犯行現場
犯人は現場に戻る。その少年は以前、刑事ドラマで耳にしたその言葉をよく噛み締めていた。
実際、彼は何度も現場に戻ってきていた。
そう、まさに犯人。と言っても放火とか殺人といった恐ろしいものではない。彼がした事というのは落書きだ。
ある曇り空の日の事。少年は遊びに行く途中、近所にある廃墟となった大きな倉庫の横を通りがかったとき、大きな脚立を見つけた。さらに近くにはスプレー。これは少年の悪戯心を大いに駆り立てた。
少年は周囲に人がいないかよく確認すると枯れた蔦が絡みついた錆びたフェンスを乗り越え、廃倉庫の前に立った。扉はグレーでトタン地の壁は白。ただし雨風に曝されくすんでおり、所々錆びついていた。
少年は扉の脇に脚立を立てて登った。そして後悔。登る前に何を描こうか考えておくべきだったと。高い所が苦手という訳ではないが、くつろげる場所でもない。
少年は悩んだ末にスプレーで自分の名前を描いた。と言っても他の人にわからないようにイニシャルで。小学生だが、いや小学生だからこそ保身のための知恵が働く。
描き終えた少年は脚立から降りて見上げた。
思いのほか、アートっぽくなった。と、本人は満足気であった。まるで自分がこの倉庫の所有者になった気分。
びゅうと吹いた秋風に身を震わせると、少年は辺りを見回した。見つからないうちに退散退散、と少年はフェンスを乗り越え、自転車に跨ると鼻歌交じりに現場を後にした。
翌日、少年は廃倉庫を見に行った。縄張りのチェックという訳だ。
すると、驚いた。少年の名前の下に誰かのイニシャルのようなものが描かれていたのだ。
少年は満面の笑みを浮かべた。部下ができた気になったのだ。
しかし、それで終わらなかった。ブームが来たとでもいうのか、割れ窓理論か落書きはその後も増えていった。
一週間も経てば、まるで一大組織のような様に。
当然、てっぺんのイニシャルの自分がボスでその下は構成員。そう思うと少年のニヤつきは止まらなかった。
だが、それも今日までであった。
フェンスを乗り越え、廃倉庫の前で仁王立ちする少年。
顔は不機嫌そのもの。その理由。
少年のイニシャル。それに×マークが塗られていたのだ。そして、その遥か上には誰かのイニシャルが。
少年にはこれがどういう意味かはわかっていた。挑戦状だ。
少年はキッと睨むと脚立を壁に掛け、目一杯上まで登れるようにした。無論、恐怖心はあった。だがこれなら奴の上に描ける。これはプライドを賭けた勝負。負けるわけにはいかない。
少年はそう己を奮い立たせ、脚立に足を掛けた。
一段、二段、三段……。
下は見ない。見るべきは敵影のみ。
そして、とうとう脚立の先っぽに手を掛けた少年。
まずは奴のイニシャルに無茶苦茶にスプレーを吹きかけた。
シンナーの臭いに顔を背けるも、その顔は笑っていた。
例のイニシャルは黒塗りに、まるでタール溜まり。小さな気泡がいくつかでき光沢を放っていた。
いい気味だ、と少年は笑うとさらにもう一段、上に登った。
手を掛けることができる場所は倉庫の壁のみ。ざらざらとし、顔を寄せると錆びた匂いがした。
そして少年は新しく自分のイニシャルを描くと、満足感と自己肯定感に酔いしれた。
勝った。これで完全勝利。
……と、そう長くは余韻に浸ることはなかった。
何せその高さ。周辺の家の屋根を越え、辺りを一望できた。いい眺め……と思ったのは一瞬の事。込み上げてくる恐怖心。
もう降りよう。
そう考えた少年が下を向いた瞬間だった。
目が合った。
……男の子?
小学生。
僕と同じくらいの年かな。
少年の思考はそこで途絶えた。脳だけがあの曇り空に投げ出されたかのように頭の中が空白に。
脚立が揺れた。
体が大きく傾いた。
そして、世界がゆっくり動いて見えた。
再び少年の脳が空から肉体へ帰って来た。
しかし、思い浮かんだ言葉は
どうして。
蹴った。
その二語のみであった。
それ以上を考えるには時間が足りなかった。地上はもう目の前に。
一瞬のブラックアウト。意識が戻る。横倒しの視界。
少年が抱いた疑問は、一切体が動かないことだけではない。
脚立が倒れた際、大きな音がしたはずなのに、それが聞こえなかったこと。
今も何も聞こえないこと。風の音も転がる落ち葉の音も自分の呼吸の音さえも。水溜りはなかったはずなのに頭が、髪の毛が、服が濡れていると感じること。痛みがないこと。寒気が強まっていくこと。
そして最大の疑問。それが目の前に来た。
少年の前にしゃがんだその男の子は立てた一本の人差し指で少年の顔の横をなぞり始めた。
それはイニシャルであった。
ひび割れたコンクリートに染みこむその文字が赤黒いことから少年は疑問の一つを解決した。
男の子はまだまだ描いた。小さく、黒い。餌に集る蟻のようであった。そしてその全てが廃倉庫に描かれたものと同じだと気づくと少年はまた一つ疑問を解決した。
彼が描いた。毎日落書きを増やし、やがて×マークをつけた。僕を怒らせ、危険な高さまで登らせ、そして……。
流れ出る血が文字を塗りつぶしていく中、少年はまた一つ疑問を抱いた。
僕が死んだ後、彼はこの犯行現場に戻るのだろうか……。
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