奔流
序
厚く暗い雲の下、雪が雨に変わり、静かに降り続いている。
不知火隊長、伊庭辰之進は自室にて書簡に目を通し、それをまた
封に入れ直した。庭に面した障子をあけると、雨音が一際大きくなる。
「織田、参りました。」
織田刑部は入室し、伊庭に深く頭を下げる。
「
「は。今朝出立し現在半ば程かと。」
いま一人の不知火副長、風祭玲は伊庭の命を受け単身で首府、東京へ
向かっている。
「先程、届いた物だ。」
伊庭は分厚い冊子を文机に放り出した。
本土決戦軍閥師団、統合観閲式実施要項とつづられている。
「拝見いたします。」
「いや、後でよい。持ち帰り頭に叩き込んでくれ。俺には到底入らん。」
伊庭の軽口に刑部は微笑んだ。
統合観閲式とは、幕僚首脳と将軍に対し、本閥全軍が揃い拝謁する式典であ
る。大掛かりな作戦や創隊記念に執り行われる物であるが、それが四十日後に控えていた。副長、風祭は高官達の警護計画を立てるため、伊庭の代理と
して中央に赴いている。
「午後には俺も発つ。しかしここまで屯所が空になった事はねえな。」
「御意。幕僚向けには何と?」
「先行して安全な行程を調査、とかなんとかな。」
「玲と立場が逆では。」
「上からも同じことを言われたわ。」
伊庭は朗らかに笑いながら、花びらにあたり散る雨のしずくを眺めている。
「いま、月皓の報告を見ていた。やはり待ち伏せはある。が、その全容は
掴めていない。」
「では、不知火二分隊と月光が戦力という事に。」
「いや、玄嶽と共に内密に誓野に応援を要請した。輸送隊に戦闘部隊を差し込ませ、待機させる。」
「左様ですか。」
「不服そうだな、刑部。」
「いえ、環太積の協力を仰ぐのはしごく真っ当な作戦と思われます。が、
御頭には危機にあっていただかねば。」
「そいつは手厳しいな。」
「章雪の策故、拙者も驚きましたが……。」
「虚実どちらも用意済みなら、環太積以上の大船ってえ事よ。」
煙る雨を見つめる伊庭の背中に、刑部は頷いた。
奔流
一
春の陽に光る波間。ひしめく廻船と威勢のいい人足の声が飛び交う。
桟橋に係留された弁財船と呼ばれる中型の貨物船より、次々と裸身に褌姿の
人足達が樽や行李を運び出していく。
地元の人足と共に彼らは浦廻船と訪れ、港で労働を提供する。回遊魚にちなみ、回し手と呼ばれていた。
「いいのを入れたねえ。」
「今回だけには惜しいくらいで。」
中堅どころの廻船問屋を営む、
老境に入った二人は、桟橋を行き来する若者を目を細めて眺めている。筋骨
たくましい者達のきびきびとした動作が眩しい。
「しかしあの身体……。」
藤兵衛が指すのは新たに助で入った三名の者で、一人は岩のような筋肉に
覆われた大柄な男、一人はさらに上背のある異人、いま一人はやや小柄で、鋼線を纏めあげたような鍛え抜かれた身体に、まだ少年の面影を残す者。
皆それぞれに壮絶な刀傷をその身に刻み込んでいる。
「国抜けの浪人でしょうな。人品は卑しくありませなんだ。」
「狗族に国を滅ぼされたのかねえ。」
藤兵衛はもう一度若者達を眺め、踵を返した。
昼を告げる小鐘の甲高い音が桟橋に響き、人足達は荷物を下して各々汗を
拭う。
「身体が馴染んだな。」
「うむ。二日目は起き上がれなかったが。」
「悪兵衛は最初から平気な顔してたじゃない。」
悪兵衛と仁悟朗、バルザックが大ぶりな丼と笹に包んだ握り飯を持って
桟橋に座り込み、談笑している。
皆白地に「迎」の紋をいれた半纏を羽織り、仁悟朗はねじり鉢巻き姿で、
すっかり「回し手」が板についている。
この港、
これより約一月後に執り行われる統合観閲式。開催場所は本州西端の
とよばれる城塞である。
多数の兵を逗留させる為、那賀斗にほど近い東の須鶯宿、北の
された。不知火は先行し、隊を二分してそれぞれの宿場に潜入している。
それは、隠密諜報部隊「月光」首領、月皓半蔵より内々に不知火の伊庭にもたらされた情報によって発動された内偵作戦であった。
<統合観閲式の情報が弥者に漏えい、宿場町にて拝殺を企てている>
幕僚内でも一部しか知られていないこの報せを基に、不知火の侍達は迎撃の
準備をしていた。
「しかし、うまい。」
仁悟朗がにかにかと笑みを浮かべながら丼の汁を啜る。
ごつごつとした大ぶりな鯛のあらと大根を煮込んだ漁師汁から湯気があがる。
一口すすっては握り飯にかぶりつく。
「これはうまいね。毎日昼が楽しみだよ。」
バルザックも両手で丼をあおった。
「バルザック、お代わりあるみたいだぞ。」
悪兵衛が眩しい春の陽に目を細めながら、煮炊き場に集まる人足達を目に留める。同時にバルザックは空の丼を持って小走りで向かっていた。
「人足には慣れたが、業務ははかどらんな。」
寝そべった仁悟朗が海原を見つめながら言った。笹の葉を畳みながら悪兵衛
も頷く。潜入したはいいが、これといった手がかりは掴めていない。
起こった事と言えば、荷運びの縄張りを巡って問屋の老人同士が揉みあいに
なったのと、回し手と浪人が酒場で言い争いになり、脚を少し切られた、位であった。
煮炊き場でどっと笑い声が起きる。
見ると半纏を脱いだバルザックが他の人足と力こぶの大きさ比べをしている。
笑い声や拍手で賑やかな様子であった。
「あれは、人を集めるな。」
「バルザックを嫌う者を見た事が無い。」
悪兵衛と仁悟朗は笑いながらその様子を見て、おおきく欠伸をした。
「士道くらいか。道場でいがみ合ってるのは。」
「あれは両方でかいから、狭くて互いが邪魔なんだろう。」
悪兵衛の辛辣な言葉に、仁悟朗は大声で笑っている。
「仁悟、あれは。」
悪兵衛の視線の先、逆側の桟橋に何名かの浪人が集う。うらびれた着流しや、
継ぎだらけの袴姿の者達で腰に二本差している。
そこに係留された屋形船より、きらびやかな衣服に身を包んだ女性が何人も上がってきた。浪人たちはその前後につき、目を光らせる。
「番役に雇われてる浪人と、女達はなんだ?」
仁悟朗もその異様な組み合わせの者らに眉を寄せる。
「あれが旅芸人一座だね。作戦指示にあったでしょ。」
背後に立ち、丼を持ったバルザックが、啜りながら答えた。
化粧を施し、髪を整え、派手な小袖や振袖に着飾った女たちが桟橋を上がると、人足達が集まりだす。浪人がそれを追い払っている。
「指示書にあった。本閥向けの慰労に派遣された者どもだな。という事はあの中に……。」
女達の中に、きっちりと化粧をし、派手な髪飾りを付けた間宮桃乃介を三人
は同時に見つけた。周りで騒ぐ人足達を歯牙にもかけない態度で歩いて行く。
普段はおきゃんな桃の変貌に、しばし隊士達は呆気にとられた。
二
宿場の外れ、元は漁師小屋だった屋敷に隊士達は寝泊りしている。
日常の世話と連絡の繋ぎに、不知火抱えの諜報員である井上源三郎がつく。
ちょうど六十になったばかりの井上は、その能力に対する信頼が厚い。が、
井上の用意する日々の夕餉は雑穀粥ばかりで、隊士達に不満が溜まっていた。
「おやっさん、こう毎晩粥ばかりでは。浜の宿場だ。もっとうまいものある
だろうに。」
空になった碗を井上に渡した仁悟朗が鼻を鳴らした。
「昼に食っておりますでしょうが。さむらいたる者、節制が何より。」
井上の態度には取り付く島もない。無論、悪兵衛だけは毎晩喜んで粥を
かきこんでいる。
「楓屋の回し手に聞いたんだけど、夜盗が出るらしいね。」
バルザックが碗の白湯を一口飲んで言った。
「夜盗? 」
「うん。宿場に入る街道筋に出るそうだ。だいたい食い詰めて禄を求めて来
た浪人がみぐるみ剥がされるってさ。」
「井上殿、何か聞いているか? 」
「拙者が関知しているのも、いま中佐がおっしゃられた事だけです。」
「いってみるか。」
悪兵衛は木刀を手に立ち上がる。仁悟朗とバルザックもにやりと笑い、
それに続いた。
*
宿場の灯りが遠のいていく。右に砂浜、左に松林の街道を三人は歩む。
それぞれ質素な長着に小袴姿で、一見して浪人風である。が、それぞれの
差料は木刀のみである。
灯りが手元の提灯だけになり、人気も失せた街道筋で三人は歩みを止めた。
バルザックは灯りを吹き消す。
明るい月が夜の海に反射し、辺りは青く沈んだ色味に変わる。
「
「ただの浪人者ではないな。」
しわがれた声の者とくぐもった声の者が小声で話す。街道沿いの廃屋の中に
何人かの影が蠢いている。
「
「いつも通りやれ。正体を現したら捕獲する。」
首代と呼ばれた編笠に帷子の武士姿の男は、冷淡な口調で命じた。
「お、でたね。」
バルザックが声をあげた。前方、林の影が分断されたように、音もなく何者
かが現れる。その背後の悪兵衛も宿場町へ続く道を塞ぐように囲まれているのを感じる。前後に二名ずつ。やや離れた所に編み笠姿の武士らしき者。
「刀と、金子。」
前方の屈んだ背の男がしわがれ声をかけた。現れた者達は不気味な程静かで、
波の音が聞こえている。
「渡す物なぞ、無いわ。」
仁悟朗が鼻で笑いながら言った。同時に前方の者が闇に紛れてすり足で
近づき、バルザックの木刀を奪おうとする。その手首をバルザックは握った。
ぐい、と逆に捻る。柄に手を掛けた者は腕を捻られてもんどりうつ。
ごきり、と肉と皮に包まれくぐもった破砕音が鳴った。倒れ込んだ者の手首
の骨はバルザックの握力に砕かれ、尺骨も折れている。
起き上がった者はざんばら髪の間から光る眼で隊士達を睨む。
腕を振ると、盛大な骨の音が鳴った。掌を開閉させている。
悪兵衛はつぶさに観察している。バルザックが投げた者は確実に腕が砕かれ
ていた。が、起き上がった今、それはすでに治癒しているように見える。
「破常力では、ないな。」
静かにいいながら木刀を抜いた。異様ではあるが、弥者の姿はしていない。
仁悟朗は振り向き、背後にとりついている者を確認する。
一人は小柄で中年の者に見える。いま一人は長身の男で顔、身体、腕を包帯
でくまなく巻き、ぎらぎらと光る眼差ししか見えない。
不気味なざんばら髪の男が、飛び出した悪兵衛の突きで吹き飛んだ。
爆発的な威力で鳩尾を突かれた男は、砂煙をあげて倒れ込む。
足元で苦しむ男を、編み笠の者が見下ろしている。
「番所につき出そう。」
悪兵衛が木刀を振りながら言った。そこに背を屈めた男が踏み込み、全身で
ぶつかってくる。意外なほどの素早さではあったが、悪兵衛の体軸はまったくぶれない。踏鞴を踏んだだけであった。片手で木刀を振り上げる。
そこに、体当たりの男が何かを吐きかけた。その場で吐瀉したかのようで
ある。悪兵衛の腕、肩と背後の松に吐瀉物を吹きかけられた。
一瞬で液体は固まり、悪兵衛の右半身が固定され、まったく動作出来ない。
「固められた。異常な力を使う。」
「殺した方が良さそうだな。」
仁悟朗が平然といいながら木刀を抜いた。相対する包帯の男は無手で構えて
いる。何かの力を使う前兆に思える。
悪兵衛に突かれた男はすでに立ち上がっている。吐瀉物を吐きかけた男は、
すでに次の攻撃を準備している。バルザックが一歩前に歩み、脚を高く上げた後、爆発音と共に地を踏みぬいた。強烈な四股である。
前方の者達は吹き飛ばされたように見えた。が、実際は素早く後退し、直撃
は避けている。同時に仁悟朗が包帯の者に斬りつけながら体を当て、至近距
離からの蹴破で吹き飛ばした。二人が同時に前後の者と距離をとるような
攻撃をしたのは、悪兵衛が戦線に復帰する為の時間稼ぎである。
「待て。」
編笠の男が命じた。バルザックの四股や仁悟朗の蹴破にものともせず、
戦意を膨らませていた者達は、ぴたりと動作を止めた。
「戦技か。本閥の侍だな。」
三
「隠密諜報部隊、月光。首代の霧丸と申す。」
漁師小屋の囲炉裏の前、編み笠を脱いだ武士姿の男は、短髪に痩身、鋭い
目つきの三十に届かない程の者であった。
悪兵衛は見覚えのある容貌にふと考える。おそらくこの者が朧丸の言っていた兄で、将来月光を束ねる立場なのであろう。
隊士達と対峙した異様な者達は小屋の外におり、決して入ろうとしない。
霧丸達は入宿する者や単独で行動している者に夜盗として絡み、情報を引き出すと共に弥者であれば捕獲する命を受けていた。
「では、我らと戦った者どもも忍びなのか。」
「あれらは
朧丸が率いる卍組、女性諜報員で構成された
纏め、実働部隊の指揮を執っているのが霧丸であった。
「我らに繋ぎがない。弥者に関して未だ成果無しという事だね。」
「御意。」
バルザックは目をつぶって考え込む。宿場町という性質上、人の流動が絶えずあり、港町故の外部との交流も多い。また番役が後に控える観閲式の治安
を維持する為、私兵となる浪人を広く雇っている。その全てを調べる事は
不可能に思えた。
「手ぶらなのはこちらも同様だ。今後の調査だな。」
「不知火隊士の動向は全て掴んでいる。……今夜の夜盗狩りでかち合う事に
なるとは思っていなかったが。」
姿を見せぬ月光の者が絶えず監視している事を匂わせ、霧丸は退出した。
*
翌日、荷物の引き揚げの作業は午前中で終わり、三人は沿岸を望む
露天風呂に浸かっていた。
穏やかな海面と同じ水位に湯が湧き上がり、それを岩石で囲ってある天然の温泉である。穏やかな海風が湯気を払うと、輝く海原が見える。
「これはいいね。」
バルザックが上機嫌で声をあげた。
「最高だ。仁悟、よくこんな場所を知っていたな。」
手拭いを頭に乗せた悪兵衛がのんびりした調子で言った。
「うん。実は鉄造に聞いてな。誘われたのだが……」
回し手の中でも取り仕切りの立場にいる屈強で朗らかな三十男を
悪兵衛は思い起こす。
「という事は。」
「ああ。奴は念者だ。仕方なく断った。」
念者とは男色の者である。
「仁悟はその手の者にもてるからね。」
バルザックがからからと笑っている。
「俺にその気が無いから断る他ない。悪兵衛は…聞くまでもないか。」
「バルザックはどうなのだ。」
「僕は来る者は男でも女でも構わないさあ。」
屈託のない言葉に二人は笑った。
岩場に井上が近づいてくる。
「お、来た来た。おやっさん、酒は。」
「残念ですが深町大尉、本日間宮中尉が繋ぎの連絡に来られます。酒は業務
が終わるまでお預けで。」
「何だと。くそ、楽しみにしてたんだが。」
仁悟朗が湯を頭から被った。
夜半。漁師小屋を訪う者があった。
気配で判ってはいたが、遠慮のかけらもなく板戸を開け、入ってきたのは
間宮桃之助である。
こざっぱりした藍の小袖に、簪で無造作に髪を留めている姿は着飾った
芸者姿からは想像もできない。
「入られよ。」
桃が背後の者を誘う。
美しい振袖に身を包んだ芸者達が静々と小屋にあがる。
途端にあたりがぱっと明るくなった。
「おい、桃。この者達は。」
仁悟朗が嬉しさを隠し切れずに声をあげる。
「勘違いしないでよ。隠密だよ。」
床板にどすん、と座り込んだ桃が答えた。
「隠密諜報部隊。月光。丹組。
歳の頃は三十前後、端正な顔つきに妖艶な微笑みを浮かべた女が
頭を下げた。
「これなるは配下の船蜜、紗世。皆同様の任務に従事しております。」
似鳥の背後に控える二名も若く美しい。皆、
「吉野先生。」
悪兵衛は背後の一人に思わず声をかけた。
明河藩、弥者帰り事件で不知火と同様に潜入し、教員に扮していた吉野絹枝であった。
「その節はお世話になりまして、少佐。船蜜と申します。」
にっこりと微笑んだ唇から八重歯がのぞいている。
間宮桃乃介と月光、丹組の者達は宿場町を取り仕切る地頭と呼ばれる地方有力者の世話を受けている。
これは一般の者が幕府からの任命を受け、宿場町の人員・風紀を
管理する立場であり、番所で募った浪人達の世話もしていた。
多くは裕福な地主が任される。
須鶯宿の地頭、柄本長左衛門は元々最大手の廻船問屋で、宿場町一の経済力と人脈を持つ。
「成程。我々は回し手の現場から、其方達は管理側からの調査を並行して行うというわけだね。」
状況の報告を受けたバルザックが頷きながら言った。
「はい。地頭が雇い入れている浪人者を主に監視しております。現在目立った動きはありませぬ。」
「あたしが潜入してる月光と不知火の繋ぎをつけるのと、護衛。」
「間宮中尉の戦闘力と魁音撃は月光でも周知でございます。これ以上の護りはありませぬ。」
丹組の者達に頼りにされているようで、桃乃介は鼻を高くしている。
「確かに、桃一人に我ら三名でも勝てぬ。」
悪兵衛の言葉にバルザックも笑って頷いた。やや硬かった場の雰囲気が
幾分和らぐ。
「では本日は顔見せという事だ。どうだ、まずは一献。」
にかにかと笑顔を見せる仁悟朗が徳利を持ち出す。女陰足達の席を
不知火隊士の間に甲斐甲斐しく設け、バルザックも酒を見て相好を崩す。
似鳥達は意思の見えない微笑を浮かべ、猪口を受け取った。
桃乃介、悪兵衛と並びその横に腰を下ろした紗世と名乗る女は、ほっそりとし、青白い肌で、瞳が黒々と大きく、儚げな美貌の者であった。
「播磨少佐のお噂はかねがね。でも随分とお若いのですね。」
「一七です。間宮も同年になります。」
「では私と同じ。」
大人びた容姿に、甘く深い声音で紗世は年上に見える。が、笑顔は年相応の少女のものであった。
悪兵衛は幾分驚きながら、隣で胡坐をかき、昆布をかじっている桃乃介を
眺めた。
「桃、紗世殿は我々とおない年だぞ。」
「知ってるよ。紗世ちゃんと最初に仲良くなったもん。」
仁悟朗とバルザックは満面の笑みを浮かべて似鳥と船蜜と談笑している。
「少佐、どうぞ。」
紗世が徳利を差し出した。悪兵衛は未成年であり、飲酒はしないと伝える。
「それならば……。」
懐から出した包みには、可愛らしい色とりどりの金平糖が入っている。
悪兵衛は礼をいい、口に放り入れてがりがりと音を立てて咀嚼した。
「うまい。甘硬くてうまい。」
紗世は微笑んで悪兵衛の横顔を見つめている。
四
厚く雲が立ち込め、彼方に海上を移動する帳のような雨が見える。
「一雨くるな。急ぐぞ。」
行李を担いだ仁悟朗が声をかけた。
悪兵衛は船内の回し手より受け取った俵を担ぐ。中は塩のようでずっしりと重い。汗が顎まで流れ落ちるのを感じながら昨夜の事を思い出していた。
赤い顔で喜んでいる隊士達、微笑みながら話を合わせる丹組の女陰足。
しかし、隣の紗世の顔立ちがどうにも思い出せない。透き通るような色白の手首、長く艶めいた髪、ほっそりとした顎。それ以上を思い出そうとすると、あの黒く深い瞳が頭の中で一杯になり、どうも全体を掴む事が出来ない。
「どうしたんだ、俺は。」
荷をおろして手拭で汗を拭いた。
紗世の声を思い出すと、不安と物悲しい気分でため息をついてしまう。
騒めきを胸の内に秘めながら、海上に湧き上がる黒雲を眺め、頭を振った。
「今日は終いだ。
回し手筆頭の鉄造が大声をあげた。
夕立のような雨に包まれたのと、労務者達が迎屋の人足小屋に引き上げたのが同時であった。
「深町さん、今日もようけ勤めたっちゃねえ。」
鉄造が土瓶と湯呑を持ち、仁悟朗に渡した。日に焼けた朗らかな笑顔に歯が白い。愛嬌のある男前であった。
断られたものの、未だ仁悟朗には未練があると見て、絶えず話しかけてくる。
「かたじけない。」
当の仁悟朗はあっさりした物で、湯呑を受け取って茶を飲み干している。
鉄造はにこにこと笑いながらをもう一杯注いだ。
悪兵衛の押し黙る姿を見て、バルザックは声を掛ける。
「悪兵衛、どうしたの? 何か考えているね。」
「あ、いや。……バルザック、昨夜は似鳥殿達とどんな話しをしたのだ?」
「うーん、他愛もない事だったね。どんな男が好き、とか。僕は彼女達の生活を聞きたかったんだけど、うまくはぐらかされたよ。」
裏表のないバルザックの笑顔を見て、悪兵衛は少し心が落ち着いた。
人足小屋の入り口付近の者達の口から、幾たびか浪人組の名が漏れている。
悪兵衛達はそれとなく席を立ち、街道を暖簾越しに眺めた。
降りしきる雨の中、二十名程の二本差しの武士達が列をなして歩む。
目深に被った菅笠にその表情は読み取れない。皆粗末な衣服に身を包んでいるが、差料の拵えはしっかりとし、手入れが行き届いている。
かつて戦闘行動に従事していたのが明らかであった。最近地頭が雇い入れた者達である。
宿場の人々は彼らをして浪人組と呼んでいた。
泥濘と化した街道筋を無言で歩む武士達。眺めていた悪兵衛がふと、小屋内に入り込むようにして身を隠した。
「仁悟、バルザック。」
悪兵衛の声に反応した二人はその後を追うように人足小屋の二階にあがる。
薄暗い廊下の奥、辺りの人の気配を探った後、悪兵衛が口を開いた。
「浪人組に弥者がいる。」
「やはりか。」
悪兵衛の顔色で二人にはうっすらと予測がついていたようだった。
「列の中間より後方にいた男。予篠学園の内偵作戦の折、一圓と戦った者だ。人間体の時は鏑木と名乗っていた。またその隣にいた大柄な女、弓使いで名は穂乃村であったか。間違いない。」
「報告を見たよ。彼らはスメロキノミコトの親衛隊のような雰囲気だったんだろう?ならばスメロキも潜伏しているという事かな。」
「確か五名の配下を連れていたんだったな。他にそれらしい者はいたか。」
「いや、目視できたのはその二名のみだ。」
「他三名も確認できたら、スメロキが存在する確率も高いね。」
「いずれにせよ、面が割れている悪兵衛は動けんな。」
三人は少しの間、今後について語り、後は漁師小屋で改めて協議する事にした。
*
旅芸人である揚羽一座は、その人気を買われて幕府の指定を受け、須鶯宿に
逗留し、観閲式での出し物の為の稽古を行っている。
間宮桃乃介以下、月光の陰足達はその身分を隠し、新たな座員として参加していた。
あらゆる芸事の訓練を行っている丹組の三人はいわずもがなだが、舞踏や手妻、軽業にいたるまで桃乃介の能力は高く、入所してからすぐに舞台を任されている。
座敷にあつらわせた舞台で、一座の女性達が舞踏の振り付けを繰り返し行う。
見所で、地頭、柄本長左衛門が上目で見つめている。
五十を超えているが、小太りで額が油で光る程の精気をため込み、薄ら笑いを浮かべながら一座を眺める。
その横には二十代にも届かない程に見える青年が静かに座している。
髷を垂らし、前髪姿の青年は涼し気な容貌をしているが、その瞳は鋭く、近寄りがたい威圧に包まれている。若年に対して侮られる気配は全くない。
人間の姿を借りたスバルノミコトであった。
「
睦螺総軒。それが地頭の元に潜入を果たしたスバルノミコトの人間名である。
黄色い白目をむいて、愛想笑いをする長左衛門の言葉が、まったく耳に届いていないような佇まいであった。
「お上の命令で来る観閲式の為、この須鶯宿の警護を任されたのは大変名誉
な事と思っております。しかしですな、取り決めに応じたがらない他の問屋もまたおりまして。中々……。」
「商売敵を取り潰したいのだな?」
彫像のように黙っていた青年が口を開いた。
「これは、睦螺様、そのような事をおいそれとは。」
「この長左衛門、御慧眼に甚だ恐れいるだけでございます。」
本心を前触れなく言い当てられ、長左衛門は脂汗をうかべてひれ伏した。
「勤め手が多数おろう。問題を起こさせ、その責めを負わせる形で斬ればよい。」
感情のこもらない刃のような言葉が睦螺から迸る。
「それは、そのような事が、睦螺様にお願い出来るので……?」
「手がいる。国元の手練れを呼べば観閲式までに方はつけられよう。」
「是非。是非にも。」
涎を垂らす勢いで長左衛門は請う。この宿は今後も大きな利益を生み続ける
のは想像に難くない。それ故に廻船問屋の統廃合が進み、江本長左衛門を脅かす程の大店も増えてきている。
それらの利権を手に入れた時の栄華を想い、舌なめずりをしながら長左衛門は額を床にこすりつけた。
睦螺総軒は中年男を一瞥すると、音もなく立ち上がり、座敷から去った。
そのやりとりを一部始終、似鳥が観察している。
五
一日の仕事を終えた港湾労働者達は街道筋の安く、大箱の酒場に集まる。
その日も「あおさ」と書かれた大きな提灯が下がる居酒屋は賑わっていた。
小上がりと立ち飲みのつけ台が半々の店で、男たちの笑い声が響く一角の端、井上源三郎の姿があった。
「とっつぁん、よう飲むっちゃね。」
赤ら顔にねじり鉢巻きの男に話しかけられ、愛想のいい笑顔をむける。
「いやあ、この年になっても酒に目がねえんでさ。」
ぺろりと舌をだした井上の顔に男達の笑い声があがった。
話題が自分から逸れると、井上は目立たぬように酒場を見回す。手前の小上がりに下卑た声をあげる浪人集団、その奥に不気味な程静かな幾名かの武士達が居、注意を向ける。
昨夜、漁師小屋を訪れた桃乃介より地頭、長左衛門と睦螺の会話の内容が伝えられた。異変の前触れとして調査をする事になったのだが、悪兵衛の素性が弥者達に知られていると共に、バルザック、仁悟朗にもその可能性がある事を鑑み、井上が諜報活動を任された。
酒場に似つかわしく無い華やかな女性達が訪れる。揚羽一座の芸人達であった。かしましい笑い声と共に浪人達の隣の座敷にあがる。
回し手達の注目を一手に浴びながら涼しい顔で酒を頼む。
むさ苦しい酒場の男達はざわつき、何事かと口々に話している。
井上はそれとなく観察を続けているが、異変と言える程の事でもない。
恐らく、最奥の席の不気味なほど物静かな一団、その上座の者が
睦螺総軒なのは見当がついている。が、行燈と蝋燭の逆光で
その容貌や言動は杳として掴めなかった。
酒席は進み、赤ら顔の出来上がった者で酒場は騒々しくなる。
若く逞しい回し手が、酔った勢いで芸人に声をかけ、女性達も嬌声をあげて答える。やがて、徳利を持った若者が芸人達の席に入り込み
酒宴の様相を呈してきた。
楽しげな笑い声を裂くように、隣席の浪人が声をあげる。
「そこまでにしておけ。商品に手をつけるな。」
地頭が管理している芸人一座と浪人集団の関係性が垣間見えた。
が、無鉄砲な若者達にはその言い分に納得がいかない。
「姉さん達も楽しんでる。武家さんには関係ないっちゃ。」
そうだ、そうだと周りの者も囃し立てる。
元々土着の労働者である者達と、弁財船と共に港湾を渡り歩く回し手達は、
特有の仲間意識を持っており、最近になって現れ大きな顔をしている浪人組を快く思っていない。
「下がれといっておるのだ。鼠共。」
浪人の一人が低い声をあげた。酒場は騒然とする。
「聞き捨てならねえな。金に釣られて集まった野良犬が、港でお勤めしてる俺らに文句をいうんか。」
よく響く声をあげ、鉄造がゆっくりと立ち上がった。その周りの
迎屋の屈強な男達も睨みつける。浪人組の者共は気圧された。
井上はじっと推移を見つめている。
怯む浪人達を割るようにして、奥の一団の中の一人が歩み寄る。
総髪に骨張った体付きの陰気な武士で、鉄造の二歩前に立ち、足元から胸許まで眺める。
「やるかい。表に出ても良いんだぜ。」
荒事に慣れた鉄造は落ち着いた声で言い放った。
武士の姿が刹那の間にぶれて見えた。
*
「前蹴りの軌道に見えましたが膝下を鞭のように使い、勢いをまして爪先を体中に突き刺す様な蹴りでした。」
井上は器用に膝下をしならせる足蹴を繰り出して見せた。
「して、鉄造は。」
「腹を抑えて倒れ込みました。くるぶしまで足先が腹に埋まっていたと思われまする。」
井上の談話に悪兵衛は腕組みをした。
酒場での一件、隊士達が報告を受けている。
「仁悟、見た事があるかい?」
「ないな。特殊な打撃だ。あの頑丈な鉄造が蹴り一発で、となると道場格技とは思えぬ。」
重苦しい沈黙の中、板戸を静かに開けて黒の菅笠に外套姿の霧丸が現れた。
「問い合わせのあった睦螺総軒だが。」
「存亡を賭けた剣術試合に負け、脱藩して浪人となった道場の筆頭だ。」
「地頭に提出された免状も切札も、異常はなく正規の物だ。」
霧丸の報告を聞き、隊士達は押し黙る。
「井上殿、睦螺は見たのか?」
「しかとは確認できませなんだ。ただ」
「ただ? 」
「座しているだけで、強い圧を感じました。人の形をした深く黒い孔のような。いくさの瘴気を吐き出すような者でした。」
「霧丸、睦螺に関してより詳しく調査出来るか? 」
「脱藩元と、その成育まで調べよう。」
「頼む。」
悪兵衛の言に、バルザックと仁悟朗は頷いた。
小屋の外の足音に霧丸だけが気づき、注意を向ける。
騒々しく板戸を開けて、桃乃介が現れた。
「酒場で倒れた回し手の者が死ぬ。」
六
迎屋の人足小屋の一室、鉄造の部屋に回し手達が集まっている。悪兵衛達が着くと、奥から老年の医師が現れた。
「臓物より出血が見られる。宿場の医者ではどうにもならん。持って今夜であろうな。」
寝かし付けられた鉄造は脂汗を浮かべ歯を噛んで苦しんでいたが、
やがて意識を失ったという。
「鉄造、しっかりせい。」
枕元で声をかけた仁悟朗に気付くと、薄目を開けて手を伸ばす。
震える手を仁悟朗が握ると満足そうに微笑み、無言のまま気を失った。
明け方近く、鉄造は死んだ。
回し手達の落胆と悲しみは、やがて怒りに変わっていく。
鉄造の件は、酒場にいた他の物達より宿場全体に広がっていった。
*
廻船一隻分の荷を運び終えた悪兵衛は、受け取りを出すのと同時に、帳簿に
担当した物の名を記しに迎屋にあがる。頬被りで顔を隠しながらの作業では
あったが、陽光が強い港では目立つものではなかった。
番頭の末吉が白髪頭を撫でつけ、帳簿に目を通しながらため息を漏らした。
「播磨さん、手の皆はどうですかい。」
「皆、無言だが怒りを貯めて、働いている。」
「そうだろうね。鉄造は頼りにされていたし、皆とも仲が良かった。」
「いつ、浪人組と衝突してもおかしくはない。」
「それは……。地頭の長左さんは元締めだ。この須鶯を昔から纏めている。手の皆もわかってはいると思うのだが。」
「江本長左衛門か。その子飼いの浪人組には手は出せないのだな。」
「へえ。正直、あっしも腹の中は煮えてますがね。」
しょぼしょぼと視線を落とす末吉を残し、迎屋を出る。
春の陽に波間が煌めいている。悪兵衛の心は晴れない。
「日に日に鬱屈した感情が高ぶっておる。」
悪兵衛の横に立った仁悟朗が手拭で顔を拭った。
「大きな争いになりそうだ。」
「我等の内偵に影響がでるようでは。」
桟橋に佇む二人の元にバルザックも歩み寄る。
「諍いになりそうだね。二人共その事を話していたのかい?」
「そうだ。」
「構わないよ。このままでいい。」
「どういう事だ?」
「今の流れが大きなうねりになった時、任務にも良い影響がある。」
「刑部殿や、灰音殿だったら、きっと地頭と番役、地方管理官にまで掛け合って治安の維持に努めるだろうね。僕はそうしない。」
「おいおい、大丈夫か、中佐。」
仁悟朗が困り顔でバルザックに問う。
「うん。もうすこし時間と材料が欲しい。悪兵衛に相談があるよ。」
「わかった。」
バルザックにうなずき、また海原を眺める。
悪兵衛、仁悟朗ともに、波乱や混乱が待ち受けるのがわかっていても、それ以上にバルザックという男に対しての信頼が厚い。港についた新たな廻船に三人は向かった。
*
夜半、地頭、江本長左衛門宅の広間では浪人組が酒盛りを行っている。
襖が開けあけられると、大声でわめく男達の声が漏れる。
小用に立った浪人が二人、縁側に現れた。
「厠は。」
「おい、長七郎、こっちだ。」
「でかい家だ。相当な儲けだろうな。あの地頭は不在なのか。」
「それがな、芸人の年増の……似鳥だったか。あの女と毎晩しっぽりよ。」
「いい思いをしやがって。酔った振りで
「馬鹿、今晩は舟遊びにでかけておるわ。」
浪人が廊下の奥に消えると、内庭の灯籠の陰から人が現れた。
桃乃介、紗世、悪兵衛である。女子二人は目立たぬ小袖姿。悪兵衛は袴に
二本差しの浪人の出で立ちであった。
紗世の案内で屋敷にあがり、迷いなく内部に侵入する。
「目的物はいずこに。」
「寝室の奥に書架があり、その隠し箱に。」
紗世は、長左衛門を篭絡した似鳥より、屋敷の構造を事細かく聞いている。
三人が手に入れようとしている目的物とは、「密書」であった。
長左衛門には後ろ盾として、
この十年は新山に様々な便宜を図ってもらい、その見返りを渡していた。
その新山よりの墨付きの書簡を手に入れようとしている。情報は無論、似鳥からであった。
紗世は絹の端切れを使い掌の脂を残さぬよう、細心の注意を払って書架の奥の隠し小箱から封書を取り出す。何通か手早く中身を確認し、懐にいれた。
「間違えありませぬ。」
うなずいた悪兵衛と共に、屋敷の裏手から三人は抜け出す。
高い塀の続く町屋を抜け、港に注ぐ堀の脇道に出た。ここまで来れば
怪しまれる事もない。
「悪兵衛様は、やっぱりお侍の姿の方が似合われますね。」
「拙者を以前見られた?」
「はい。何度も。月光には不知火番といって本閥を陰ながらお助けする部門が。紗世もかつてそこに。」
「お顔がわかるほどお近づきになれたのは初めてですが。」
言いながら紗世は微笑んで悪兵衛を見つめた。桃乃介がにやりと笑って悪兵衛を肘でついた。
「揚羽一座の娘であろう?」
正面に浪人者三人がふらりと現れた。酩酊している様子である。
「丁度いい。今から地頭の家だ。お前達も付き合え。」
「申し訳ありません、小屋に帰るところで。」
浪人は年若く可愛らしい二人を逃がさぬように囲う構えになる。
無言で悪兵衛が前に進み出た。
「貴様、見ぬ顔だな。睦螺の子飼いか?」
「気に食わぬ。大将の傘にきてやがる。」
激しい衣擦れの音と共に、声をかけた浪人が回転しながら吹き飛ばされた。
もんどりうって地面に激突し、動かなくなる。
悪兵衛が大きく脚を広げ、左拳を突き出す姿勢を解いた。
「貴様。」
一人が刀に手をかけた。その手を右手で抑えると、やや余裕のある動作で足裏を下腹にあてる。重い衝撃音と土煙と共に浪人は吹き飛び、堀に落ちて水音があがった。残った一人は狼狽しながら、背後の者と堀に落ちた者を見比べる。
「連れていけ。」
悪兵衛の声に思わず頷く。桃乃介と紗世に目くばせし、その場を去った。
「ああいう場合はさ、
「俺は苦手だ。うまくいくかどうかわからん。だいたい、桃が護衛なんだろう?」
「あたしがやったら、すぐ噂になるじゃん。」
「浪人者を素手で倒す芸人の娘なんて。だからわざわざ悪兵衛にバルザックが頼んだんでしょ。ばかじゃないの。」
桃乃介の立て板に水の悪口に、悪兵衛も紗世も笑っている。
*
地頭の屋敷の離れが浪人組の逗留する定宿とされている。
足音を立てて幾人かの浪人がその廊下を歩む。怒気を含んだ表情に差した刀が音を鳴らしている。
「邪魔をする。」
奥の間の襖と開けると、待ち受けていたかのように睦螺総軒とその配下の者が座していた。声を荒げた浪人も、その不気味な静けさに色を無くす。
「睦螺殿、そなたの配下と思われる者が我らの連れに狼藉を働いた。一人は意識がなく、一人は胸の骨を幾本も折っている。これはどうした事だ。」
空恐ろしさを払拭するように、中年の髭面の浪人がまくしてたてた。背後の
者達もそうだ、そうだと声を合わせる。
「
暗がりで表情の見えない睦螺が低く答えた。
「知らぬでは済まされぬ。頭として責を負ってもらうぞ。」
浪人が刀の柄に手をかけようとした時、睦螺の背後の者が飛び跳ねるように
その身を躍らせた。
浪人が掴もうとした自らの刀は消失している。その事に気付いた刹那、逆手に持たれた自らの刃が浪人の喉を掻き切った。
白の漆喰壁に、黒く血しぶきが飛ぶ。
「
浪人が倒れた先に、刀を奪った少年が立ちはだかっていた。
その横の長身の青年が少年を手で制する。
「我らも、主も関係してはおらぬ。無礼討ちである。許されよ。」
青年に促され、一気に肝を冷やした浪人組の者達は訪れた時の勢いをすでに無くし、斃れた男を運び出していった。
「おい、アキラノヒコ、やりすぎだ。」
腰を下ろしたウネビノヒコはため息まじりにいった。少年は俯き、睦螺、いや、スバルノミコトを見つめる。
「これらはヤマトビトの対処になれておらぬ。」
スバルの言葉にアキラノヒコは少年らしい笑顔を見せる。
「たしかに。我らのようにヤマトビトとしての生活の経験もないしな。」
傍らのミョウケンノヒメが言った。
「しかしだ、気に食わぬヤマトビトを片端から殺していってみろ。我らが動き難くなるであろう。そういえば」
ウネビの脳裏に、酒場で人足を蹴り殺した同胞の顔が浮かぶ。
「ミコト、ベイノノナはいずこに。」
「我の命受け、出ている。」
いずれかの者を殺す為、スバルが差し向けたのは想像に難くない。
目の前の少年、アキラノヒコ、その横に人形のような無表情で座る少女、
ミクリノヒメ、そして幽鬼のような男、ベイノノナ。この三名はスバルノミコトに命の忠誠を誓っている者達であった。
スバルノミコトは大規模な子飼いの部隊を扱う事はよしとせず、単独での行動が多い。その際にスバルの身を護る命を受けた三名であったが、ヤマトビトの地に潜入する際、その三名すらスバルは避けていた。
強すぎる忠誠心によって、潜入しての工作に破たんを来す恐れがあったからである。現に今もスバルの意思とは関係なく、報復行動を行っている。
今回は、アシタノトラノミコトの強い要望によって。三名は従軍していた。
「アキラ、ミクリ。休め。」
スバルの声に二人は首を振った。
「あくびているではないか。」
ウネビが笑いながらアキラの頬をつねる。
「私が一緒に寝てやろうか?」
ミョウケンも笑いながら問いかけた。アキラノヒコは頬を膨らませ、黙り込む。
「休め。」
スバルが向き直り、静かに言った。
ふたりは深く礼をし、ようやく立ち上がった。
七
漁師小屋にて、悪兵衛の帰りを待つバルザックと仁悟朗は、霧丸に対している。
「先ず、我等の落ち度を伝えねばならぬ。」
霧丸は懐からいくつかの書簡を差し出した。
「睦螺総軒の調査だ。」
「谷津藩に生まれ育ち、出仕後三十二年の務め。引退してからは剣術道場を
二十年経営している。現在七十の老齢だ。」
霧丸の報告に二人は顔を合わせ、井上を見た。井上は首を振る。
「どうみても二十に手が届かない青年に見えました。」
「睦螺は弥者が偽装しているのか。」
「その可能性がある。」
霧丸の応えにバルザックは目をつぶり考え込む。
「播磨少佐は。」
「地頭を調査している間宮と丹組の者の警護に出ている。」
「報告を聞いた。和賀藩、予篠学園に於いての学徒大量潜入事件。その際に橘川一圓中尉と対戦した弥者を目撃したそうだな。」
「播磨少佐に恨みをもったスメロキノミコトの配下であると。」
「そうだ。何がいいたい。」
「播磨少佐を睦螺に発見させればよい。弥者であれば誘き出される。」
「馬鹿な。対侍の戦闘に習熟した複数の弥者と考えられるのだぞ。悪兵衛の命はどうなる。」
「これは弥者を炙り出すのが目的だ。少佐の命は関係がない。確認の後に
大規模な戦闘に備えれば良い。」
月光首代の感情のない言葉に、その場が冷え込んだ。
霧丸の退出後、仁悟朗は不機嫌に湯呑の茶を飲み干す。
「奴は仲間であっても撒き餌にするのか。好かぬ。」
「僕もそれは考えられないよ。」
バルザックは霧丸の残した書簡に丁寧に目を通しながら言った。
やがて、悪兵衛、桃乃介、紗世が小屋に戻る。
「手に入れたぞ。」
悪兵衛は安物の差し料を壁際に置き、囲炉裏の前に座した。
紗世が懐より封書をバルザックに手渡す。
行燈を引き寄せ、バルザックは目を走らせた。
「よし、でかした。三人共。これは長左衛門が代官と交わした念書だ。」
「どういった内容だ。」
「これを見ろ。観閲式前、地頭の采配に異を唱え、妨げるに至った者、これを誅する事を許し、その財産を没収、管理を地頭に預ける。とある。」
「長左衛門の狙いはそれか。」
「それに弥者が与している?どういう理由だ。」
仁悟朗の疑問は他の者も同様で、皆押し黙る。
「おやっさん、急ぎ屯所の刑部殿と幡殖宿の灰音殿に連絡を取りたい。」
「心得ました。」
「報告書を作成するよ。悪兵衛は紗世殿の帰路の護衛を頼む。」
「あいわかった。」
生垣の続く堀沿いの道を悪兵衛と紗世は歩む。
道々の常夜灯に、鮮やかな赤のツツジが浮かんで見える。
暖かな春の夜に、二人の足音だけが響く。
「弥者の潜入の調査でしたのに。」
「事が大きくなってしまったな。」
悪兵衛はちらちらと伺うようにこちらを見つめる大きな瞳を、見返す事が出来ない。
「紗世殿はずっと丹組で? 」
「はい。家は代々卍組にお仕えしていたのですが、私は丹組に選ばれて。」
たしかに、美しい少女の紗世が、格闘に秀でているとは思えない。だが、それならば、任務として似鳥のように男性を篭絡する事もあるのか。
その考えにいたり悪兵衛は暗澹とした想いに囚われる。
「悪兵衛様、わたし」
紗世が言いかけた時、あたりの気配に悪兵衛の身体は瞬時に対応した。
紗世の前に踏み出し、左の手で彼女を庇う。
町屋の角、堀の降り場、生垣の陰から何者かがゆっくりと現れ、二人の前に立ちはだかる。悪兵衛は無言で柄に手をかけた。
「紗世様。」
しわがれた声が前方の小柄な男から聞こえる。次いで他の者も紗世の名を呼んだ。
「悪兵衛様、大丈夫です。百組の者です。」
吐瀉物を吐きかけ、腕を固定してしまった蝦蟇のような男、全身包帯に包まれた長身の男、致命の怪我から一瞬で回復した男であった。
「紗世様。」
「葛之介。護衛についてもらっていたのです。悪兵衛様、ここよりはこの者達とまいります。」
異形の者達が紗世を守り、囲むようにしている。
二度、紗世は振り返って悪兵衛を見た。
灯りが届かなくなるまで、紗世の後ろ姿を見送る。
左の掌に、彼女の細い肩の感触が残っている。それを握りつぶすかのように
拳を固めたあと、悪兵衛は踵を返した。
*
三日が経った。早暁、砂浜で悪兵衛と仁悟朗が早駈けの訓練を行っている。
一定の距離を全力で駆け抜け、一呼吸置いてまた全力で戻る。
裸足が砂が埋まり重い。すでに四半刻、三十もの数をこなした。
仁悟朗はしゃがみこみ、砂浜に額から汗がしたたり落ちている。悪兵衛は波音を聞きながら大きく伸びをした。
「お主、益々早くなったな。」
「訓練はそのためだろう。」
「その成長は異常だといっている。付き合っている俺の身になれ。」
仁悟朗は情けない声をあげて腰をおろした。
「よし、おぶってもう一本。」
「ううむ、先におぶれ。」
悪兵衛は笑いながら仁悟朗を立たせ、背に負って砂浜を駈けだす。
「おおい、二人共。」
バルザックが上半身裸に鉈を持った薪割の姿で砂浜に現れる。
「戻ってきてくれ。」
漁師小屋には米の煮える柔らかな香りでいっぱいで、水を浴びた悪兵衛は
唾を飲みこんだ。中二階から小袴姿の桃乃介が箱階段を下りてくる。
「なんだ、泊まりこんだのか。」
「一座の宿で寝るのいや。
不満げな顔をしながら囲炉裏の前にいち早く席を取る。
バルザックは井上から碗をもらい、盆にのせて運んでくる。粥の上に煮た豆
腐、葱を乗せて醤油にごま油を垂らした物だった。
井戸水を浴びて全身から白い煙をあげながら仁悟朗が小屋に戻る。
「バルザック、何かあったのか。」
「うん、それがね。」
井上がバルザックに促され、語り始めた。
「今朝、朝餉の買い出しに町表に出たのですが、港に人だかりがありまして」
「楓屋の達五郎が殺されていました。」
迎屋と同規模の廻船問屋、楓屋。達五郎はそこに長く務める五十男だった。
今朝早くに港の桟橋の袂に浮いているのが発見されたのである。
「見分はしたのか? 」
「少々ですが。刀傷でした。手練れです。」
「何があったんだ。」
「昨夜、府本町の小料理屋で、楓屋の者と浪人組がいざこざを起こしたそうです。怒鳴り合いから刃傷沙汰に及びそうな時、達五郎が双方を止めた、と
聞きました。」
「港の者にしては落ち着いた思慮深い男だったな。」
「御意。」
「これは、荒れるな。」
仁悟朗が粥を掻きこみながら言った。
「午前中は悪兵衛も仁悟も、別の桟橋にいってお勤めして欲しいんだ。」
「わかった。」
「そこで、回し手達の気の流れを見て欲しい。昼に迎屋の埠頭でもう一度相談したい。」
「うむ。何をする? 」
「機運に乗る時が来たと思う。」
バルザックは粥を啜った。
井上が部屋奥の床板を一枚ずつ撤去し、床下から鎧櫃を取り出した。
揺れる炎の紋章が金属の留め金に描かれている。
*
昼過ぎ、揚羽一座に宛がわれた宿屋の裏手、縁側に浪人姿の悪兵衛が座っている。襖が開けられ、舞台の為のきらびやかな振袖姿の似鳥、船蜜、紗世が現れる。昼の休憩が終わり、次々と部屋から出て行く芸人達を横目に見て、
襖を閉めた。
「打ち
「うむ。その為、霧丸にも工作を頼み、今夜回し手達を埠頭に集める。」
「おそらくその際の指示は霧丸からもあろうが、浪人組の近辺に居る事に
かなりの危険を伴う。」
灰音の回答が今朝届いていた。屯所の刑部より、山を一つ越えた先の幡殖宿が近い。バルザックの現状報告の上で浪人組、ひいては弥者の狙いの予測を頼んだ物であった。
灰音章雪によると、現在拝殺の準備中と思われる弥者には、兵力が足りないのではないかという事だった。
あえて他の浪人と共に、武装を許される集団に溶け込もうとしている。ならば、それを統率する地頭に権力を持たせた方が動きやすい。故に地頭の思惑に手を貸す動きを見せ、用済みになれば殺してその位置に成り代わる算段ではないかという予測である。
「回し手の暴動に浪人組が出る。その混乱に乗って弥者が動くと、バルザックは見ている。」
「睦螺一味が弥者であった場合、丹組の潜入を知れば只では済まぬ。」
「地頭諸共、我らも殺されると? 」
「その可能性は高い。」
「ご忠告、承りました。首代よりの指示を待ちます。」
悪兵衛は立ち上がった。頭をあげた紗世が潤んだ瞳で見上げている。
「霧丸は丹組の者達の命を囮に使うかもしれぬ。一言、我等から警告した方がいいね。悪兵衛、頼むよ。」
呟くバルザックの横顔を思い出す。
懐には灰音章雪よりの悪兵衛に宛てた封書が入っている。
八
日も暮れた頃、宿場で最も大きな桟橋に、人足、回し手達が続々と集まっている。ざわざわと波のように声が伝わり、近隣の町人も何事かと顔を出す。
祭りのような人だかり。篝火がいくつも焚かれその中心に腕組みした
バルザックが迎屋の半纏をまとい、直立している。
悪兵衛は頬被りの回し手姿で人ごみから一歩引き、辺りを見回す。
浪人組の姿はない。
「みな、今日も一日お勤めごくろうっちゃね」
バルザックの第一声は言霊を含んでいる。大声でもないが、全身に振動が伝わってくる。
「大汗かいて、びっしゃになったいね」
異人の偉丈夫であるバルザックの、流ちょうな言葉と方言に聴衆から大きな笑いが溢れた。
「実は我慢ならん事があり、皆に聞いて欲しくてな。」
表情を改めたバルザックに耳目が集まる。人だかりの端に、浪人者の姿を
認めた悪兵衛は、それとなく近づいていく。
「金で雇われた野良犬が、俺たちの宿場を荒らしている。」
「飲み代を踏み倒し、町人を殴り、海に小便を垂れ流す。」
ざわついていた聴衆の中、好奇や楽し気な気分とは別の感情が生まれ始める。
「仲間が、殺された。」
一瞬の静寂の後、また人々はざわつき始める。さんざめく雰囲気が変わった。不満や怒りが少しずつ漏れだしたかのようであった。
「なんでそんな事になるのか、俺にはわからなかった。」
「だが、地頭の屋敷の者からこんなものを手に入れた。」
地頭、江本長左衛門と代官、新山玄蕃の念書である。
「これには地頭と代官の取り決めが記されている。問題を起こした問屋は店を畳まれ、地頭がその権利を受け取るというものだ。」
人びとの声は大きくなり、あちこちで怒号が飛び出す。
「地頭が浪人組をけしかけ、俺たちといざこざを起こそうとしている。」
バルザックの声に人々は騒めきで答え、徐々に加熱する聴衆の中には真偽を
疑う者も出始める。
「そんな念書、本当かどうかわからん。」
「これを見ろ。代官の印形がある。これがもし偽りであれば、公文書の偽造にあたる。その罪を知っているか。」
「打ち首だ。」
バルザックの言葉に人々からおおおと一際大きく声が溢れた。
「俺は海が好きだ。ここでお勤めする皆が好きだ。」
「荷を運び、
皆を見回し、語り掛ける。人々は静まり、バルザックの言葉に耳を傾ける。
「魚を食い、酒を飲む。仲間と共に。」
「皆、仲間と家族と海をなにより大事にしている。」
「久平、お前は若い嫁さんだな。」
傍らの若者の頭を掻く姿に人びとから笑いが漏れる。
「それを地頭が、奪おうとしている。自らの欲のために。」
「奪えるか。俺たちの炎を。」
バルザックは傍らの櫂に篝火の火を移す。立ちまちそれは火の粉をあげて
燃え上がった。
「守るぞ。俺の大事なものを。皆の大事なものを。」
「打ち毀す。俺が旗頭だ。責は俺がとる。」
「須鶯の男、回し手の皆。俺に続け。」
バルザックは言葉の後、士魂を込めた怒号をあげた。人々はそれに答え口々に叫び声をあげ、手に持った櫂を燃やす。
遠巻きに見ていた浪人者は蒼い顔で耳打ちし合い、地頭の屋敷に逃げ去った。
その姿を見て取った悪兵衛の横に、いつの間にか武芸者姿の霧丸が立っている。人々が口々に叫び、バルザックがそれに答え、聴衆の気が大きく膨れ上がり続ける。やがて霧丸が口を開いた。
「戦国の世であれば、あれは一介の侍として生きられぬ。」
「どういう意味だ? 」
「様々な人間を見て来た。奴は仕え、剣を捧げて戦う者ではない。」
「自ら火を熾す。そういう者だ。」
悪兵衛にとっては不可解な言葉を残し、霧丸は群衆の中に消えた。
明々と燃える櫂を持った人々の移動が始まっている。
口々に声をあげながら、宿場の中央、坂上の地頭の屋敷を目指す。
火の粉を浴びながら、銀髪を靡かせて人びとを導くバルザックを眩しく眺め、悪兵衛は単身芸人一座の宿に向かった。
仁悟朗と井上が似鳥に用意してもらった一室に、鎧櫃と装備品を運び込んでいた。仁悟朗はあまりの重量の運搬に、畳に座り込み、裸の上半身から煙をあげている。
「人間一人で鬼門甲三着を運べる物ですなあ。」
「修練の賜物だ、おやっさん。」
二人の呑気なやりとりを聞きながら、悪兵衛は半纏を脱ぎ去った。
「桃は?」
「おらぬ。宿はもぬけの空だ。」
「女陰足と共に移動したのか。」
言いながら、
胸元の櫨を留め、両腕を揮う。
「
井上が簪に鬢付け油を用意し、悪兵衛の髪を結い始めた。
九
港の労務者による蜂起の報告を受けた睦螺総軒は、配下の鏑木、穂乃村両名に浪人組を引き連れ、その鎮圧にあたるよう命じた。
江本長左衛門は脂汗を浮かべ、狼狽している。
自室にて睦螺にそれを告げられつつ、震える手で湯呑を口に運ぶ。
「我を呼ばれたのは別件であろう?」
彫像のような佇まいの睦螺が問う。その背後にはいつも付き従う少年と少女が無言で座している。
「はは。御人払いを……。」
「必要ない。」
「左様ですか。実は、例の件、代官の新山様との念書が紛失しまして。」
睦螺はあたふたと説明する長左衛門を無言で見つめている。
「保管場所を知っているのはわたくしと、揚羽一座の似鳥という芸人だけで。
一座の女達を、全員、土蔵にいれて見張りを立てております。」
「その女は何故書を奪った。」
「それが、さっぱりわからずで。念をいれて理由を告げずに一座を集めまして。」
睦螺は咀嚼するように長左衛門の言葉を聞き、目をつぶった。
「では、お前はもう必要ない。」
言いながら傍らの少女に頷く。御河童頭の無表情な少女が立ち上がった。
「へえ、それはどういう」
色を無くした長左衛門がよろりと立ち上がる。
少女はかくん、と口を開いた。
ほのかな花の香りを嗅いだ。野に咲く野趣な花弁の放つ匂い。それが纏わりついてくる。一瞬の疑問の後、長左衛門の全身が橙の炎に燃え上がった。
火柱とも呼べる業火が天井まで届く。叫び声も上げず、二歩歩き、膝から崩れ落ちて座り込む。炎は上がり続け異様な程の速度で人間を炭に変えていく。
長左衛門であった物が動かなくなると、炎は幻のように消えた。
少女の額から、小振りな角が生えている。瞳が赤く輝く。
「土蔵へ行き、書を奪え。」
睦螺の言葉に少年が反応し立ち上がる。
「女は皆、殺せ。」
二人が無言で部屋から去った。空いた襖から幽鬼のような浪人が部屋に入り込む。
「我等はウネビとミョウケンと共にヤマトビトを抑える。」
睦螺は立ち上がった。
*
バルザックは鬼門甲の上から肩掛けの革帯を閉め、長大な太刀、「四辻」を負った。仁悟朗も面頬の顎紐をきつく結ぶ。
琿青を差した悪兵衛が立ち上がった。
「群衆は?」
「屋敷前の広場に集まっているよ。いますぐにも火をかけそうだ。」
「地頭と浪人組の動きは。」
悪兵衛の問いに答える様に霧丸が暗がりより現れた。覆面に装甲のついた黒
装束姿である。いつかみた朧丸の姿が重なる。
「睦螺子飼いの男女が、浪人組を引き連れて門の内側で待機している。一息に回し手達を討つ心づもりであろう。」
「地頭は。」
「睦螺と屋敷内にいるようだ。表には出てきていない。」
霧丸の言葉を聞き、悪兵衛は刹那の間、考える。
「よし。バルザックは回し手達を導き、浪人組に当たってくれ。俺と仁悟朗で睦螺を捜索する。」
「わかった。桃乃介は。」
「一座の女達は宿から地頭に招集され、屋敷のいずこかに居る。」
仁悟朗が足回りを確認して立ち上がった。
「急ぐぞ。逃走を許す。」
悪兵衛は一旦琿青を鞘ごと抜き、突き出す。両名もそれに応じ、鍔を打ち合わせた。
「
「士魂と剣。」
悪兵衛と仁悟朗が去った後、バルザックが霧丸に問う。
「一座の者達の安全の為に屋敷にかくまっているのかな?」
「いや、それでは報告の時が違える。混乱の前に地頭がそう指示した。」
「何故だ。」
「何らかの異変を地頭が感じたのであろう。恐らく密書の紛失に気が付いた
のではないか。」
バルザックの表情が強張り、鋭く霧丸を睨みつける。
「霧丸、似鳥達が殺されるぞ。貴様それをわかっていたな。」
霧丸は口元の布を引き、バルザックに向き直る。
「播磨少佐と我が配下の者が仕合った話を聞いたか。」
道場で青黒く変色した膝を見せ、朧丸との戦闘を話した悪兵衛を思い出す。
「似鳥はその者の武術の師だ。浪人の一人や二人、縊り殺す等造作ない。」
呆気にとられるバルザックを残し、霧丸は表に単身出て行った。
悪兵衛は灰音よりの言伝を反芻している。
「弥者による侵攻で尊級の者が出現した場合、戦闘は避けろ」という内容である。理由は未だ悪兵衛にはその倒す術がないからだ、とも。
ただ、敵がスバルノミコトもしくはスメロキノミコトであった場合、複数での戦闘ならば勝機があるという事も記してあった。
その旨は先刻、バルザックと仁悟朗と示し合わせた。
織田刑部により、スメロキの破常力の構造の解明が一部進んでいる。
戦闘の許可の理由の一つである。
「スバルの物体の遠隔操作は念動にあらず、風力を利用した物である。」
「それ故に、剣戟での戦闘に強いが、四股、蹴破等爆風を生じる戦技には、
その目標にぶれが生じ失いやすい。」
「また、その性質故に上方に爆風を発生する旭光、斬撃方向に発生する野火は攻撃を防ぎ、殲滅出来る可能性が高い。しかし、未だ解明できない事柄があり、変わらず単独での戦闘は避けねばならない。」
刑部によるスバルの「ハナニチョウ」の見解である。
スメロキとの相対に際しては、二名以上の隊士が互いの死角を庇いながら戦闘を行う事で一撃での攻撃を避けられるのではないかという、共通の認識があった。悪兵衛、仁悟朗共にスメロキノミコトを目の当たりにし、その異能の力は知っている。
「悪兵衛。貴様が斃れても尊級であれば俺は見捨てて討つぞ。」
「うむ。頼む。仁悟朗。」
二人は歯を見せて笑いあった。
*
地頭屋敷の西端に位置する土蔵には、二十名程の揚羽一座の女達が集められていた。
不意に錠が解かれ、扉が開かれる。騒めいていた女達が静まった。
篝火を背にして、少年と少女が立ちすくんでいる。その額には、鋭利な刃物のような角が屹立する。スバルノミコトの命を受けた、アキラノヒコとミクリノヒメであった。
すでに人間の擬態を捨て、本来の弥者の姿に戻っている。
異形の姿を認め、女達の恐怖が広がっていく。息苦しい程の緊張が空気を
張り詰めた。
「声をあげるな。」
「似鳥という女。前に出ろ。」
アキラノヒコが告げた。その声を受け、薄紫の振袖に身を包んだ似鳥が怯える風もなく女達の中から現れた。
「密書をどうした。」
「密書? なんの事だい。」
あらぬ方に視線を走らせ、扇子で顔を隠した女に、アキラノヒコは怒気をはらませながら、短刀を抜いた。
「なかまを、殺す。」
「なんだお前、子供の弥者か。」
気楽な声をあげて間宮桃乃介が進み出、似鳥を庇うように立った。
手には舞台で使う番傘。しかし握りは純白の拵えの魁音刀の柄である。
を偽装した物であった。
「アキラ、ワリビトだ。」
ミクリノヒメが驚きと憎悪を込めて告げた。
「紛れ込んでいたのか。ミクリ、どうする。」
「殺そう。ミコトがよろこぶ。」
少年と少女は声を潜ませて頷き合った。
桃乃介はそれを見ながらゆっくり刀を抜く。鮮烈な白の火花が飛び、つんざく炸裂音が響いた。
「オ ト ナ イ テ」
アキラノヒコは呪詛を叫んだ。
若年であろうとも、絶対の自信を持つ自らのちから。
それは身体の一部に強烈な加速をつける能力である。
身体能力を強化する破常力の頂点に位置するのがムツノナタノミコトの力だとすれば、アキラノヒコはその加速力に集中したものであった。
一対一の戦闘では、例え成人の弥者であろうと負けぬ無類の強さを見せる。その自信が、アキラノヒコの刃に乗っている。
が、人間の目に留まるはずもない加速をつけた斬撃を、目の前の侍は
事も無く避けた。続き、刹那の間に十度、鋭い攻撃を加えた。
それも、眼前の刀を下げた女は避けた。その瞳には白い炎が宿っている。
額を二本の指で小突かれ、アキラノヒコは踏鞴を踏んで後ずさった。
「お前、弱いな。」
桃乃介は呆れたように言った。
「弥者でも子供は斬りたくない。」
アキラノヒコは初めて恐怖した。加速をつけた連続の攻撃は、あらかじめ斬撃位置を予測する桃乃介の魁音撃、
背後のミクリノヒメも驚愕の目で桃乃介を見つめる。
アキラノヒコは強化した脚力でミクリノヒメを抱え、土蔵の外に飛び出した。
その間、ミクリノヒメは口を大きく開いている。
「なんだ? 花の匂い。」
訝しむ桃乃介と女達を閉じ込めるように土蔵と扉を閉め、閂をかける。
傍らの篝火から燃える木切れを抜き取り、土蔵の窓に投げ打った。
一呼吸の間の後、内部が橙の炎で照らされ、女達の悲鳴が響いた。
苦しみの絶叫と共に窓の外にまで業火が溢れる。炎の中でやがてその声も消えた。
「恐ろしいやつだ。」
「他にもワリビトがいるのかも。」
「ミコトが危ない。」
アキラノヒコとミクリノヒメは母屋に向けて駈けだした。
十
正門内、浪人組の者達は戦々恐々としていた。
門の向こうには回し手の男達の怒号が響き、燃える櫂を振り回しているのが見える。浪人組の背後に、人間の姿のウネビノヒコとミョウケンノヒメが
鼻白んだ表情をうかべて佇む。
「戦士でもないヤマトビトの群れを恐れてこの様か。」
「こやつらもいくさびとではないのだろう。」
侮蔑の言葉を吐き捨て、ミョウケンは正門横の壁の足場に向かう。
土塀の屋根から弓で狙う為であった。
長大な木刀を担いだウネビは、浪人の一人に声を掛ける。
「門を開けよ。恐ろしければ逃げても良い。俺とあいつで、雑魚は皆片付けてやる。」
ウネビの侮った言葉に浪人組の者達が気色ばむ。
その時、軽い爆発音と共に白煙が噴き上がり、正門内を満たした。
濛々とした煙に視界が消失する。
ウネビは自らの手首が何者かに掴まれる。狼狽した浪人かと一瞬考えたが、
その手に鉄の鋲を打ち込まれ、木刀を揮い反撃する。が、白煙の中に手ごたえはなく、掌を見ると貫通した鋲の先には
「これは」
ウネビがひとりごちた瞬間、その鋼線が強力な力で引かれ正門まで引き寄せられる。回転する歯車と火花の明りが見えた。
片腕で磔にされるような姿勢で、ウネビは身動きが取れない。
屋根上のミョウケンは、同胞の異変に気付き、弓を構えるが煙幕の中に浪人達が蠢くだけで、その目標は定まらない。
「ミョウケン、曲者が。」
白煙の中でウネビの怒号が響いた。視線を走らせるミョウケンの側方、眼前にいつの間にか影から生まれたような者が立っていた。
黒色の装束に頭巾、鉢金のまびさしの下、鋭い視線のみが見える。
「何者だ。侍ではないな。」
鋭い誰何に答えず、黒装束は腰の小刀を投げ打つ。ミョウケンは人とは思えない速度で弓を構え、いとも簡単にその刃を狙い打った。が、その瞬間に白煙の爆発が起きる。
「目くらましを」
苛立ったミョウケンの足首に鋼線が巻き付いた。一瞬で締まると、それは土壁の下方向に引かれた。正門外に引きずり降ろす意図を感じたミョウケンは、
脇差を抜いて瓦の隙に突き刺し、耐える。
が、足首を引かれたのは一瞬で、その対処に気を取られたミョウケンの背後に黒づくめの男が立っていた。
「月は、名乗らぬ。」
拳に隠した暗器は薄氷のような刃であった。霧丸はミョウケンの頸動脈を正確に切り飛ばす。痒みを感じたミョウケンは首筋を抑えると、すぐに熱い血が噴き出す。呆然としたその刹那に、霧丸は逆側の動脈にも刃を
いれ、屋根瓦から飛び降りた。
突如現れ、降り立った男に、回し手達はどよめき、遠巻きにしている。
「忍び」「忍者」と、恐ろし気に口にするが恐らく味方であろう、その者を眺める事しか出来ない。
「おのれ、ヤマトビト。」
ミョウケンの憎悪に満ちた絶叫が響いた
「ここまでだな。」
ウネビは掌の血肉ごと、鋲から抜き取った。
「ヤシャショウライ」
言葉と共に、ウネビの額より一対の角が屹立する。掌から血煙が噴き上げ、鋲によって開いた痕が桃色の肉で埋まっていく。
同時に同じ言葉を呟いたミョウケンの額にも長大な一本角が現れ、燃える様な髪を靡かせて立ち上がる。
首筋の血は止まっている。
「借りるぜ。」
片手を何度か開閉したウネビは、呆然としている浪人者の差し料を抜いた。
煌めいた白刃にようやく我に返るが、それが浪人が最後にみた光景であった。
金属が唸り、爆ぜるような音が響いた。
正門が真一文字に分断され、地に落ちる。
その奥には刀を担いだミョウケンノヒコが立っている。
周囲は刻まれた浪人達の血の海であった。
土煙と白煙が晴れる間、回し手達は固唾を飲み、静寂が満たしていたが、
やがて恐怖の絶叫が巻き起こる。
口々に弥者の出現を叫び、一際大きく声をあげた者が、道を挟んだ向かい側の土塀まで吹き飛んで撃ち付けられた。口中には矢羽が屹立している。
土塀にひびが入り、崩れ落ちる。ミョウケンノヒメの強大な破壊力の一射で
あった。
霧丸は口布を引き下ろし、背後に現れた者に告げる。
「では中佐、後は頼む。専門だろう。」
回し手達の背後から、鬼門甲に鉢金、背に大剣を負った完全武装のバルザックが現れた。連続する金属音が刀から漏れだしている。
人びとからバルザックの名が漏れる。
「陰足は気楽なもんだなあ。」
朱に輝く火花を散らして、抜刀した。
*
井上の先導で裏手から侵入した悪兵衛と仁悟朗は、正門前の騒めきと独特の
金属音を聞いた。
「魁音撃か? 」
「……少し違う。破常力であろう。」
「現れたか。」
頷きあった両名は母屋の表玄関から侵入する。
広間の中央に大階段が続き、踊り場から左右に上り階段が伸びている。
豪奢な造りの邸宅であった。
中空の足場に、行燈と篝火で浮き上がるように照らされた睦螺総軒が立っている。
背後には睦螺に付き従う不気味な浪人と少年と少女の姿があった。すでに、人間の擬態を解いている。
「三度まみえたな。烈火の侍。」
睦螺、いや、スバルノミコトは静かに見下ろしている。
十一
ミクリノヒメの飽和破常力、消化不能の業火が土蔵の中で燃え上がっている。
地面に伏せた女達の中心、風船のように腹部が大きく膨らんだ男の口より、
橙の炎が噴き上がる。人間の有に三倍はあろうかと見まごうその腹部は、炎の噴射と共に徐々に収縮し、やがて小柄な中年の男の姿まで戻る。
げふり、とげっぷと共に最後の炎が吹き出た。
「惣吉楼、やったね。」
明るい声で船蜜が男に抱き着く。大きな乳房が頭に乗って弾んでいる。
男は顔を赤らめて、きしし、と笑った。
男は土蔵内に充満した可燃性の気体を、すべて吸い取り、体中に溜めてから
内部で燃焼したように見せかけた。
女達の悲鳴は船蜜が皆をけしかけ、わざと上げさせていた。
「これが百組の者か。すごいな。」
桃乃介が立ち上がった。髪の先が焦げている。」
「連れて来ておいて助かりました。」
似鳥は小柄な惣吉楼に女芸人の格好をさせ、予め潜入させていた。
爆発音と共に、桃乃介は蹴破で土蔵の鉄扉を吹き飛ばす。
宵闇の中に、弥者の少年と少女の姿は無かった。
「たぶん、悪兵衛達は母屋に弥者を斬りに入ってる。あたしもいくね。」
桃乃介の周りに丹組の女達が集まる。
「首代より、逃走の経路と避難する為の弁財船の指示を受けております。」
「間宮様、くれぐれもお気をつけて。」
「桃ちゃん、私達と一緒に逃げよう。」
紗世の思いつめた言葉に桃乃介は微笑んだ。
「こどもまで戦争に使う弥者は許せん。斬って来る。」
かわるがわる三人の手を握り、桃乃介は飛び出した。
*
「宣戦布告。」
激烈な言霊が宿場町全体に響きまわった。
「吶喊白兵衆参、不知火。」
「播磨悪兵衛少佐である。」
「同じく、深町仁悟朗大尉。」
時を同じくして屋敷の正門前、バルザックが怒号をあげる。
「ルートヴィヒ・フォン・バルザック中佐である。」
「人心を乱す為、権力を持って港湾労働者と武芸者の溝に付け込み、その誘導に殺人を犯すこと、許しがたい。天下国家の剣が誅する。」
懐から宣戦書を広げた悪兵衛は朗々と叫ぶ。
「来る統合観閲式に於いて、その破壊工作として宿場町の占拠、悖乱、殺人、すべて戦争行為とみなし、報復する。吶喊する。殲滅する。」
「いざ尋常に」
「勝負。」
「勝負。」
弥者達を怯ませる大音声が発せられた。
仁悟朗の持つ隊旗に白緑の炎が燃え上がり、くっきりと黒く不知火の紋章を
浮き上らせる。
「ヤシャショウライ」
静かな言葉と共にスバルノミコトは懐をわけ、双手を広げる。
鍛え上げられた肉体を拘束するかのような革帯に、行燈の灯をあげて煌めく
短剣が並ぶ。
「ヤツヒロノイクサガミ、スバルノミコト。」
「八百万に背くワリビト、シナツヒコの怒りを受けよ。」
静かな怒りの声と同時に、短剣がすべて空中に飛び上がり、有機的な動きを見せる。
背後に立っていた少年と少女はスバルを庇うように進み出る。
先行し階段を一歩降りた浪人は、懐の革袋より砂を床に落とし続ける。
松明に輝くそれは、鉄粉のように見える。
「鉄造を手にかけた者です。」
井上の言葉に仁悟朗は頷いた。
「霞となりたい者よりかかってこい。」
悪兵衛は琿青を力強く抜く。つんざく金属音と共に、青い火花が高く舞い上がった。
騒然としている正門前、抜き身を担いだままのウネビノヒコが崩れ落ちた
大扉をまたぎ、現れる。
「ウネビ、そやつは銀髪だ。」
「うむ、わかっている。」
土塀の上からミョウケンが声をかけた。弥者の内にも、屈強な戦士である
バルザックは知られ、異名を持っている。
バルザックは長大な太刀を手首で回転させた。風切りの音がその尋常でない
速度を語る。
「コ ヤ ネ ノ ツ ル ギ」
ウネビの呪詛と共に異様な金属音が鳴り響く。
刀を一度振った後、また担いで一歩ずつ接近する。
バルザックはその姿と自らとの距離を注意深く観察している。
土塀の陰から、ざんばら髪の男がましらの様に跳びかかった。手には霧丸と
同様の暗器が握られている。
ウネビノヒコは一顧だにせず歩み続ける。男は顔面の半ば、胸、腹に深い斬撃を受けて、血を吹きながら地に転がった。
全身包帯の男が動こうとするのを霧丸が手で止めた。
「まて、奴の破常力がわからぬ。土門にまかせろ。」
土門と呼ばれた回復と再生能力を持つ忍びは、切り刻まれたのにも関わらず、起き上がった。すでに創傷は完治している。
歩み続けるウネビの背後から音もなく襲い掛かかる。
だが、土門の身体は分断され、頭部、碗部まで完全に斬り放たれる。
ウネビノヒコは何もしていない。つと、背後のばらばらの遺体を見やり、
笑いながらまた、歩み始めた。
バルザックは剣を八双に構える。呼吸、眼差しに乱れはない。
両名の距離はあと五歩。
「何だ、奴の力は。」
霧丸は奥歯を噛む。
「霧丸、皆を遠ざけろ。斬撃の理屈がわからん。」
バルザックの声に霧丸は答え、忍び、回し手共に人の輪がおおきく広がった。
甲高い音と共に、ウネビの持つ刀が折れ、はじけ飛んだ。
回転しながら地に突き立つ。
ウネビは刀を見やる。折れた刀身が溶け始めている。柄を地に放り投げ、
舌打ちをもらした。
「ヤマトビトの剣か。使い物にならぬ。」
間髪を入れず、ミョウケンが射撃した。バルザックはそれを予知していたかのように斬撃を繰り出す。
「擂嵐」
ミョウケンの矢羽は緋色に輝き、空に流れる星のように四つに分かれた。
擂嵐の魁音撃はその四つ全てを破砕し、残り二撃がミョウケンの足元の土塀を斬り崩した。が、弥者の女の姿はすでに無い。
視線を戻すと、ウネビノヒコの姿もまた消えている。
「屋敷にむかったか。」
バルザックあたりを見回した。
捨てられた刀を拾う。熔解した刃を見つつ、迷いなく歩み始めた。
*
琿青を下げた悪兵衛がまっすぐ見上げながら、大階段を一歩上る。
その頭上には、煌めきながら中空で回転する短剣が六本。すでにスバルノミコトの「ハナニチョウ」が発動している。短剣は意思があるかのように切っ先を悪兵衛に向け、殺到した。
「野火」
仁悟朗の怒号と共に衝撃と破壊の暴風が横薙ぎに払われる。昇る悪兵衛の二歩前を魁音撃が掃討した。飛来した銀剣はその爆風に払われるように軌道が
ぶれる。
連続する衝撃の火柱を搔い潜り、浪人者が身体を丸めて突入してくる。
その半身は銀の膜で覆われたように変色し、人型の鉄塊のような姿をしている。悪兵衛はその脇をすり抜けるように破双で飛び出した。
右から左に薙ぎ、「野火」を発動させた仁悟朗は、返す刀を突入してきた者の首筋に叩き入れた。
重い金属音と共に、魁音刀、扇田は男の掌で受け止められる。その手は鈍い鉄色に光り、さらさらと鉄粉が流れ落ちる。
仁悟朗は躊躇なく刀を手放し、左拳を男の脇腹につけ入れた。刀を受け止めた鉄腕が消失し、腹に鉄粉が集結、仁悟朗の拳を防ぐ。またも金属音が
鳴り響く。
移動する鉄甲で、魁音撃を含む仁悟朗の攻撃を全て防いだ男、ベイノノナはうっすらと笑った。
仁悟朗は士魂の昂ぶりと共に気合声を発する。鉄と化した腹部に接触している拳が振動する。表面を覆った装甲の内部で、拳を中心に強烈な回転が生じている。ベイノノナの腹部はその旋回に巻き込まれ粉々に分解すると共に、体外に血液が噴き上がった。
鉄塊が落下し、砂に戻る。弥者の腹部は脇を中心に消失している。それを自ら見、膝を着き、倒れた。
「鉄造のはらわた、返してもらったぞ。」
野火の衝撃の反魂に全身を苛まれながら飛び上がった悪兵衛は無心であった。
頭上に構えた琿青に士魂が充溢する。
視線の先はスバルノミコト一人である。前方に橙の炎が爆発し、悪兵衛の全身を覆った。スバルの前に進み出たミクリノヒメの渾身の攻撃であった。
「旭光」
悪兵衛の裂帛の気合と共に撃ち上がった爆壁を中心に、燃え上がる炎が回転し、その光に浸食されるように消失する。
眼前で炸裂した死の閃光にミクリノヒメの上半身が分解され、吹き飛ぶ。
その先に崩れ落ち斃れるベイノノナの姿を、弥者の将軍は見た。
スバルノミコトの全身から激怒の衝動が噴き上がった。
爆風に翻弄され、旭光で天井まで回転しながら打ち上げられた銀剣と、全く別の挙動でスバルの剣が飛来する。それは旭光を発動した直後の悪兵衛を狙い、一直線に射出された物であった。
閃く凶刃を、飛び出した仁悟朗が受けた。
胸の中心近くに深々と突き刺さっている。
十二
「仁悟。」
刃を胸に突き立てた朋友の姿を、信じられない物を見るように悪兵衛が呟いた。湾曲した銀剣は、自らの意思があるかの様に徐々に埋まっていく。
仁悟朗は素手でその刃を握り、歯を食いしばった。
スバルノミコトは、白く小さな手首を残して消失したミクリノヒメと、倒れ動かないベイノノナを交互にみやり、目をつぶった。
ゆっくりと目を見開くと、仁悟朗の胸の剣が振動し、体内で心臓にまで刃が達する。
「ななつ星。闇を見たな。死の闇を。」
仁悟朗が絶叫した。
「俺は生を見た。燃え尽きぬ明日の炎を。」
仁悟朗は振り向いて悪兵衛の瞳を見つめた。いつもの頼もしい笑顔だった。
「われら、勝てり。人間、勝てり。」
仁悟朗の言葉と共に刃が心臓を二つに断ち切る。仁悟朗はゆっくりと斃れ、大階段を落下した。
「仁悟朗」
悪兵衛が仁悟朗の身体を追う。
段上から見下ろすスバルを中心に刃が回転している。
その手元に仁悟朗を惨殺した剣が舞い戻る。
上階から現れたウネビノヒコは一瞥して現状を理解した。
「播磨、悪兵衛。」
悪兵衛を確認し、表情が変わる。
階段を駆け下りてスバルの後方に膝を着く。
「ミコト、烈火のワリビトとは剣を交えてはなりませぬ。」
「アシタ様よりの言伝です。」
無表情のスバルの周囲には旋風が巻き起こり、激怒と殺意の瘴気が渦巻いている。
「ミコト、どうか。」
ウネビに続き現れたミョウケンもスバルに叫ぶ。
「わたしが、仇をとります。」
目に涙を溜め、全身を瘧のように震わせながらアキラノヒコが言った。
スバルはその紅顔を見下ろす。
ふと、風が止んだ。
踵を返すスバル達の最後尾、ミョウケンノヒメが階段の足場に向かって弓を引く。炸裂音と共に矢が分裂し、踊り場とそれに続く段にふり注ぎ、粉々に破砕した。
母屋に入ったバルザックは、こと切れた仁悟朗と、その身体を抱く悪兵衛の姿を目撃し、全身が硬直した。
「仁悟、だめだ。」
悪兵衛が絶叫した。仁悟朗は答えない。
(貴様が斃れても尊級であれば俺は見捨てて討つぞ。)
仁悟朗の言葉を反芻する。悪兵衛は強くその身体を抱いて呻く。
「貴様、偽ったな」
バルザックが両ひざを着き、項垂れる。
「仁悟朗。」
バルザックの背後より、母屋に入った霧丸は、辺りを警戒しながら仁悟朗の
傍らにしゃがみこむ。胸の創傷は深く、一瞥して心の臓まで達している事が
わかった。
「葛之介。」
霧丸の言葉に反応し、蝦蟇のような百組の忍びが歩み寄る。
仁悟朗の胸に、吐瀉物を吐きかけた。
「何を。」
突然の出来事に、悪兵衛が叫び声をあげる。
「胸を、おさえろ」
しわがれた声で葛之介が呟く。
霧丸がバルザックに向き直る。
「本閥には士魂を体中に送り込み、直接打撃を与える技があるな。」
「
「深町大尉の心臓に施術しろ。早く行わねば蘇生できぬ。」
バルザックは立ち上がり、仁悟朗の胸元に両手を乗せた。悪兵衛が震えながら見つめる。
「任せろ。仁悟を生き返すのは二度目だ。」
桃乃介が母屋に入ったのは、仁悟朗の胸中にバルザックが何度目かの本中を施した時であった。
「がはっ。」
仁悟朗がせき込むように息を吹き返した。
かけよった桃乃介はのぞき込む。
「何があったの? 」
「仁悟朗が少しの間、死んでいたんだ。」
汗まみれのバルザックが笑顔を浮かべた。
悪兵衛はいまだ、仁悟朗を抱きかかえて真言を呟き祈っている。
*
荷馬車に横たわった仁悟朗の傍らに井上源三郎が着いている。
昏睡におちいった仁悟朗の命に別状はなかったが、急ぎ青洲術による医療が
必要であった。
朝焼けの宿場町の外れ、悪兵衛は荷馬車が消えるまで見送った。
傍らに立つ霧丸に向き直る。
「霧丸。」
「世話になった。かたじけない。」
深く頭を下げる。霧丸は一瞥してまた視線を街道の先に戻した。
「これも任務だ。」
「不知火の医療班が出張ってきている。すでに一つ先の宿場町に到着したと
報告を受けた。深町大尉はすぐに治療を受けられるだろう。」
朗報に悪兵衛は安堵した。が、すぐに聞き返す。
「医療班が屯所を離れて? 何故だ。」
「恐らくだが、
悪兵衛は不知火の同胞を思い、不吉な予感が胸を押す。
「御頭がいる。伊庭様が。」
バルザックが告げながら現れた。桃乃介も付き従っている。
「そうだな。御頭がいる。」
悪兵衛は不安を吹き払うように呟いた。
「丹組の皆は? 」
桃乃介が霧丸に問う。
「一座の女達を避難させ、丹組の者はすでに海上を移動している。」
霧丸の言葉に桃乃介は笑顔を見せ、胸をなでおろした。
海面が輝きはじめ、家々が朝日に浮かび上がって見える。
似鳥、船蜜、紗世は百組の者達と船上にあった。
「そういえば、地頭のやつ。弥者に燃やされて炭になっていたって。」
船蜜がいたずらな笑顔で言った。
「じゃあ、あの女弥者が。」
「たぶんね。」
似鳥がおおきく舌打ちをした。
「あの変態親父、お役目が終わったら私が殺そうと思っていたのに。」
「姉さん、怖い。」
船蜜の言葉に笑う紗世の髪が、海風にそよぐ。
離れ行く宿場町を見つめながら、悪兵衛の黒い瞳を思い出している。
十三
「バルザックに聞いたのだが、似鳥は朧丸の武術の師匠なのか。」
漁師小屋を引き払い、旅の武芸者姿の悪兵衛が傍らの霧丸に問う。
霧丸も菅傘に陣羽織の姿になっている。
「そうだ。」
「では、俺も武術の手ほどきが受けられるか。やられたのが口惜しい。」
霧丸は弟と同年の侍の横顔をすこし眺めた。
「頼めば、可能であろう。」
「そうか。やはり女性だけの丹組といえど、隠密の武術が。」
拳を握り、朧丸の動きを反芻しているらしい悪兵衛の顔を、霧丸はもう一度見た。
「少佐は思い違いをしているようだ。」
「丹組は、男女混成の部隊である。」
「此度の任務も、だ。」
悪兵衛は霧丸の言葉を訝しむ。
「紗世は男性だ。気付かれなかったようだが。」
悪兵衛は霧丸の言葉に呆然とし、立ち止まってしまう。
「あたし知ってた。一緒にお風呂入ったもん。」
「ま、どっちでも構わないさあ。」
バルザックと桃乃介の気楽な言葉も、悪兵衛の耳に入らない。
霧丸が初めて、笑顔を見せた。
*
「悪兵衛、聞こえるか。」
街道筋を北上する悪兵衛の脳内に、途切れ途切れの宗波が伝わった。
「美浪か。聞こえるぞ。」
「須鶯宿での任務は。」
「完了した。仁悟朗が負傷、現在三名で幡殖宿に向かっている。」
「承った。俺は宗波の届く限界の距離まで南下してきている。そちらからの距離は約四里だ。」
「幡殖はどうなっている。」
「合流し、詳しく話す。」
「大規模な戦闘が起こったのではと陰足に聞いたぞ。」
バルザックが問い返す。
「そうだ。玄嶽、環太積ともに多数の被害が出た。」
「不知火は。」
「潰走している。故に直接宿場町ではなく、途中地点で合流を目指している。
おれは急ぎ宗波を送る為に単独で迎えにきた。」
悪兵衛達は美浪の報告に愕然としている。
「美浪、不知火の死傷者は。」
「玄真殿が……さらに……」
山間に入ったせいなのか、宗波が途切れ言葉が伝わらない。やがて完全に沈黙した。
三名は立ち止まり、顔を見合わせた。
「潰走だと? 」
「不知火が負けたの? 」
両名が不安に耐えられず言葉を発した。
悪兵衛は強く噛みしめ、拳を握る。
雪の残る木立の先、白い息の先に街道が続く。
戦場が待っている。
奔流 了
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