解放
部屋に一人の男。夜中に目を覚ました。
何かが落ちた音がしたのだ。恐らくベッドの脇に。
何が落ちたのか、それとも夢の中の出来事か。男は瞼をこすり、目を凝らす。わざわざ起き上がって部屋の明かりを点ける気はない。カーテンの隙間から差し込む街灯の光で事足りるだろう。
そら、ぼんやりと見えてきた。
これは……。
ナイフだ。
あった場所と目を覚ましたときの手の位置から考えると自分で握っていたものが落ちたようだ。
なぜ? 男はそう思いベッドから足を下ろしナイフを拾い上げ、掲げるようにして見る。
その刃に映る自分がぼやけているのはまだ寝ぼけ眼だからだ。
擦り、擦る。ああ、見えてきた……。
人――
視界の端に映った黒い塊に気づき、男は猫のように後ろに飛びのいた。
壁に背をぶつけ、痛みで口を歪めたが、それでもナイフは落とさなかった。
女だ。女が立っている。
顔はうつむき、腕はだらんと下がり床に足は着いているが、まるで見えないロープで首を吊っているようだった。
男はすぐに手に持つナイフを女に向けた。が、威嚇になるのかどうか。手の震えでナイフが小刻みに左右に揺れている。ビビっているのが丸わかりだ。
それでも男は「おい!」と女に呼びかける。作ったような強気な声。裏返らなかっただけ満点と言えよう。
……しかし、反応はない。
いや、動かないのならそれでいい。まずはこちらが落ち着きを取り戻さなければ。
男が何度か深呼吸するとナイフの揺れが収まった。
よし。男はそう呟き、ベッドから立ち上がり女に近づく。傍で呼びかけても返事はない。泥棒、いや頭のおかしいやつか。いずれにせよ不気味なこの女はどうやってこの部屋に侵入したのか。警察を呼ぶのが常套手段だろうが深夜に騒ぎになるのは気が進まない。
それに警察が到着した途端、冤罪。女が「自分はこの男に誘拐されました」と、あることないこと言い出す可能性もあり得る。そうあり得るんだ。
男は次いで、女の肩を押した。またも反応はない。だがさすがに不動というわけではない。押されれば動く。
ならばと、そのままずりずりとアパートの部屋の外へと押し出し鍵を閉めた。
あの女、夢遊病の類だろうか……と、思案すると闇の中にあった姿を思い出し、ぶるっと震え、男はまたベッドの中に戻った。今夜はもう寝付けないと思ったが意外にも早く眠りに落ちた。
だが、これで終わりではなかった。
次の日の夜中、男が目を覚ますとまた女がいた。
そして自分の手には前日と同じようにナイフが握られている。気休めにと寝る前にベランダと玄関に並べた画鋲を確かめに行くと軍隊のように整列したままこちらを見上げていた。
男は女に近寄り、どうやって入ったか問うが一切の反応を見せない。
苛立ちと恐怖から男が強く押すと、女はマネキンのようにただ倒れた。
男は馬乗りになりナイフを胸に向ける。
それでも女は依然、無反応のままだ。
髪から覗くその瞳は吸い込まれそうなほど深く、黒かった。
お前は――
手が震え、ナイフが行き先を悩むように上下に揺れる。視界がぼやけて、男はそこで初めて自分が涙を流していることに気づいた。
目が熱く、喉が痛い。
ああ、わかっていた。
なぜ毎晩、ナイフを握っていないと眠れないのか。
怖い、怖い。
怖くてたまらない。
女の胸にナイフを押し込む。
ナイフがゆっくりと沈んでいく毎に男は自分の背中がゆっくりと開いていく感覚を抱いた。
いや、溺れた。恍惚とした表情。口を開き、息を漏らす。
ああそうだ、これは羽化だ。
目を閉じ、背筋を伸ばしてブルブル震えたそのとき、ナイフがガッと音を立てて床についた。
男はバランスを崩し、前のめりに。
そこに女はいなかった。
残り香すらない。初めから何もなかったように。
しかし手に感触が残っていた。
男はナイフを放し、両腕を伸ばし、手を大きく広げる。
チラリと横目で見ても、もう震えがないのは明らかだ。
男は感触を思い出すように両手を握り、そして額につけた。
自分の中の何かを失った。
けど
もう何でもできる気がした。
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