーダーを手に取った。

 再生はしない。今夜はもう眠い。十分だ。

 男は開閉ボタンを押して、テープを取り出した。そして二つの箱のうちの一つを開け、中に放り込んだ。カチャッと、中のテープとぶつかった音がした。

 たまにあることだ。そういう日のテープはこのように別にする。

 これは贈り物。それも特別な。知らない自分からの……。

 彼は自己主張しない。自分の声が入らないようにただ、淡々とこなす。

 夢遊病、別人格。何にせよ男が恐れたのは最初だけだった。いつの間にか、時々もたらされるその録音が目的になっていた。


 男は目を閉じ、耳を澄ました。

 部屋は静寂そのものだったが、男の耳の奥では水の跳ねる音と女の悲鳴が響いていた。

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