ヒマワリ畑◆
子供の頃、私は近所のヒマワリ畑に行くのが好きだった。
広大な畑に釣り合い、巨大なヒマワリ。(私が小学生だからそう見えたということもあっただろうが)それらを掻き分け中に入り、我が物顔で駆け回る。
疲れて見上げれば、ヒマワリたちは私に向かって微笑みかけ、そこに吹いた風にくすぐったそうに体を揺らすのだ。
何もかもが私の味方をしていた。あの頃はそんな風に思っていた。
そんな私の心情に変化が起きたのはある夏の日のことであった。
私がいつものように畑に入ろうとすると急に畑の中から手が伸び、腕を掴まれた。
しまったと思い、私は目を閉じた。畑の持ち主に見つかり、怒られるのだと思ったのだ。
体を強張らせ、頭上から浴びせられる怒号を覚悟したのだが、ぐいと腕を引っ張られ、私の体はヒマワリ畑の中に引き込まれた。
――女の子?
妙に思い、目を開けた私の前にあったのは、薄い水色のワンピースを着た、身長が私と同じくらいの子供の後姿だった。
何も言わずに畑の中を突き進んだその子は急に立ち止まったかと思えば、私の腕を離して振り返り、にこやかに笑った。
――かわいい。
ヒマワリの妖精だと私は思った。本気でだ。
そのまま私が見惚れていると、彼女は突然駆け出し、姿を隠した。……と思ったら、ひょっこりとまた現れ、笑顔を見せた。
――かくれんぼだな。
楽しかった。じゃんけんもせずに私が鬼と決まったかくれんぼは、やがて鬼ごっこになり、私は夢中になって彼女の背中を追いかけた。
私の笑い声が青空の下、ヒマワリたちと共に揺れ踊った。
そうとても楽しかったのだ。あの瞬間は。
だが、しばらくすると彼女が急に立ち止まった。
――捕まえた。
私は息を切らしながら彼女の背中にポンと触れた。
だが、彼女は何も反応を示さなかった。私がどうしたのだろうと思った時、彼女は振り返り、そして地面を指差した。
そこに笑顔はなかった。地面の一点を指差したまま動かない彼女。
私はそこで急に彼女が怖くなった。思えば彼女は一言も声を、笑い声すら発していなかったのだ。
一つ、綻びを見つけたらまた一つ……と不安が穴の中から顔をのぞかせた。
思い返せば、私の腕を掴んだ手、私が触れた彼女の背中。体温を一切感じなかった。冷たさも、熱さも。
私は一歩、また一歩と後ずさりし、そして走り出した。脇目も振らずただひたすらに。後ろを振り返れば今度は彼女が追いかけてきているのだと思ったのだ。
そして捕まれば……。そうなることは避けたかった。一瞬、迷宮のようにもうここから出られないのでは、と頭によぎったが、そんなことはなかった。
ヒマワリ畑から出ると、もう夕暮れ時だということに初めて気づいた。
私は振り返り、息を整えつつ彼女が追って来てないか確かめた。
ヒマワリの茎と茎の間、影の中にある彼女の姿。その白んだ冷たい目で私をジッと見つめ、まるで檻の中の獣。
……そんな姿を勝手に想像し私は身震いした。
だが、想像、妄想。いないとわかるとホッとした。よかった。彼らが彼女を閉じ込め、私を守ってくれるのだ。そう彼ら、ヒマワリたちが……。
私はそう思い、ヒマワリたちを見上げた。
その瞬間、ゾッとした。
私に微笑みかけていたそれらは、よく見ると所々、虫に食われていた。
そう虫だ。悪寒がし、私は恐る恐る自分の肩や服を見た。幼虫のようなものが数匹、私の服の上を這いずっていた。
そのうちの一匹と目が合い、私は甲高い悲鳴を上げて滅茶苦茶に振り払った。
どうして今まで気づかなかったのだろう。湧き上がる嫌悪感を一旦押さえ、私はもう一度、ヒマワリを見上げた。希望にすがるように。今のは何かの間違いだったと。そう、私は彼らのことを嫌いになりたくなかったのだ。
ちょうどその時、一匹のハエがヒマワリに止まった。
首吊り死体。
少し枯れて俯く姿に私はそう思った。
その日以来、ヒマワリ畑には行かなかった。
ヒマワリに近づくことさえしなくなった。
虫も触らなくなった。
幽霊の存在を否定、鼻で笑った。
男の子だけと遊ぶようになった。(思春期を過ぎるとまた女の子と遊ぶようになるわけだが)
思えばあの瞬間、私は大人へ一歩近づいたのだ。その証に家に帰った私はいくつかの古びた玩具と、キャラクターものの靴下を捨てた。そしてあの女の子の事は記憶の奥底へと封印した。
なぜ今になってこんなことを思い出すのか。それは大人になった私が今、車を走らせ、あのヒマワリ畑に向かっているからに他ならない。
とうの昔に宅地にでもなっていると思っていたが、そこにあのヒマワリ畑はあった。
ひどく乱雑なのに前と変わらないように思える。恐らく私が子供の頃からすでに人の手入れなどなく、放置されていたのだろう。
私は荷物を抱え、畑に踏み込んだ。当然、あの頃に比べて私の背はかなり伸びたほうだが、ここのヒマワリには劣っていた。やはりかなり大きかったのだ。
とうに日は落ちていたが畑に一歩入った瞬間からあの頃の匂い、日差しの暖かさが鮮明に頭の中で蘇った。
一歩一歩、記憶と照らし合わせながら死臭の迷宮を進む。女の子が指差した、あの場所を目指して。
……見つけた。
少し開けた場所。ここに間違いなかった。
私は荷物を降ろし、持ってきたスコップで穴を掘る。ただひたすらに深く深く。
……何かに当たった。
私は膝をついて土を掻き分けた。
骨だ。
小さい、子供の骨のようだ。
……ここに来て良かった。思い出せて本当に良かった。女の子の骨はあの日からずっと、いや、それよりも前から見つからずにずっとここにあったのだ。
あの子は誰かに自分を見つけて欲しかったのだろう。だからあの時、私を畑に引き入れた。伝えたかったのだ。自分はここにいると。
私は大きく息を吐いて空を見上げた。
私を見下ろすように頭を垂れるヒマワリたち。もう嫌悪感などなかった。
私はそこからさらに深く穴を掘り、妻の遺体を投げ入れ、そして埋めた。きっと何年経っても見つかることはないだろう。
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