怒り、天を衝く
夕方だというのになんて暑さだ。おのれ残暑め……と、ふと目についたショーウィンドウに映る自分の顔。憎しみがそのまま顔に出ていた。いかんいかん。すんと真顔に戻してみるが蒸し暑さにまたすぐに顔が歪む。どこか涼める場所、そう喫茶店なんか……。
「だ・か・らっ! なぁーにぃしてくれてんだよ!」
喫茶店の看板。それよりも目を引いたのはこの商店街に響く怒鳴り声の主。
男だ。中年の男が喫茶店の隣の電気屋の店員に怒鳴っている。
珍しい。いや、これ自体はままあることなのかもしれないが、あそこまで顔を真っ赤にして怒鳴り散らす人間は見たことがない。
私の周りの人もそう思っているのか足を止め、心配そうにあるいは物珍しそうに遠巻きに様子を窺っている。
エプロンに可愛らしいフォントで書かれた電気屋の店の名前の文字が痛々しい。手に柄杓を持っていることからして、打ち水の際、水が服にかかったとか何かだろうか。理由は何にせよ、このままでは店員があまりに不憫だ。助け舟を出してやるか……。
……と、ん? なんだ? 男が急にすんとした表情になり黙ったと思ったら、頭を掻いてそのまま立ち去ったじゃないか。怒られていた店員も首をかしげている。どうしたんだ急に。気にはなる……が、わざわざ男を追いかけて訊くのも変だ。まあいい。解散、解散。一時停止を解除したように様子を窺っていた人たちが歩き始め、私もそれに倣う。
「ああああぁぁぁぁううううぅぅぅ!」
怒号が響いた。今度は子供だった。母親になにやら抗議をしているのか地団駄を踏んでいる。
しかし妙だ。この親子は先程の遠巻きに見ていた者の一組。逆鱗に触れるようなことなどなかったと思うのだが……。やはりそうだ。母親は訳がわからないといった表情でうろたえている。
一体何が……と、まただ。先程の男と同じように子供は急にすんとした表情になった。そして自分はどうしてああも怒っていたのだろうというように首を傾げている。
……しかし、私には理由がわかったかもしれない。
あいつだ。あの虫。多分そうだ。子供の体からなにやら虫のようなものが飛び跳ね、去っていったのだ。思えばさっきの男にもついていたかもしれない。
バッタのようにぴょんぴょん飛び跳ねさあ、どこへ行く気だ。っと……二人組の主婦。立ち話中か。
お……? 引っ付いたぞ。
お、おお……見る見るうちに主婦の顔が赤くなり……。
「う、うおおおおおお!」
怒り出した。怒鳴り散らし、罵詈雑言の嵐。まるで鬼。相当溜まっていたということだろうか?
と、近づくのは恐ろしいが私の仮説が正しければ、これを摘まみ取ったら……。
思ったとおり、怒りはフッと消えたようだ。
やはりお前の仕業か。枯れた笹の葉のような色をしているが、油断ならない奴だ。
新種の虫だろうか。私の指から逃れようとバタバタと足を動かしている。ふふっ、怒っているようにも見えるな。どうやらこの虫は取り付いた人間の怒りの感情を引き出すようだ。……では元々怒っている人間に付けたらどうなるのだろう。
結局、喧嘩を始めた主婦たちを後にし己の好奇心と悪戯心に煽動され獲物を探す。
お……ちょうど良いところに怒っている老人を見つけた。
それもかなりの形相。若い店員に怒鳴り散らしている。理由などはどうでもいい。しめしめ。さあ、さてさてどうなる……?
お?
老人の顔から怒りがスッと消えた。
どうしたのだろう? 仮説が間違っていた?
おいどうしたんだ虫よ。無視するな、なんて言わせるな……よ、ん?
背中が……割れた?
うお!
その勢いに私は思わず仰け反ってしまった。
中から羽の生えた虫が勢いよく飛び出したのだ。
なるほど成虫になったというわけか。人間の怒りが養分だったのだろう。
虫は私の周りを少し旋回したあと、飛び去った。
何かに似ていたな。あれは……そう、まるで赤トンボ。
どこか秋を想起させる姿は、私の心を少しだけ涼しげにさせたのだった。
これならもう喫茶店は良いか。
さ、帰ろう……と何だ? 電気屋の周りに人だかりが。また誰か怒っているのか? 今度こそ助けてやるか……。
いや、違う。テレビを見ているのか。ニュース速報?
これは……あの虫。
それも大群が蝗害のように進行している。
お、地図が出た。
進路にあるのは……休火山。
いやいや、まさかな……。
しかし噴火し、スッキリしてくれればこの残暑も収まるだろうか。あるいは……。
空を見上げたが、夕焼けは飛ぶ虫に影を齎すばかりで私に何も答えはしなかった。
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