閑話 六
色づき始めた楓の葉に雨が落ちる。
静かな午後、天源先生の訓話を聞きながら、玉杉桔梗は
手習い所の斜迎えに位置する、医療班の診療所を見つめる。
内偵より戻った悪兵衛の治療が行われているはずだった。
不知火医療班主任、
てきぱきと動き回る。その傍らには深く眠りにつく悪兵衛。
清楚で知的な雰囲気の園枝だがその笑顔は暖かく、隊士達から全幅の
信頼を置かれている優れた医師であり、青洲術の研究者でもある。
士魂の注入により全身を麻痺、意識を失なわせ、
確立されてから久しい。
園枝はその技術の第一人者で、数々の命を救ってきた。
治療室の外に現れた風祭の姿を認め、園枝は頭巾をとりながら、自室に
風祭を伴い移る。
「士道君の創傷は応急処置が良かった。炎症も起きてないし、浸出液も
少ない。本人にもいったけど後一週間ね。」
「問題は悪兵衛君だけど」
「どうなの?」
「切開して月旦抜きの施術をした。あんな事初めて。」
「後少し治療が遅れていたら、士魂の流入に神経も骨髄もその圧迫に耐えられなかったと思う。自己融解が始まっていたね。」
園枝の言葉に風祭は絶句している。
「
「…いや、本人は無自覚なまま行ったようだ。」
「そう。あれは侍というより…。」
「ま、いいか。どう?今夜あたり。」
「うん。いいな。」
園枝の報告により、風祭は安心した笑顔を見せる。
二人は立場は違えど、同期入隊の戦友であった。
*
柵明荘に悪兵衛が戻った。右腕は包帯でぐるぐる巻きだが、肩をまわして
満足そうに笑う。足元にはリンドウが走り回り、何度も腰まで飛び上がる。
三和土の勝手口が広い石段になっており、そこに隊士は座り、談話する
社交場になっている。
「仁悟朗に聞いたよ。腕、もういいの?」
奥から刀袋を背負ったバルザックが現れた。腕を吊った悪兵衛の様相を
予め聞いていたので、いまの姿に驚いている。
「うむ。園枝さんの施術で痛みも収まった。あとは縫い傷だけだ。」
「悪兵衛はほんとに丈夫だねえ。」
バルザックは笑いながら石段に腰かける。リンドウが嗅ぎまわり、
大きな手で撫でられている。
「あ、そうだ。婆さまは今晩いないんだよ。」
「どうしたんだ?」
「詩吟の会合らしいよ。」
「それで飯抜きか!ひどいもんだ。」
後藤の婆さまのあまり上手くもない詩吟を思い出し、二人は苦笑した。
「悪兵衛、戻ったか。」
仁悟朗が心配顔で三和土から出てきたが、腕も吊らずに肩をまわす
悪兵衛を見て、目を丸くしている。
「園枝さんか?」
「そうだ。小さな縫い傷が三つしかないぞ。」
「さすがだ。…それはそうと今日は飯が無い。」
「どうだ、今夜あたり。」
「お、いくか。」
「いいね、僕は久しぶりだ。」
*
雨があがり、星が瞬いている。
屯所からすぐの明日香街道から一本路地に入った処。
「
質素だが広めな店で、不知火の溜まり場になっている。
師団である不知火には直接戦場で戦う隊士以外にも、兵站部と
よばれる様々な部署が存在し、その総数は二百名に達する。
医療、随獣、総務等、その業務は多岐にわたるが、
そこに従事する者が立ち寄るのがこの「応召ぶくろ」であった。
小上がりでは悪兵衛と仁悟朗、バルザック、美浪が鍋を囲む。
鶏腿のぶつ切りと白菜、しめじ、人参、油揚げが
たっぷりと入った鍋が湯気をあげている。あっさりとした
具を生姜醤油で食べる、鶏の水炊きが応召ぶくろの名物の一つだった。
仁悟朗と士道の内偵での失敗談でひとしきり笑い、悪兵衛以外は
冷酒を煽る。鍋の煮えるまでの間、別に頼んだ焼きおにぎりが運ばれる。
気のいい老夫婦が営むこの店のすっかり常連の顔になっていた。
「士道はどうした?」
醤油の焼けた香ばしい焼きおにぎりを頬張りながら、悪兵衛は尋ねる。
「それがの、園枝さんから痛みは少なく時間がかかる治療と、
痛みは強いが治りが早い治療どちらがいいか聞かれて…」
「士道ならば治りが早い方を選ぶだろうな。」
「その通り。余りにも痛みがひどくて熱が出て寝込んでおる。」
ばかだなあ、と美浪は笑いながら焼きおにぎりをぱくぱくと口に放り込む。
すでに皿は空になっている。皆、美浪から自分の皿を遠ざけた。
「うまい。たまらぬ。」
仁悟朗がお猪口の酒を飲み干し、目をつぶって顔をしかめる。
「酒は五日ぶりだ。」
「仁悟は怪我をしていないのに、酒を我慢してたの?」
バルザックが徳利から酒を注ぐ。
「かたじけない。いや…先ほど話した「当て矢」での失敗を副長に咎められてな。
帰りの道中と戻ってからも禁酒を言い渡されていた。」
「そうか。それは旨く感じるわけだね。禁酒は風祭殿に解かれたの?」
「いやぁ、屯所に戻ればそれは解禁であろう。」
「御免。邪魔をする。」
板戸を開けて、風祭と園枝が応召ぶくろに現れた。仁悟朗は酒を吹く。
急いで徳利と猪口を美浪におしつけ、悪兵衛の湯呑を持って茶を飲む。
小声で急かす。
「美浪、はよ飲みほしてくれ。」
「仁悟の好きなどぶろくは苦手なんだよなあ。」
「仁悟、俺のお茶を返せ。おにぎりがのどに詰まる。」
死をも恐れない隊士がばたばたと騒いでいる。
園枝が楽し気に微笑んでいる。
風祭は隊士の様子を見てみない振りを続け、一口熱燗を飲み込んだ。
応召ぶくろの提灯の火が消えるまで、笑い声が絶えることはなかった。
閑話 六 了
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