蛙声

「失敗した……」


 夜、窓の外に広がる田んぼを眺めて、男がそう呟いた。


 この一軒家を買った当初は隣が田んぼであることは気に留めなかった。負の要素など頭に浮かぶことなく、むしろ実りを楽しんだり季節を感じられるのではと思ったくらいだ。しかし夜、まさかこれほど五月蝿いとは。


 男を悩ませているその騒音。正体はアマガエルの鳴き声だ。一匹だけなら風情だと思えるのだが、田んぼの広さから考えて、その数は数百匹に上るのではないか。

 決して大げさではない。窓を閉めても聞こえてくるこの騒音が証明だ。苦痛でしかない。

 無論、年中こうではないだろうがいつまで続くのか。男は対策を考えるが、まさか毒を撒くわけにはいかない。田んぼの持ち主に訴訟を起こされてしまうだろう。


 役立たずの耳栓を壁に投げつけ、男は頭を掻き毟った。転がる耳栓が足に触れ、自分が投げたにもかかわらず驚き、ビクッと身を強張らせた。


 虫かと思った。クソが、蛙に食わせてやろうか。ん? 食わせる……生き物……。

 

 その時、男の頭に天敵という言葉が思い浮かんだ。蛙を捕食する生き物を放てばいい。作物に害はないはずだ。

 そう考えた男は毎日、蛙を食べそうな生き物を大量に捕獲及び、ネットで注文しては田んぼに投げ込んだ。

 蛇、ムカデ、ネズミ、猫。アマガエルを捕食しそうな生き物なら何でもだ。

 それだけじゃない。逃げ出しにくいよう、足を傷つけ、鳥に至っては飛べないようにナイフで翼を切りつけてから田んぼに放したりもした。

 狂気の笑みを浮かべ、それ自体が楽しみとなっていることを男は自覚していなかった。


 だが、その甲斐があったのか今宵、田んぼは静寂に包まれていた。


 ああ……実にいい。


 男は窓を開け、鼻から心地良い空気を吸い込んだ。だが。


 ……おかしい、静か過ぎる。

 一匹の鳴き声も聴こえないのはどういうことか。

 天敵を恐れて逃げ出したのだろうか……。

 

 男が吸い込んだ息を吐いた。その時だった。


 奇声。今まで聴いた事のない声がした。それは耳を劈くほどの大きさ、そして目や耳、鼻、口といった穴という穴に髪の毛を入れられたような不快感を伴う声だった。そしてそれは額の奥、脳を痒くさせた。


 男は無意識に額を掻きながら身を伏せ、窓からそっと田んぼを覗いた。


 暗い。

 暗い。

 暗い。

 

 何も見えない。ライトを持ってくるか……。

 目を走らせながら男はそう思った。

 だが、必要なかった。

 見つけた。男が、あるいはそれが男のことを。


 それは月明かりに反射する田んぼの水を遮る平たい黒い塊。

 藻のようであった。

 蠢いている。風に揺れる稲穂のように均一ではない。各場所が不規則に不気味に動いている。脈打つ心臓を平たくし、繋ぎ合わせたようなそんな生々しさ。


 蟲毒。


 ふとその言葉が男の頭をよぎった。

 生臭さを含んだ風が肌を撫で、嫌な汗が吹き出し男は窓を閉め、もう二度と開けないと固く心に誓う。

 

 それから少し経ち、また奇声がした。


 暗い。

 暗い。

 暗い。

 

 家の排水口の中から。

 

 自分はすでに器の中。そう気づいた時にはもう遅く。悲鳴は喉の奥。肉に埋もれ行き場をなくし、ただただその場は


 喰らい。

 喰らい。

 喰らい。

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