鏡の中の俺

 跳ねた髪を手で撫でつけ、不満そうな顔。ここで欠伸を一つ。間抜け面。少しぼんやりした後、ハッとした顔。

 そうだ、悠長にしている時間はない。会社に遅れてしまう。鏡に背を向け、慌ただしく洗面所から出た。


 ……と、これが俺の役割。今日もいつものように時間に追われ出勤。まったく俺ながら学ばない奴だね。

 そう、俺。鏡の中の俺は鏡の外の俺と全く同じ動きをする。それが俺の仕事であり生きがいさ。

 主たる鏡の外の世界の俺が鏡に映らなくなった後は待機時間。ま、自由に過ごしてオッケー。

 と、言っても洗面所を出た先、鏡に映らない空間ってのは灰色で薄暗い殺風景な世界さ。

 オシャレなランプの一つでも置いてほしいもんだね。あんな赤いランプじゃなくてさ。

 さ、俺もいつものように、まず持ち物チェック。お、あったあった。外に出る日はスマホを持っていくから暇つぶしができて良い。休日、スウェット姿を一度映したきりなんてときは俺も次に映るまで同じ姿のまま変化しないから退屈でしょうがない。

 おっと、もう着いたか。いや、駅構内のトイレか。

 三、二、一、と壁の上部にあるランプの下に出現した先の空間。そこにタイミングよく飛び込み、繋がっていたのはビンゴ。駅構内のトイレだ。

 寝癖が気になったんだな。なーに、色気づいてんだか。ほら行った行った。でもほんの十数秒の仕事でも手を抜かないのが俺さ。


「お疲れ」


「……っす」


 去り際に隣の洗面台にいた男にお疲れという気遣いも忘れない。前にも会ったな確か。その時も今みたいに向こう側の自分に気づかれないよう返事するのが上手いやつだなと思ったんだ。口を動かさずにさ。

 なんか嬉しいよな。他の奴と鏡の中で会うのは稀なことだ。ま、そうだよな。男だからっていうのもあるが、他人と一緒に鏡に映る機会なんてのはそうあるもんじゃない。

 銭湯とかバレエ教室とかまあ、あるにはあるだろうが主の俺は無趣味だ。

 だから俺も仕事がないと暇でしょうがない。

 主な仕事場である洗面所に何か置いてくれれば、こっそり遊べるんだが、ほーら、覗いてみても何もなし。こちらからコンタクトをとることはできないのが残念だ。ほーんと待つだけってのは楽じゃないんだぜ。


 鳩時計みたく定期的にあくびをして出番を待つ。と、今日は意外と出番が多いが会社のトイレや飲食店のトイレなど小粒な仕事。

 直らない寝癖を気にする一日。そんな主の俺が帰宅したのは夜。

 

 はい、お疲れさん、と。疲れたあいつとは正反対に俺の心は仕事ができるとウキウキと……っと何だよその顔。洗面所で手を洗う俺がニヤニヤニヤニヤ。そう言えば今日はやけに機嫌が良かったな。

 当然、鏡の俺もそのニヤついた顔、その動きを真似するのだが……おいおいおいおいこいつは驚いた。

 

 女が鏡に映ったのだ。

 

 付き合ってる女はいないどころか昔から縁がない奴だと思っていたが、この女はまさか……。

 

 二人は仲良さそうに洗面所を出て行った。リビングに向かったのだろう。

 俺は女と二人、洗面所から出て待機場に。多分、次に彼女が映る時も洗面所の鏡だ。だからここにいるのはいいんだけど……。


「……えっとあの、君は?」


「彼の意中の子」


 そう言ったあと、彼女はそっと俺の耳に囁いた。


「彼女、同棲する気あるみたいよ」


 ……おいおいおい俺よ。なんだよ、やればできるじゃないか。

 ホントよくやったぞ俺。

 

 いつか鏡の向こうの俺と一緒に笑顔でガッツポーズしたいと俺は思った。

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