重荷

 とある平凡な男子高校生彼の名は『偉人』ちなみに『いくと』と読む。

 偉大な人物になって欲しいと願って名付けたのだろうか。なんて安直なのだろうと彼は常日頃から、自分の名前を目にするたびに思っていた。(両親に実際に名前の由来を聞いたことはないが)

 そもそも名前に思いを込めること自体が……と彼には今、そんなことを考えている余裕はない。


 彼はこの日、学校の帰りにいつもと違う道を通った。なにかを期待していたわけじゃない。ちょっとした気分転換。彼は平凡ゆえに自身の名前以外にも思春期それ相応の多くの悩みを抱えていた。

 知らない道というのは冒険心がくすぐられ、気が紛れる。あえて迷うのもいいかもしれない。

 彼がそう考えていると、ふとそう長くはない、石段を見つけた。高いは高いが見上げれば終わりが見える程度。段差も急じゃない。

 あの上のその奥には何があるんだろうか神社? お寺? そこそこ気になった彼は上がってみることにした。


 が、これがいけなかった。途中でへばったわけではない。順調そのものだった。問題は石段の中腹に来た時のことだ。

 彼は初めて、その男の存在に気がついた。

 上から降りて来たのだろう、実に奇妙な男だ。といっても服装のことを思ったわけではない。ごく普通のスーツ。恐らく中肉中背。いや、やや太っている。よくある会社員。

 だが、その男は石段を後ろ向きに降りてくるのだ。手をわずかに前に出し一段一段ゆっくりと。足に履いた革靴が石段に点在する砂利を踏み、ジリッと鳴る。


 不気味ではあったが、だからこそ気になるというもの。彼はその顔を拝んでやろうとヒョイヒョイと石段を上がり、すれ違いざまに横目で男の顔を確認しようとした。

 だが、男は顔を反対側に背けていたので見えなかった。

 まぁ別にいいか。彼がそう思い、また一段上がろうとしたその時であった。


 ――おもぉ!?


 彼の身に突然とんでもない重さが降りかかったのだ。


 なんだこれは! 岩か! 巨漢の女か、冷蔵庫いや、モアイ像! それをまるで誰かから「はい、パス!」といった具合にポイッと押し付けられた様だ!

 

 彼の心の叫びはただ苦し気な息となり漏れ出て、足はプルプル震え、背骨はわずかに音を立てた。

 顔は力士の手のひらをグググッと押し付けられているようで、呼吸し辛い。

 彼は両手を出し、全身で何とか今、目には見えないそれを支えてはいるが、気を抜けばすぐにでも体ごとこの石段から落ちそうだった。

 そうなれば骨折、いやこの重さも加わるなら圧死もありえる。彼はすぐにそれを理解した。

 と、なると気になるのはその原因。


 どうなっている? あの男とすれ違った途端この……。あの男、あの男のせいだろうか?

 

 そう考えた彼は鼻息荒く、何とか振り返ろうとしたが、ふぐぅと声が漏れるだけで首の角度はほとんど変わらない。眼球を必死に動かすも、人間の視界の狭さに腹が立つだけだった。おまけに彼が向いてるのは右側。男が降りていったのは左側。

 せめてこの重量をかけられたときに左側を向いていれば! と彼はまた嘆いた。

 そして滴る汗に目を閉じると、聴覚が鋭くなったのかわずかにザリッと音が聞こえた。


 今のは男の靴が石段にある落ち葉を踏み潰した音だ。男はまだいる、それにその音からして男の体重以上の重量があることが予想される。それを伝えた落ち葉はきっと見るも無残な姿になっていることだろう。男は黒幕ではない。男もまたこの苦行を課せられた同志なのだ!

 そう思うと彼はふと重さが少しだけ軽くなった気がした。

 同志よ仲間よ友よ。彼は息を吸い、語りかけた。


「……あの、ひゅみません、こへ、なに」

 

 それが精一杯だった。彼は恥ずかしさで顔が赤くなったが、野良猫の屁とでも思われたのだろうか、結局男からの返答はなかった。

 しかし彼は責めない。余裕がないのはお互い同じだ。仕方ない。よくわかる、わかりすぎる。


 と、孤独な彼は自身に選択肢を三つ提示した。

 このまま耐えるか、上がるか、降りるかだ。

 上がるのは論外との声。耐えるはいつまで? そうなると降りるのが必然。脳内の会議は二秒で終わった。

 

 彼はまず右足をジリジリと動かした。無事、一段降りた……が当然、負荷も半端ではなかった。フシューと息が漏れ、まだ一段、それも片足を降ろしただけでこれかと戦慄した。

 下までは何段ある? 四十か? 三十か? 多めに考えたほうが実際少なかったときにうれしいか?

 汗が背中を撫でるのを感じる中、彼はプルプル震えながらも片足ずつ着実に降ろしていく。誰かの助けを願いながらも今の自分のこの必死な形相は人に見られたくないなどと思春期男子の打算的な考えが頭に浮かんでは消えるを繰り返す。


 その中、浮かぶのはあの男の存在。と、言うよりか他に考えることなどない。

 どこまで降りたのだろうか。

 先に下まで降りたら手を貸してくれるか?

 あるいは助けを呼んでくれるだろうか? 

 そもそも下まで降りれば本当にこの重圧から解放されるのか?

 

 わからない。訊いても無駄だろう。自分と同じくこの不可思議な現象の被害者。とにかく今は降りるしかない。きっと下まで降りれば解放される。そう信じて。そうなったら完走したマラソンランナーのようにあの男とお互いの健闘を称え合おう。


 そう考えた彼だったがふと、水に垂らした墨汁のような不安が胸に広がった。

 ……待て、マラソンランナー? なぜ今、二人三脚やテニスのダブルスなどを想像しなかった?

 マラソン。その言葉から小学校の頃「最後まで一緒に走ろうね」と約束した友人が、半ばで約束を反故にし、先へ行ってしまったという記憶が彼の脳内で蘇る。


 これは……競争か? 男がこちらの問いかけを無視したことは故意か? そもそも警告してくれれば良かったんだ! この石段は危険だ! って!


 だが疑うのは良くないこと。彼は常識を備えており、それはこの状況でもさほど変わらない。だから、今一度話しかけることにした。


「あ、あにょ、ほ、こ、これ、きょうそ、きょうそうとかじゃないですよねぇ!」

 

 彼は耳を澄ました。塞げないのだから自然とそうなった。

 そして、彼が僅かに抱いていた不安。恐れ。

 それは確かな言葉として無防備な彼の耳を襲った。


「お、おまえみたいなガキに負けるかぁ」


 男はそう言うとダン! と足を降ろした。そしてそれは裁判官の木槌。一発の銃弾。戦いのゴング。交渉決裂、電話を受話器に叩きつけた音と同じであった。


 彼は無性に腹が立った。卑劣だ。無論味方だ、仲間だと騙していた訳ではない。だが、もし競争相手ならば最初に話しかけた時にそう言ってくれればよかったのだ。今、男自身も吹っ切れたのか苦し気に語り始めた。


「上、は神社で、なぁ、立て看板に、この神社の歴史だとか

あの、あれ、社の中になぁ、絵とかあってなぁ。

ふた、二人の男が力比べとか、なぁ、ま、もう、わかるだろ。

最後に一礼なんかするんじゃぁなかったぁ、前向いていた方がぁらくかぁ?

と、とにかくぅ二人そろっちまったから、ってことぉ、お前のせいお前のせいだぁ

だから、はい、はぁい、スタート!」


 男は彼には見えはしないがこれで公平だろ? といった顔をし、そう言うとまた一段降りた。


 彼はなんとなく、その顔を想像し腹が立った。

 彼もまた一段降りる。そして両者ともペースが先ほどより速い。彼は競争心は仲間意識に勝ると実感した。

 彼は男の靴音に集中し、位置を割り出す。それを明確な目標とし、歯を食いしばった。これまで生きてきてた中、初めての必死な感覚であった。


 そして、彼は追いついた。互いが別方向を向いているため、目視は出来ないが確実に隣にいる。荒い呼吸がその証拠だ。


「お……ったっざぁ」


 追いついたぞと声を出したつもりが、彼は自分でも驚く。死にかけの蝉の方がまだ元気な音を出しそうだった。


「お、おまえ、とは、ちがうぅんだぁ、かぞく、かぞく、いえのろーん

しご、しごとぉぉぉぉぉぉうううぅぅぅぅぅふぅぅんくぅぅう」


 一段、男が降りた。彼も負けじと降りる。すると男も、と激しいデッドヒートであった。小鳥の囀り、木々のさざめきが大観衆の歓声に聴こえた。


 勝てる! 彼はそう思った。左目の端に男の肩が見える。一段一段降りるたびに男の汗に濡れて円を作っている背中と尻が、震えた足がやがて全身が彼の視界に収まった。そして、その震えた足が折れ曲がったのも見えた。


「あぎゅうああああぐううう! ああああああああああ!」


 数十匹の蝉に匹敵するその叫びが断末魔だと知るのに彼はそう時間を要さなかった。

 ばむばむばむと声を上げ透明な何かに押しつぶされていく男。それを前に彼の足の震えは疲労だけじゃなく恐怖も加わり、彼の動きを止めた。

 と言っても完全に止まれるはずがない。震えは全身に。そして心臓、あるいは脳のその奥、心にまで達した。


 死、死、死、死、死、死んだ。

 死ぬ、僕も死ぬ。しぬ。

 ぼく、ぼく、ぼく、ぼく、し? 

 ぼく、ぼく、ぼく、ちーん。なむあみだぶつなむあみだぶつ……。

 死ぬ、ぼく、ぼく、逝く、いく、ぼく、いくと、いくと、ああ、偉人。

 

 偉人は奮い立った。葬式、嘆く両親を想像したか。それとも若すぎる死、まだ成し得ていない何かを想像したか。

 偉人はまた一歩、石段を降りた。


 一歩、また一歩。着実に。震えてはいるが力強く。

 そして……滑った。


 ――あ、死。


 そう、死……ななかった。

 

 尻餅をついたのだ。そこはアスファルトの上。辺りを見渡し、そう理解すると笑いがこみ上げ、口からヒューヒュー息が漏れた。

 すでにあの重さは消えている。それが石段を下りたお陰か、それとも。

 偉人はゆっくりと立ち上がった。大きく息を吐き、両腕を確認するようにプラプラ振る。もう重さは消えていた。

 

 次に胸に手を当てた。


 重さは消えている。


 偉人はもう一度、息を吐くと、石段に背を向け、来た道を歩き出す。

 体は浮かび上がりそうなほど軽かった。

 きっとこの先、どこかの立派な壇上に上がる時も、その足取りは軽やかであろう。

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