案山子

「おい、止まれ。そう、おまえだよおまえ。こっち来い」


 走っている最中、そう呼び止められた僕は言われるがまま彼に歩み寄った。


「……何か用?」

 

 僕は呼吸を整え、辺りに人がいないことを確認してから彼に訊ねた。言うとおりにしたのはその横柄な態度に萎縮したからじゃない。もちろん驚きはしたし、走っていたことと関係なく心臓は早鐘を打っていた。

 僕がただ従ったのは、彼が……


「俺は案山子やってるんだけどよ、ちょいと頼みがあってな」


 そう、案山子。うん、案山子。見れば見るほど見事な案山子だ。全身が藁でできていて、口や目も藁の上に直接、絵の具か何かで描いたにしては、くっきりと綺麗にうまく表現されている。昨今の畑事情は知らないけど、ここまで案山子らしい案山子は探してもそうそう見つからないだろう。


「海までつれてってくれや」


 聞けば、自分では動けない。畑は見飽きた。だからどこかへ行きたい。どうせなら海がいい、といったところらしい。


「じゃ、よろしくな!」


「え、嫌だ」


 僕はハッキリとそう断った。海まではそう遠くはない。ただこの案山子を背負っていくとなるとかなりの重労働だ。それに、間違いなく人目を引く。不審者として通報されかねない。警官も驚くだろう、野菜泥棒ならまだしも案山子泥棒なのだから。


「ま、ま、そう言わずにさ、頼むぜ。連れてってくれないならほら、叫んじまおうかな!

ここに野菜泥棒がいるぞ! 誰か―!」


「わかったわかった! 連れてくよ。だからそう騒がないでくれ」


「マジか! 感謝するぜぃ!」

 

 案山子はクネクネと体を揺らした。喜びを表現しているつもりらしい。

 慌てて了承したけど、無視して行けば良かったかな。どうせ動けないんだ。追ってはこれないし……。

 ……そう、どこにも行けない、か。

 はぁ……。


 僕は畑に入り案山子を引き抜くと、周辺に落ちていた縄で自分の背中に案山子をしっかりと括りつけた。長居は無用。十字架を背負うキリストさながら僕は歩き出した。


「おうおう、いい夜空だ」


 上機嫌に案山子は言う……だけではなく鼻歌を歌い出した。

 腹立つ。おまけにラップ調だ。まあ、それはそれとして……。


「……まさかとは思うけど、歩いていくうちに徐々に僕の体が案山子になり

逆にそっちは人間になっていくってオチじゃないだろうね」


 僕が抱いた疑問。なにもありえない話じゃない。相手は喋る案山子だ。自分の体の変化を見逃さないようにしよう。


「なんだそれ?」


 案山子は笑った。快活に。吹き飛ばすように。


 笑いたいのはこっちのほうだ。病院を抜け出し案山子と海まで逃避行だなんて。僕は本当に頭がおかしくなってしまったのだろうか。他人からは奇行にしか見えないだろう。畑から盗んだ案山子を背負い、そのうえ話しかけているのだから。


 それにしても、このペースだと夜が明けるんじゃないか。

 ……まあ、それもいいか。案山子と並んで海辺で朝日を浴びてる自分を想像すると、自嘲気味な笑いが漏れた。


 案山子の鼻歌が大きくなり始めた。僕が笑ったから案山子も楽しい気分になったのだろうか。

 本腰入れて歌い出したら地面に叩きつけてやろうか。

 その場面を想像し、また笑った。

 潮の香りがし始めると案山子は嬉しいのか体を揺らした。

 僕は耳を澄まし、波の音を探すけど、案山子の鼻歌が邪魔をするのでため息交じりにまた笑った。


「機嫌良さそうだなベイビー」


 案山子がそれだけ言ってまた鼻歌に戻った。僕は何の事かわからないって顔をしたけど、案山子が喋っている間も鼻歌が途絶えなかったことに気づいていた。

 僕もいつからか自然と鼻歌を歌っていたのだ。

 案山子の勝ち誇ったような態度がなんだか癪なので、もう一つ気づいたこと。

 歩くたびに心が軽くなっていくことに、僕は気づかないふりをした。

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