ルール
その男はバスに揺られていた。うつらうつらと頭を揺らしては首を振り、瞬きをする。降りるバス停はまだ先だが、ここで眠ると確実に寝過ごすと直感していたのだ。
チラリと腕時計に目をやる。残業で遅くなった。恐らくこれが最終バス。この疲れた体で歩いて帰るのは避けたいところ。
男は大きくあくびをし、腕を伸ばした。ううう、と声が漏れ、そこでハッと手を膝の上に下ろした。周りの人の目を気にしたのだ。
乗客は男を含め四人。ドアが閉まり発車しようとするバスを少々強引に止めて乗ったので、目立つのはばつが悪い。
次のバス停に着いた。
ドアが開き乗客が一人降り、女が一人乗った。その女は通路の向こう、男と同じ列の席に座った。
それで眠気は吹き飛んだ。今あるのは好奇心。
男がチラッと女のほうを見る。長い黒髪の女だ。白いワンピースを着ている。
バスのドアが閉まり、再び走り出した。
女の肌はバスの電灯のせいか、より白く見えた。健康的な白さとは言い難い、それに何か違和感が……。
「あ」
男は思わずそう声を漏らした。女と目が合ったのだ。
男はすぐに顔を窓の方に逸らし、誤魔化すように咳払いをした。一瞬見えた女の目はギュッと潰したように細長く、顔は平たく薄っぺらく見えた。まるで能面のようだ。映像が頭から離れない。
外の景色を見て上書きしよう、と男は窓の向こうに目を走らせた。闇と同化した木々とオレンジ色の外灯ばかり。この辺りに人気はない。そのうち窓ガラスに映る疲れた自分の顔にピタッと焦点が合った。
そしてその後ろ。ゆっくり立ち上がる女の姿が見えた。
男はすぐに窓から顔を離した。その先は見たくなかったのだ。
僅かに座席が揺れた。そして焦げたプラスチックのような不快な臭いがした。
視界の端に白いものが映る。考えるまでもない。女が隣の席に移動してきたのだ。
この不気味な女、わざわざ俺の席の隣に来るなんてどういうつもりだ……?
好意を持っていると勘違いされてしまったか? ああ、見るんじゃなかった。そもそもあの乗客のせいだ……アイツが変な動きをするから少し目が冴え好奇心が湧いてしまったんだ。
男は心の中でそう悪態をつく。
男が見た変な動きとは乗客がバスを降りる際、両膝を床につき、祈るように手を合わせ腕を目一杯伸ばしたことだ。何かの宗教団体の人間だったのだろうか。
次のバス停に到着した。ドアが開き、また乗客が一人降りた。そして……。女が一人乗ってきた。
男は驚きのあまり思わず声を漏らしそうになり、口を強く結んだ。
乗客がまた同じように奇妙な動作をしてから降りたこともそうだが、それよりも驚くべきは乗ってきた女だ。
白いワンピース。服装が一緒なだけなら流行だと自分を納得させることができるが、隣に座っている女に雰囲気が良く似ているのだ。とは言え、隣の女と目が合うことを警戒してパッと一瞬見ただけだから確信はない。また近くに座られては……。
男の後ろのほうからトサッと音が聞こえた。
どうやら、その女は後ろの席に座ったようだ。
男は正面を向いたまま耳を澄ました。呼吸音が聞こえない。バスのエンジンに掻き消えているだけだ。そうだとも。
男は鞄をギュッと腹に抱える。男の不安と無関係にバスが淡々と動き出す。その秩序が男を少しばかり安心させた。
次のバス停に着いた。
また同じように乗客が一人降りた。そう、同じように奇妙な工程を終えてから降りたのだ。
男は嫌な予感がしていた。
顔は向けられない、何なら耳を塞ごうか。そう思った時、聞こえた。
足音。それもペタペタと裸足のような。思えばさっきもこの音がしていたような。女たちは裸足なのか?
視界の端に白いものが映り込み、男はとっさに顔を伏せた。あの白いものは恐らく乗ってきた女の服。そう、白いワンピースだ。そして男は女が自分の前の席に座ったことを確信した。
次のバス停に到着した。男が降りるバス停はこの次。あと一つ。ここを耐えれば。
目を閉じ耳を澄ますと雨の音が聞こえた。降りることは避けたい。なんてことないさ、ただの女だ。そもそも認めたくない。非現実的な存在など。さあ、早く発車しろ……まだか、まだなのか? また誰か降りるのか?
そう考えていた男だがハッと気づいた。
……そうだ、あの不気味な女たちを除いて、このバスに残っている乗客は俺一人だけじゃないか。
男は早く、早く閉まってくれと願った。だが……足音が聞こえた。ヒタヒタと裸足で歩く音。それが近くで止まった。座ったのだろうか。瞼を閉じた闇の中ではそれはわからない。
バスはまだ発車しない。
俺が降りるのを待っているのだろうか。思えばここまで一人降りて、一人乗る。その工程を繰り返している。
降り際の奇妙な動作といい、これはそういう暗黙のルールなのか? 儀式? 俺は妙な宗教団体のバスに乗ってしまったのか?
男が息を大きく吐いた。恐怖に負けないという虚勢。降りないという意地。女が先に降りてくれという願望。それらを捨て、覚悟を決めた。いや、自分が馬鹿で傲慢だったと気づいたというべきか。逃げたい。ここから今すぐにでも――
男は顔を上げると同時に立ち上がった。勢いそのままに出口に向かって一歩踏み出そうとしたが、何かに顔からぶつかり、止まった。
くすんだ白い粘土。小学校の図工の時間で使うような。何人もの子供にこねくり回され薄汚れたような。そんな壁。薄目を開けた男はそう連想した。
バスの空調で揺れた黒髪が男の頬を撫でる。
そして、男は抱いていた違和感の正体を知った。白いワンピースだと思っていたものは女の薄く弛んだ皮膚だったのだ。
男は悲鳴を上げ、後ろに倒れ込んだ。
席から立ち上がった女たちが男を見下ろしている。
覗き込むように、ジッと。見開かれた目はフクロウのように大きく、底の見えない穴のように黒かった。
「どい、どいてくれ」
震える声で男が言った。だが、女たちはピクリとも動かない。
「おろ、おろしてくれ。降りる、そうだ。それがルールだろ?
一人降りて一人乗る、なぁ……」
「……フフ……フフ、ホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホ!」
突然、女たちが笑い出した。奇声を上げる鳥の群れの中に放り込まれたような騒音に男の悲鳴はかき消された。
男は床に両膝をつき、耳を塞いでいた手を合わせると必死に腕を頭上に伸ばした。彼らがやっていたように。祈るように。
ルール、これがルール……守れば平気……。騒音の中、男はそう呟く。
だが、すぐにある考えが頭に浮かんだ。
ああ、もしかしたら俺がこのバスに乗ったことそれ自体がルールに反していて……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます