常人ならざる者

 散歩中、男は興が乗っていたようで、思いのほか自宅から遠くにまで来た。

 川と山の間にある大きな広場。刈り揃えられた雑草が緑の絨毯のようで目に優しい。と、言っても今は深夜。遊歩道から絨毯へ三歩ほど踏み込み外灯を背にした今、目の前にあるのは薄めた墨汁を白い紙に伸ばしたような灰色と、その奥まった場所で群れる黒く塗りつぶされたような木々による濃淡。

 それでも今は独り占めだ。見晴らしがよく、気分がいい。

 男は深く息を吸い込み、ここぞとばかりに肺を新鮮な空気で満たす。上機嫌で体を伸ばしていたが、ピタリとその動きを止めた。

 

 灰色の上、黒を背にぼんやりと浮かぶ……白。

 

 遠くで何か白いものが動いている。

 猫だろうか?

 いや、大きい。

 犬だろうか?

 それにしては変だ。前足がないように見える。

 徐々に大きくなってい……違う。

 近づいてきている。


 男がそう気づいたとき、まるで向こうも男が見ていることに気づいたかのように、それは男に向かって、のたうつように走ってきた。


 男は背を向け、走り出そうとした。

 しかし遅かった。恐怖と、走ってくるそれが何か知りたいという好奇心が、逃げるタイミングを遅らせたのだ。


 背中に衝撃が走り、倒れこんだ男の上にそれは馬乗りになった。

 男はひぃと悲鳴を上げ、手足をばたつかせる。

 溺れた者のようにただひたすらに。全身を覆う恐怖が手足の指先から体温を奪う。

 死。死。無駄。殺される。

 男は息を荒げつつ、どこか諦念めいたものを抱いた。

 が、足掻いたその甲斐あって押しのけることができた。

 

 男はそのまま這いずり距離をとる。

 立ち上がろうとするがうまくいかない。腰が抜けていたのだ。


「んーんーんー!」


 うめき声がした。それは男の後ろから。男は離れようと雑草の下、土に指を食いこませる。冷たい感覚がした。

 だからだろうか。男は反対に背後からするその声に熱っぽさを見出した。 

 どこか必死な、懇願するような。

 男は振り返った。


 人だ。白い拘束衣を着ている。前足がないように見えたのはそのせいか。舌を自ら噛まないようにするためか口輪をつけている。精神病の患者だろうか。

 男がそう思ったとき、遠くから声がした。


「すみませーん。驚かせてしまってぇ」


 どこからか中年くらいの女性が男に駆け寄ってきた。まるで飼い犬が悪戯したかのように困り顔に笑みを浮かべている。


「い、いえ。だ、大丈夫です……あ、か、彼は脱走でもしたのですか?」


「いいえ、散歩です」


 女性はにこりと笑った。


 男はホッとしたのか腰に感覚が戻ってきた。立ち上がろうとする男をその拘束衣の男が見開いた目でじっと見つめている。

 助けを求めているのだろうか?

 確かに、その格好は余り良い気分はしないだろう。しかし病院、もしくは自宅介護の方針に口を出すのは憚れる。それに他人を傷つけないようにするにはそうする他ないのだろう。

 男はどこかすまないという気持ちを抱きつつ目を背けた。


「それじゃあ、私はこれで――」


 男がそう言った瞬間、首筋に刺すような痛みを感じた。

 途端に動かなくなる体。朦朧とする意識の最中、男は確かに聞いた。


「運動させないと味が落ちちゃうので」


 拘束衣の男のうめき声が遠のいていく。

 屠殺前の豚のようだ、と瞼を閉じる寸前に男はそう思った。

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