嗚呼、死神
彼は放課後、校舎の廊下を歩いていた。
どこかに向かっているわけではない。何かを求めているような気がしていたが、それが何か彼自身もわかっていない。
時折、胸や胃の辺りを撫でてみるが、おなかが空いていると言うよりかは、体の中の一部分がポッカリと抜け落ちている気分だった。
まだ生徒が残っているのか教室の近くに来ると喧騒が聞こえ、彼は足早に通り過ぎる。
しばらく歩いた。静けさに彼の心は幾分か落ち着いた。
このあたりの教室は普段あまり使わないため、生徒は残っていないのだろう。
彼の手前にある教室のドアが半分ほど開いている。前を通ろうとしたとき、風が優しく吹き抜け、彼は足を止めた。
窓も開いているようだ。そっと覗き込むと白いカーテンが揺らいでいるのが見えた。
彼がするりと教室の中に入ると、ちょうど風が止み大きく揺らいでいたカーテンがゆるりと動きを止めた。
すると花嫁のベールを上げるように、女の子が彼の視界に入った。
椅子に座り、本を読んでいるおとなしげな女の子。驚き、動きが完全に止まった彼のことには気づいていないようだった。
同級生、または後輩。彼にはわからなかった。
女の子が本のページを捲ると渇いた音が教室に溶け、彼は心地良さと居心地の悪さ、その両方を感じ困惑した。
気配を感じたのだろうか、ふいに女の子が顔を上げ、彼を見た。
そよぐ風の音だけの静かな時間が流れる。
僕を見ている。何か言わなきゃ。でも何を言えばいいんだろう。
頭の中が真っ白だ。でも顔はきっと真っ赤だ……。
彼が黙っていると女の子は視線をまた本へ落とした。
無音が鋭いガラスのように脆さと厄介さを兼ね備えた刃となり迫る感覚に彼は逃げるように教室を出た。
次の日もあの女の子は四階のその教室にいた。
またその教室の前まで来た彼はどう話しかけようかと中の様子を覗う。下心はなかった。恐らくは、だが。中学生。特に彼は自分の欲情をどこへ向けるべきか以前から分かりかねていた。ただ恥かいた分を取り戻したかった。あの空いた時間を埋めたかった。変化を。今を変え、一歩踏み出したかった。
しかし、女の子が本をパタンと閉じると彼は臆病な小動物のように逃げ出してしまう。
自分が情けないと思う反面、ちょっとした目標ができた気分に彼は心躍り、その感情が足にも伝わり軽快に体を運んだ。
それは帰りだけではなく、行きにも表れるようになった。
今日こそは話しかけることができるだろうか。僕に気づいてくれるだろうか。
階段を上がる足どりの軽さが彼には少しこそばゆかった。
タン、タン、タン。ダン! と彼は階段の最後の一段だけ力強く踏みしめた。
響く音に耳を澄ませていると話し声が聞こえた。
あの教室からだ。
彼は静かに近づき、中を覗き見た。
あの女の子がいた。
窓から入る風に髪を乱されると、その隣にいる男子生徒が指で直して二人、微笑み合っていた。
彼はその光景を黙って見つめる。ただ、そう長くはなかった。
それからすぐに二人は教室から出て行った。
この教室を待ち合わせ場所にしていたのだろう。
彼は入れ違いになるように反対側の入り口から教室の中に入り、二人の話し声と背中が遠のくのを見届けるとドアを閉めた。
押し寄せる羞恥と愚かさ。自責の念で彼は目眩と吐き気がした。
僕は彼らの名前を知らない。知られてもいない。
僕が知り、僕を知るのは軽侮と哀れみの視線を向ける人たちだけだ。
あの子に仲間意識を持った。孤独を抱いている、いや孤独に覆われていると。
恥だ。でもそのことを知られずに済んだことだけが救いだ。
それが救いか? 他に救いはないのか?
俯く彼がふいに顔を上げた。
風だ。窓が開いてる。
彼の目には白いカーテンが自分に手招きしているように見えた。
――嗚呼、死神。そこにいたのか。
彼はゆっくりと窓に近づいた。
カーテンが彼を包み、彼の姿を教室から消した。
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