氷海を照臨する

 私は確かに見ました。

 立ち並ぶ巨大な歯を。

 霧が出ていた上、一瞬でしたがこの目ではっきりと見たのです。

 他の船員たちも見たと口々に言っています。

 船長はそれを苦い顔をしながら聞いていました。それもそうでしょう。屈強な兵士たちが揃いも揃って怯えているのですから。このままでは任務を果たせない、そう考えたのでしょう。

 集団パニック。この砕氷船がどれだけ巨大であっても限られた空間である以上、それが起こらないという保証はどこにもないのです。

 辺りは氷に囲まれ常に霧が出ています。この重苦しさに精神を蝕まれても無理はないのかもしれません。

 しかし、船長は頼もしい方です。ひとりひとり空き部屋に呼び出し、よく話し合っているようです。きっと心のケアをなさっているのでしょう。

 もうすぐ私の番です。私が目にしたものをしっかりと伝えに行こうと思います。



 続きは代わって俺が。船長が行っていたのはカウンセリングなんかじゃなく尋問だ。目を血走らせて、あの妙な噂の出所を探していたみたいだ。

 聞けば、敵国のスパイが紛れ込んでいて、そいつが噂を流し、船を混乱に陥れようとしているのだと。

 ひどいもんさ。あまりに厳しい尋問で死人が一人出ちまった。

 俺もそうなっちまうんじゃないかとブルブル震えたが、俺の番が来る前に船長は最初に言い出した奴を見つけたんだ。

 俺はスパイの存在なんてもんには半信半疑だったが、なんとその男は本当に敵国のスパイだったんだ!

 喚いていたよ。『自分は確かにスパイだが、見た! 見たんだ!』ってな。

 何かって? 巨大な爪だってよ。

 船長は男を閉じ込め、俺たちに安心するように言った。みんな、自分を納得させるようにして仕事に戻ったよ。口答えなんてできる雰囲気じゃなかったさ。

 ……でもな、本当は俺も見たんだ。

 そいつは何と言うか、恐ろしさを感じるほど神々しい白さで、その上巨大で、ああ、岩のような体だった。



 話は僕が引き継ぎます。

 三人死んだんだ。一人目はスパイ。自分で自分の舌を噛み千切って死んだ。彼が閉じ込められていたのは小さな窓がついているだけの部屋だ。きっと首を吊れなかったからそうするしかなかったんだ。

 二人目は船長。でも自殺じゃない。確かにちょっと変になってたけど船員に海に突き落とされたんだ。

 突き落とした船員が言うには『船長を守るために船内に連れて行こうとした。でも抵抗され、揉みあった末に……』とのことだけど僕は彼がおかしくなったのだとその時は思った。目をひん剥いて怪物を見たと喚き散らしてたよ。

 抵抗する彼を船員たちが取り押さえたんだけど、その最中、みんな力が入りすぎたのかな。彼は死んだ。ひょっとしたら殺されたのかもね。僕自身、これ以上彼の話を聞きたくなかった。

 船長のおかげで平穏を取り戻した船内は船長の死後、再び恐怖に蝕まれていくようだった。優秀な副船長のおかげで、かろうじて秩序を保っていたけど、それも長くは続かなかった。

 船に強い衝撃が走ったんだ。

 何かにぶつかった。あるいは何かがぶつかった。実際、氷塊だったのかもしれない。濃い霧の上にこの統率を欠いた船ではそうなるのも無理はない。

 そして船は制御を失い、氷山に突っ込んだ。その時、僕は見たんだ。ああ、確かに見た。

 あれは巨大な尾だったよ。



 俺か? 俺は俺だ

 ああ、引継ぎか? 

 そうすればいいのか?

 みーんな死んだ

 死んだ死んだ怖くて死んだ

 海に飛び込んだ

 船に穴空いてる

 ああああああ

 怖い怖い怖い怖い

 目だ

 目が見ている俺を見ているあの目が目なんだ

 ああ死のう




 手記を拾い上げた副船長は甲板に出た。珍しく霧は晴れていた。

 体内から吐き出した白い息を目で追うと、夜空に輝く星が瞳に映った。そして、副船長は手記をパラパラと捲り、白紙のページを見つけるとペンを取り出した。



 とうとう私ひとりになってしまった。

 だが、それももう長くはないだろう。

 どこで間違えたのかと思い返す。

 もっと彼らの言うことに耳を貸していればよかったのか。親身に、寄り添うように。

 しかし、私は彼らの言うものを見ていない。

 恐らく私だけが……。

 船長はある時ひどく取り乱していた。

 恐らく彼も見たのだろう。しかし認められずにいた。一体それは何で、どんな恐ろしい姿をしているのだろうか。

 

 ああ、美しい夜空だ。

 星だけじゃない。月。それも満月だ。彼らにも見せたかった。そうすれば少しは冷静さを取り戻してくれたかもしれない。



「……ああ、なんだ。そこにいたのか」


 副船長の瞳に白く巨大な美しい鰐が映った。

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