暮相の海
序
強い日光に塀の影が濃く落ちている。
クマゼミの騒々しい鳴声が響く。
不知火屯所、作議の間には重苦しい雰囲気が流れている。
「旗本が弥者帰りとな」
不知火隊長、伊庭辰之進が口を開いた。
作議に参加しているのは副長、織田刑部、風祭玲。
また技研の松橋中佐、御津菱の竜井研究主任である。
「中将のお耳にはいずれ入る事と思いますが。」
「事が重大故、緘口令が敷かれています。」
「何故、松橋中佐が?」
「実は、技研で開発中の新型魁音兵装に関しまして、件の旗本、
本橋一成様にご協力をいただいておりました。」
「詳しく申しますと、兵装の実施の為、選抜した兵士の身の回りの
世話をお任せしていたのです。」
竜井主任がごくり、と喉を鳴らして煎茶を飲み干し、口を開く。
「お偉方でも技研とうちに理解あるお方でして。」
幕閣のうち、武官である本閥の指揮官四名と日の本軍主将は主戦派、
それ以外の文官は和平派で日々均衡を保っている。将軍直属の旗本で
ある本橋は文官ではあったが、本閥、特に技研には協力的であった。
「その本橋が弥者に。」
「詳しくは調査中ですが。」
「弥者帰りの際、犠牲が出まして。本橋さまのご内儀、ご子息が
亡くなられました。」
沈鬱な表情の不知火首脳。
「弥者帰りをした本橋様は、お屋敷に併設された社付近で消息を
断たれたそうです。またその際、七つ星が現れた、と。」
目を閉じていた刑部が顔をあげる。
「技研の新型魁音兵装にその原因があるように思われます。」
作議の間が凍り付いたようであった。
暮相の海
一
不知火屯所より西に半日、
不知火遠征である為、扮装ではなく隊服である陣羽織に丁服、小袴姿である。
夏の日に煌めく湾を見ながら、大きく伸びをした。
馬車に揺られ続け、身体が固まっている。
「ずーっと寝ちゃったよ。」
大柄な異人が悪兵衛に続く。ルートヴィヒ・フォン・バルザック中佐は
幼少時に来日し、その才を認められ侍となった。年は二十七で悪兵衛の
十上になる。朗らかで剽軽な人柄で、その実力は隊での信任も厚い。
馬車を降りた今一人は間宮桃乃介中尉、年は悪兵衛と同じだが一期上に
なる。この三名が視察に選ばれたという事は恐らく調査ではなく、
殲滅戦になる覚悟を悪兵衛はしていた。
「少佐、迎えがきております。」
連絡を受けた悪兵衛がバルザック、桃に声をかけ港に向かう。
停泊している中型の輸送船前、乗組員の長に悪兵衛は敬礼をする。
眼鏡をかけた男は悪兵衛達の姿をみとめ、鋭い眼光でみつめる。
「不知火、播磨悪兵衛少佐以下三名、着任いたしました。」
「
敬礼を返した男は、陣羽織に詰襟の
軍服に身を固めている。
波濤鎮守真軍、環太積。本閥四軍中の一軍団であり、制海権、海上からの
侵攻、本閥の物資の流通を一手に請け負う。不知火隊士の輸送という点で結びつきの深い両軍であった。
輜重隊の物資が中型輸送船「まくべつ」に次々に詰め込まれる。
悪兵衛はその様子をみながら灰音の言葉を思い出していた。
「新型魁音兵装?」
「はい。試験段階に入りました。またその装備を使役する者は特殊な
魁音撃を扱う者に限定される事になります。」
「章さんに渡した橘川兄弟の破双の記録は。」
「技研より報告を受けましたが、どうも通常の破双の能力とは意味あいが
違うようです。もちろん、橘川兄弟の見極めは侍として充分以上の能力ですが。」
「どういう意味なんだ?」
「原理的には破双と同じですが、その上をいく異能の能力の者を技研は
必要としていたようです。」
「それは?」
「私にも具体的にはわかりません。ですが不知火隊士にはその能力を
持つ者はいない、という結論でした。」
「これは士魂や戦闘力云々の話ではなく、純粋にその才があるかどうかです。
ですから新卒の人間も何人か選抜されたそうです。」
「異能のちから。」
灰音の言葉を反芻しながら、悪兵衛は不吉な予感を感じている。
*
船上の悪兵衛は保永大尉より報告を受けている。
左手には切立った崖の沿岸が続き、穏やかな洋上を輸送船は進む。
「大迫海岸にて、異常な八百万の乱れを察知、調査を進めております。」
「八百万の乱れをどのように調べるのか?」
「随獣より報告を受けます。近隣の海獣が異変を知らせます。」
「ヰ
バルザックは興味津々な様子で聞いた。
「おります。久世。」
保永の声に答え、海中から侍が姿を現す。
なにがしかの生物の背に鞍をつけ、操っている。
その速度は輸送船の比ではなく、滑るように移動している。
「ヰ朗歌をお見せしろ。」
久世と呼ばれた若い士官は一度海中に潜り、海上に勢いよく飛びあがった。
鯱と龍が混ざり合ったような流線形の海獣の姿を現し、飛沫をあげて
海中に潜る。三名は息を飲んでその姿を見つめた。
「保永殿、ヰ朗歌との意思疎通は不知火で行えるものでありますか。」
「不可能です。少佐。彼らは他の随獣と異なり、環太積隊士にしか
心を開きませぬ。」
「心得た。」
悪兵衛は調査というより、随獣としての魅力をヰ朗歌に感じている。
これはリンドウと交流するようになってからの気持ちの変化であった。
しかし今は、それを使役していた久世と呼ばれた士官の事で頭が
一杯になっている。
二時間程の移動の後、目的地の海岸に到着。装備品の上げ下ろしが行われ
輜重隊が荷車に積んでいく。近隣の宿場町近くの漁師屋敷を基地とする
手筈になっている。
荷物の上げ下ろしを手伝いつつ、目録をバルザックと共に確認し、
顔を見合わせた。
「戦争だね」
「うむ。我らの選別からしてな。」
「悪の字。」
背後から声がかかる。先ほどヰ朗歌の手綱を取っていた
久世春之丞中尉であった。今は詰襟に陣羽織姿である。
「春之丞。」
悪兵衛は破顔し、久世と肩を組み合った。
久世は総髪に細身の体型で日に焼けた浅黒い肌、片目が
白く濁っている。
二人は「本閥選」と呼ばれる入隊試験を共に潜り抜けた同期であった。
「
「うむ。お前はすっかりヰ朗歌乗りになったの。」
「まだまだだ。」
日に輝く沖合を見ながら二人は語る。
「沿岸の警備はもとより、戦闘範囲がここ一年でかなり変わった。」
「弥者の侵攻が変わったのか」
「うむ。我らの裏をかくのは変わらぬのだが。」
「規模が拡大しつつある。侵攻も大胆だ。」
「春之丞、今次の作戦はどう聞いている?」
「不知火の輸送、支援、輜重隊とのつなぎだ。」
「大規模な戦闘が起こる事を想定された作戦だ。お主らは捨て駒かもしれん」
「それが不知火だ。」
「吶喊白兵集参か…。」
波間を見つめながら春之丞は声を潜めて言った。
「現地で調査の結果を知らせてくれ。正規の手順でなくとも、支援する。」
「あいわかった。頼む、春之丞。」
二
小振りな漁村であり宿場町でもある
この地方を管轄する大居藩の兵長が連絡の繋ぎに待っており、そこで
近隣にすでに陣が形成されている事を知る。
「戦でありますか。」
「本日よりの調査次第である。」
不安げな表情の初老の兵長に言葉を返し、悪兵衛は沈思黙考する。
八百万の乱れという漠然とした問題に対し、大規模戦闘向きな
内偵の隊士の選定。事前に大居藩との連携をしての戦闘準備。
桃乃介の声で我に返る。
「でておいで」
装備品のひとつ、竹籠を開くと中から黒い毛玉のようないきものが
恐る恐る出てくる。
「タケルじゃない。」
籠から出たタケルは土間の匂いを嗅ぎまわっている。
「目録には戦闘補助兵器と書いてあったよ?」
バルザックが笑いながらもう一度確認する。
「合ってるよ。訓練で任務に随行させんだ。」
「こいつはまだ幼獣ではないか。」
悪兵衛が呆れ顔で土間に降りる。タケルは歯をむき出して吠えた。
「大人って、お前はこどもだというに。」
「戦うの?僕たちと一緒に?やめたほうがいいと思うなあ。」
笑いながら話す隊士にタケルはきゃんきゃんと答える。
「無理いわないの。今回は訓練なんだからね。」
頭があがらない桃にくぎをさされて、タケルは唸り声をあげている。
「生意気なこといいおって。」
聞かん坊のタケルに三人の笑い声が溢れた。
「大居藩兵長の三上殿に伺ったのだが。」
「村に何度か狗族が出現し、村民で撃退したという。ここひと月で
三度程あったそうな。」
囲炉裏に火をいれて明日以降の予定を語る。
日も落ちて、涼しい海風が吹き抜ける。波音が絶えず聞こえている。
「作戦要綱では、まずその襲撃の見極めとあったね。」
「うむ。詳しい話を明日村長に聞こうと思う。そこで何だが」
「地里江村…異人居住地とある。」
「僕が選ばれたのは通訳としてという事だったね。」
「そのように刑部殿も仰られていた。」
「バルザック、故郷の言葉覚えてるの?」
「うーん、どうだろうね。」
三人の会話をタケルも訳知り顔で聞いている。
「お風呂そろそろじゃない?」
「腹も減ったな。」
「あたし最初入るから。」
それぞれ用意をして屋敷を出る。
裏手は海に面した砂浜になっており、衝立の陰に井戸と湯気をあげる
大桶がある。五右衛門風呂である。
桃がいそいそと風呂に向かい、悪兵衛とバルザックは海へ。
流木に提灯を下げてたてかけ、用意してあった焚火の周りに
茣蓙を引く。鍋掛に吊るされた里釜に井戸水を張る。
夜の海は明るい満月を映している。
タケルは茣蓙の匂いを嗅ぎ、忙しく走り回っている。
バルザックは湯煎した土瓶からお猪口に酒を注ぎ、ごくり、と飲み込んだ。
「うーん、すきっぱらにこたえるね。」
「悪兵衛も飲む?」
「未成年だ。いかん。」
「だよねえ。」
煮え立つ鍋に具材をいれていく。バルザックは
手元で器用に小振りな庖丁を揮う。
「僕の国では十六からお酒は飲めたよ。」
「日の本に来たのが八つの頃。伊庭様にお酒飲ませてもらったね。」
「いかんではないか。」
波音に二人の笑い声が混じる。
笹に包まれた大きなつみいれを湯気を上げる鍋にいれていく。
地元の人間より譲り受けた地魚製の物である。
「いい匂いするよ!鍋出来てるの?」
衝立の陰から桃が大声でいってよこす。
「つみれ鍋だよー。」
「食べるの待っててよ」
「タケルが野菜を勝手に食べてるぞ」
「もー!」
白菜にかみつくタケルを引き離す。
やがて、桃が浴衣を着てあらわれ遅い夕食についた。
白身の魚を使った地元のつみれは見た目に反して上品な香りと
味で、暖かい塩味の汁は海風にすこし冷えた身体に心地よい。
バルザックの酒が進んでいる。
「僕の国では士魂を使うものは少ない。英雄や物語の中の人物だけだ。」
「それに使うとすれば…」
そこまで話し、バルザックは口をつぐむ。両手を突き出して士魂を練り
片手を勢いよく引き抜く。うち捨てられた流木が手元に引き寄せられた。
それを焚火にくべる。
「悪兵衛はどれくらいの重さの物ができる?」
「俺は刀二本までなら」
「あたしは一本だな。」
「あの埋まっている錨はどうだい?」
少し先に釣り船が浜に揚がっており、舫っている錆びた錨が砂に
半分ほど埋もれている。
三人はそれぞれ「網打ち」を試すが錨はわずかに振動する程で
移動するまでには至らなかった。
「無理だな。網打ちは本人の膂力に比例するというが。」
「あれは僕も無理だね。」
「でもね」
「本当は網打ちは力は関係ないんだ。わかりやすくそういわれているだけさ」
その言葉を二人は不思議に思った。
バルザックは沖を見つめて猪口の酒を飲みほした。
「人は、飽和破常力を使うことが出来ると思うかい?」
「破常力は弥者特有の力ではないのか?」
「僕は、弥者も侍も揮う力の源はおんなじだと思う。」
「魁音撃は狗族と弥者を屠る為の力じゃん。」
「侍はそう考えているだけだ。」
「僕の国では、網打ちの力の原理を利用して、士魂を持たなくとも使役出来る技術にした人たちがいる。遠く離れた場所に網打ちするんだ。」
「それは今の僕らが見たら破常力に近いと思う。」
「網打ちの原理を使う?何を引っ張るんだ?」
「心の力を。力は人を護るんだ。」
すこし酔ったバルザックの物言いに悪兵衛は不思議な感慨に囚われている。
「面白いな。西洋人は。」
タケルが焚火の炎に温められて半分目をとじてお座りしているが
ふらふらと揺れて時々桃のすねに頭をこすっている。
桃はタケルを抱きかかえ、屋敷に連れて行った。
「クラックス」
寝ころんだバルザックは両肩を順に抑え、額に拳を当てながら
小声で呟いた。
「日の本は遠すぎて言葉も、意思も、送る事は出来ないよ。」
「心の力を呼ぶためにどうしたらいいんだ?」
「力を呼ぶために…星空と契約するんだ。」
酔って寝ぼけながらバルザックは言った。
三
翌朝、三名は不知火の陣羽織に身を包み、
迎えた名主以下、異人ばかりで、覚束ない日の本の言葉で
挨拶を交わす。赤ら顔の大男が多く、バルザックが目立たない
程の体格の良さで、ほとんどが漁師であった。
遠洋漁業を営み、この地に移り住んだという事である。
バルザックは自国語で何事か言葉を交わす。
村人も返すが、お互いに首を捻り、噛みあわない。
「だめだ、半分も伝わらない。これなら日の本の言葉の方がましだね。」
「仕方ない。じゃあ身振り手振りでやってみよう。」
寡黙な悪兵衛や大げさなバルザックに比べ、直観的で頭の回転が速い
桃がほとんど会話をする事になる。
名主とその使用人は片言ながら日の本の言葉を解し、やりとりを交わす事が
出来、午前中はすべて名主の屋敷での事情聴取となった。
村長であるイバンは初老であり、率直で飾り気のない物言い、
綺麗に剃り上げた頭に髭面の強面であった。
大まかな狗族の襲撃の様子、村の被害、状況等見分し、
後は実地の調査に移る事になる。すでに時刻は昼を回っていた。
漁師たちの生活では、午後の遅い時間に就寝し深夜に起床する。
侍達は昼餉に迎えられた。
イバンの妻であるダリヤは赤毛の大柄な婦人で気さくで明るい。
自慢の料理を次々に卓に乗せていく。やがて他の漁師たちも
侍が珍しいらしく集まり、次第に賑やかな宴になっていった。
「豚の脂の塩漬け?」
ダリヤがニコニコと笑いながら説明してくれる。
パンと呼ばれる小麦を練って焼いた物にのせて食す事を身振りで
伝える。悪兵衛は躊躇なくかぶりついた。黒いパンの酸味と脂の甘味と
塩辛さが口中で溶け合い、初めてのその味に驚き、二口、三口と口に運ぶ。
桃も、恐る恐る食べ、笑顔になっている。
「ダリヤ、お前たち、子供近い、いっている。」
イバンの使用人である優し気な四十男のセルゲイより話を聞くと、
夫婦の息子は遠洋に漁に出ておりもう一年帰ってきておらず、
娘は現地で日の本の者と結婚したという。悪兵衛と桃は子供らを
思い出すとしきりに話している。
おおきな笑い声が起きる。バルザックが勧められたまま脂の塩漬けと
手持ちの器の蒸留酒を飲み干してむせている。
現地の漁師たちは、食前にそうするそうで、脂を口に放り込み
直後に酒を一気に呷る。
「ボートカ?ボートカ。こりゃ強い酒だなあ。」
バルザックは続けさまに三杯、飲んだ。
次いで木製の深皿にたっぷりと汁物が満たされ、配膳される。
よい香りの湯気があがり、中には骨付きの豚肉と芋や玉ねぎ等
野菜がたっぷりと入っている。大き目の匙が渡された。
悪兵衛が皿を掴み、持ち上げようとする。
「あー、器を持ち上げたり、すすったりするのは礼を欠く行為になるよ。」
頬を赤くしたバルザックが声をかける。
「そうなのか?」
「食事の内容と流儀は国元に近いよ。この匙を使って」
「手元から外側にむかってすくって音を立てずに飲むんだ。」
バルザックのしてみせる通り、悪兵衛と桃も汁を飲む。
「おいしい。食べた事ない味だけど。」
「この汁、真っ赤だぞ。」
ぎこちない二人の様子をダリヤがにこにこと笑いながら何か大きな声で
いっている。セルゲイが匙を置いて伝えた。
「ふたり、ここの家、子供なれ、ダリヤ言ってる。」
悪兵衛と桃は顔を見合わせた。
オゴォ、という声が口々に漏れる。
村の若者とバルザックが腕の太さを比べ、血管の走る二頭筋を
見せつけたバルザックが称賛を受けている。
机の上が片付けられ、腕相撲が始まる。若者をわけもなく捻り、
酒を勧められ、一息で飲み込み笑いが起きている。
「バルザック、もう顔真っ赤じゃん」
「あれは酒に目がないからな。」
悪兵衛は汁のお代わりをもらう。
大柄な漁師をバルザックが腕相撲で倒し、上半身裸になって騒ぐ。
村人たちは奥に座している物静かな男を口々に呼ぶ。
遠慮がちな男は引っ張り出されるように連れて来られた。バルザックと背丈は
同じ位だが一回りも身体が大きい。坊主頭の無表情な青年だった。
「ニカライ、村、一番」
セルゲイもやや興奮して伝える。バルザックは大きく息をして馬のように
胴震いした後、卓につき腕を出す。ニカライと呼ばれた青年も座り、
バルザックの手を握った。
力のこもった腕相撲がはじまった。村人たちは大声で盛り上がる。
歯を食いしばり、全身の力を込めて挑むバルザック、無表情だが額に
ふとい血管の筋を見せて受けるニカライ。やがてバルザックの腕が
倒され、歓声が沸き上がる。
「強いよ。腕が痛いや。」
腕をさすり、しかめ面をしながらバルザックが戻ってくる。
「怪我でもしたら報告書だからね。」
「え、してないよ。大丈夫。はははは」
桃に睨まれて陽気に笑う。セルゲイが村人の言葉をバルザックに伝えている。
「僕より強い男?いるよ。彼だ。」
バルザックが悪兵衛を指してセルゲイに伝える。その言葉を聞いた村人から
どっと笑い声が起きた。口々に囃したてる。
悪兵衛はその雰囲気を感じ取り、表情を変えて匙を置いた。
ニカライはじっと悪兵衛を見つめている。
悪兵衛はにやりと笑い、席を立った。
が、ダリヤに抱きしめられ、振り回される。ダリヤが大声で男たちを
非難しているようだ。名主のイバンはうつらうつらと寝入っている。
おおきな夫人の身体に幼児のように抱きかかえられて悪兵衛は
拍子抜けした。バルザックも桃も笑っている。
叱責された漁師たちはみなばつが悪い表情、ダリヤはまだ怒り声を上げている。
*
午後に入り、セルゲイの案内で狗族の襲来した場所を周る。
その時々の状況を聞き、桃は小まめに手帳に書き記している。
バルザックは酔いが回り、ふらふらとして時々悪兵衛に肩を貸してもらう。
実際に戦った村人に話しを聞きたいとセルゲイに伝え、明日の午前中の繋ぎを
頼んで屋敷に戻った。日が暮れかけている。
留守番をしていたタケルが大喜びで跳ねまわっている中、
桃は報告書の作成、悪兵衛は火をおこして簡易な食事の用意をする。
バルザックは横になって動かない。
「おい、おい。バルザック。だめだ。」
いびきをかいている大男を揺すったが、悪兵衛は諦めた。
「これじゃあ相談できないよ。」
「明日、村人と会う前に取り決めだ。」
おさんどんの格好で悪兵衛はため息をついた。
四
まだ昏い中、波の音と共に響く気合声で桃乃介は目覚めた。
足元にはタケルが丸まっている。
寝間着を着替え、裏の浜に出る。海風が強い。
悪兵衛とバルザックが木剣で打ち合っている。
互いに上半身裸で激しい剣戟を続ける。その体格の差は、獅子と狼の
ようであった。やや押され気味な悪兵衛が気合声と共に木剣を振った時、
おおきな破裂音と共に剣が粉々に砕けた。
二人は一度礼をして、何か大声で談笑している。
タケルも起きだしてきたが、まだ眠いとむずかっている。
おかゆに茄子と人参の糠漬けで朝餉をむかえる。
大酒を飲んでひっくり返っていたバルザックは事もなげに
粥を二杯も平らげた。
「
悪兵衛が報告書に目を通しながら言う。
「蟹のような鋏をもち、嘴があり、浮遊するとある。」
「小型の狗族だね。戦った事はあるかい?」
「ある。」
「あたしない。」
「特に危険な敵でもないよ。」
名主とセルゲイの説明ではそれが一度に三十から四十程の数で
村に襲来してきたという。
「ふつう、大型の狗族の露払いに現れるが。」
「今回は違うようだね。」
詳しくはわかっていない生態ではあるが、本閥で知られている
行動では、五匹程で現れ直後に大型の狗族を伴う。
酔っていないバルザックは高い知性を持つ男で、戦闘に関する記録を日々学び、様々な戦術の覚えもよい。
「単純に報告された編切りの数で、誘因される大型狗族を割り出して、
大掛かりな戦闘になると踏まれたのかな。」
「いや、刑部殿がそんな簡単に考えるわけないね。」
バルザックはすぐに自らの考えを否定した。二人は考え込んでいる。
「村人と面会で、実際の戦闘の様子を調査する。その上で情報を集める。」
悪兵衛の言葉に二人は頷いた。
セルゲイの繋ぎで、何人かの漁師と会い、戦闘時の話を聞いた。
怪我を負った者もいたが、死人は出ていない。家屋の損傷と切り傷が化膿した
事が一番の被害という具合であった。
村の中央には広場があり、猟師を引退した老人達が札遊びに高じている。
「どうらく?あれは道楽って遊びなの?」
偶然に一致した日の本の言葉で三人は笑う。子供たちがタケルを撫でまわし、
追いかけ合って遊んでいる。
集めた情報を吟味する。通常の編切りと行動は変わらず、
ただその数が多く、その後大型の狗族を誘因する事はなかった。
物理的な攻撃で叩き落していたという。
「群れで行動する種類がいるって事かな。」
「それで何度も村を襲撃するの?一般人に怪我を負わせる程度で。」
「バルザック、編切りは魁音撃に弱いか?」
「通常の斬撃で十分だよ。漁師だって銛でついているんだ。」
「いや、以前俺が戦った時は超自然の力が強い狗族に比べて、動物や
昆虫に近い感覚だった。ゆえに魁音撃に対して耐性を持つというべきか。」
「そうだね。弥者のように魁音撃で消滅する体組成ではないね。」
悪兵衛は身体の各部を吹き飛ばされながら、意にも介さず攻撃してきた
大百足を思い出している。
「では、死体が残るな。燃やしてでもいない限り。」
「百以上あるだろうね。」
「調べてみるか。」
「あたし、ダリヤさんの手伝いするから任せた!」
桃乃介は不吉な予感を感じていち早く逃げた。
*
午後、三人は村からほど近い日の本軍の宿営地に向かう。
崖下に広がるこじんまりとした地里江村を見ながら丘陵に見える
旗印を目指す。
「消えた?」
「うむ。すべて消滅したそうだ。」
「残った編切りは海に向かって逃げていったそうだよ。」
悪兵衛とバルザックは村人から不可解な情報を得ていた。
村人たちが討伐した編切りはすべて消えたという。またその状況も
魁音によって身体が崩壊するのではなく、まさに煙のように消えた。
「ダリヤさんに村の事は聞けたのか?」
「うん。風習や歴史を少し。後、漁師の約束事とか」
「編切りに関する事や狗族絡みは?」
「ないね。」
日の本軍、大居藩宿営地には簡易な兵舎が立てられ、五十名程の
兵士が駐屯している。率いているのは三上征之介少尉。
漁師屋敷にて、連絡を交わした初老の男で、痩せぎすで怯えた
表情をしている。
「死体の報告は受けておりませぬ。」
「兵士は戦闘に参加は?」
「しておりませぬ。我ら、編切りの出現後の大型狗族に備えておりましたゆえ」
「編切りといえど、数は多い。このままでは人死にが出るぞ。」
「はあ。そういわれましても。」
及び腰の三上兵長の受け答えに三人は顔を見合わせる。
地里江村から宿営地までの距離、およそ徒歩で半刻。護衛、迎撃の為には
初動が一歩遅れる微妙な位置である。
藩における狗族の討伐と、異人居留地とはいえ人々への思惑が透けて見える。
「今後の動向次第ですが、村に兵士を常駐させたほうがいいですね。」
バルザックが苦虫をかみつぶした表情で言う。
「連絡用に早馬は待機させております。それ以上の対応は藩で決めねば」
「私は中佐です。戦場となった場合、人員流動の指示権があります。」
「また今次作戦は幕僚から発している。すなわち不知火の指示は上意で
あります。」
「しかし」
バルザックの冷静で強い物言いに三上兵長はしどろもどろと対応している。
篝火の焚かれた陣幕内には三人と三上兵長、警護の兵が二人だがなんとも
弛緩した雰囲気であった。外には物見の兵が集まり、不知火隊士を一目
見ようとしている。
「そもそも、我が藩の要請により、本閥様のご出立と相成りましたわけで」
「何?大居藩よりだと。」
「左様でござります。編切り出現時、藩内部で戦闘に関する取りまとめをした結果ですね、事態を重く見た幕僚が」
「もうよい。」
悪兵衛は立ち上がる。三上兵長同様、及び腰の大居藩が公のものとして
本閥に調査を要請した。
つまり、幕僚の決定は異人居留地の警護や狗族の襲来への備えではなく
藩の保身の為という事である。
「どうにも好かぬ話だ。」
「大居藩は民草の為に兵を出したわけではないんだね。」
陣幕の外、悪兵衛とバルザックは語る。二人の表情は硬い。
すでに日は暮れ、海風が炎を揺らしている。
「どうする?悪兵衛。」
「報告を出して、村に兵の常駐を上から落としてもらうしかあるまい。」
「我らは編切りの行動の因果を掴まねば動きようがない。」
思い切りのいい悪兵衛の言葉に、バルザックが初めて歯を見せる。
二人をみつけた桃乃介が走り寄る。
「村に戻ろう。タケルが狗族の襲来を感知してる。」
五
鍛えた健脚と破双でわずか小半刻もかからず、村に戻る。
漁師屋敷の桃の居室の端にタケルがおびえて隠れていたが、
三名の帰宅と共に飛び出てくる。
「桃にだけ伝えたのか。」
「幼獣は複数に言霊を伝える程、八百万の力は強くないんだよ。
がんばったね、タケル。」
褒められたタケルは嬉しそうに跳ねまわっている。話しながらも三名は
足回り、腕回りの装備を固める。鎧を身に着けている時間はない。
村の外縁、狗族が襲来するとされる浜に向かう。
篝火が焚かれ、暮れた海にいくつもの灯が映る。
バルザックより話をうけた名主のイバンは就寝していた村の者達に
声をかけ、皆、手に銛や鍬、鉈を持ち寄り集まる。
屈強な海の男達とはいえ、三度の襲来で手傷を負った者も少なくない。
悪兵衛はその数と男達と観察し、狗族の襲来を待つ。
差した琿青はやや低い金属音を立て続けている。
やがて、海面に青白い光源が浮かび上がり、ふわふわと浮遊しながら
その数を増し、姿を現した。長い嘴に甲殻類のような鋏、昆虫のような胴に脚は無く、尾を振りながら接近する。狗族、編切りである。
人間よりやや小さく、ゆらゆらと空中を泳ぐように移動している。
悪兵衛は逸る村人を手で制し、声を上げる。
「間宮桃乃介中尉、狗族を単独にて殲滅せよ。」
「承った。」
あくまで冷静な二人の会話。バルザックは背に負った大剣には手も
触れず、腕組みをしている。
編切りの数が目視で三十を超えた頃、かがり火に照らされた一匹が
漁師に襲い掛かった。
「きやれ」
桃の鋭い声が飛ぶ。かすかな振動と共に漁師は手で押されたような圧を
感じて一歩下がった。編切りはその声に反応し身体を丸めて方向を変え、
桃を捕食するように鋏をもたげる。
戦技、言霊の使用方の一つで、あえて士魂を強く込めず表面に痺れを
与えるように放出する。これは狗族、弥者への挑発として非常に有効で
受けた個体の意識を一気に集中させる。桃乃介の得意とする戦技である。
「明、生、流、巌、心」
続けさまに桃は五芒を切りながら声を飛ばす。真言の中心句である。
三十を超える光源がすべて桃に集中する。囲まれて切り刻まれるかと村人
から悲鳴があがる。悪兵衛とバルザックは静かに桃乃介の背を見ている。
白い火花をあげて、桃乃介は魁音刀、
不知火正式採用魁音刀である馳駆紫は、白の拵えに麒麟の飾り柄頭、
細身ながら鏡のように輝く直刃の刀である。
「
正眼に構えた桃が叫ぶ。凝縮した士魂があたりの空気を吸収する。
悪兵衛とバルザックには、目視できる程の圧縮した士魂が
桃乃介の全身に満ちるのを感じている。瞳が白く輝き煙を上げた。
桃の網膜に多数の殺到する編切りと、その前に深紅に輝く光点が
いくつも浮かび上がった。その光点は大きく明滅し、次々と現れる。
光点がひと際大きくなったとき、桃はその位置に飛び込む。
飛びついて来た編切りの鋏を髪に掠る程の距離で避けた。
次の光点、また次の光点に身体を移動させる。
村人たちの目には、編切りの群れの攻撃が一切桃に触れる事もなく
すべて間一髪で躱されているように映る。
哨魁報撃斬、星巡はその名の通り自らに向けた殺意ある攻撃の位置を
「前もって」知る異能の力であった。
事実上、桃乃介は攻撃を受ける事はない。
桃の網膜に深紅の光点と共に、緑の光点が浮かび上がる。その明滅と共に
馳駆紫を走らせる。吸い寄せられるように編切りは斬られ、
真っ二つになった身体は落下した。
報撃とある通り、戦闘における攻撃対象点と共に迎撃開始点も
桃の網膜には映る。そこを目がけて刃を揮う。狗族はそこに自ら
斬られに吸い寄せられるように見える。
緑の光点で斬り、深紅の光点で体をいれかえる。
桃乃介の足元に編切りの死体が落ちる。その位置まで星巡は感知し
軽やかな足さばきで桃乃介は刃を揮う。
次々と編切りは数を減らし、やがて残りは三匹、沖へ向かって逃走を始めた。
「射刃」
桃の気合声と共に逃走しかかった編切りは全て斬られ、海中に落下する。
その斬撃の強度よりも、延長される攻撃範囲に重きを置いた桃乃介の射刃は、
すでに二十歩程離れた標的も易々と斬る事が出来る。
村人達は呆気にとられていたが、やがて歓声があがる。
その声を聞きつけた人々が恐る恐る家から現れ、家人を気遣い、
声をかける。喜びの声と共に侍達に感謝の言葉をかける。
バルザックは微笑みながら、桃乃介を村人の前に押し出す。
剣を鞘に納めた桃乃介は息も乱れていない。
「やはり、大型は現れなかったね。」
「うむ。」
悪兵衛は斬撃を受けた編切りの死体を見下ろしている。
切り口は薄い煙を上げながら細胞に対して若干の侵蝕がみられ、
青色の血液が砂に吸い込まれている。
やがて死体全体がゆっくりと透明になっていく。
「バルザック、見ろ。」
死体は煙だけを残して跡形も無くなった。砂浜に血痕のみが残る。
村人に持て囃される桃乃介をよそに、二人は顔を見合わせた。
六
屋敷の縁台でタケルがじっと浜を見つめている。
何かを目で追いながら不安げに歩き回り、立ち止まっては唸る。
三人は囲炉裏を囲み、ダリヤからわけてもらった大量の惣菜と、
黒いパンで夕食をとった。
感謝の意としてもらったボートカと呼ばれる蒸留酒をバルザックは何度も煽り、
顔から首筋まで赤くなっている。
悪兵衛は和え物を夢中でかき込んでいる。茹でた芋に鶏肉と人参、玉葱をいれ、
卵黄と酢と塩で和えたもので、甘味と酸味、食べごたえがたまらなく、
パン三枚と共に腹一杯になるまで食した。
桃は未だ警戒しているタケルを抱いて居間に戻る。
優しく撫でられて、ようやく落ち着きを取り戻した。
「タケル、どうしたの?」
桃に抱かれて落ち着いたタケルが鳴く。
「まだ、狗族がいる?空に?」
「みんな一つになってる?」
幼いタケルの言葉では全容はわからないが、悪兵衛と桃はうっすらと
その意図を汲んだ。
「死んだ狗族の思念が残留しているという事か?」
「タケルはそういってる」
「そんな事がありえるのか」
「バルザック。」
頼りになる男は、大口をあけていびきをかいている。
「おい、バルザック。おい」
「だめか。」
悪兵衛は早い段階で諦め、布団をかけてやった。
「複数の襲撃、環太積の報告、編切りの残留思念。これは異常な事態だ。」
「何が起きてるの?」
「現段階の情報では判断がつかん。章さんがいてくれれば。」
「悪兵衛はいつも灰音殿頼りだからダメなんだよ。」
「こいつが頼りにならんから仕方なかろう」
悪兵衛が指を刺したバルザックを見て桃は吹き出した。
「とにかく、報告書をまとめてくれ。明日大居藩の兵が見分にくる筈だから
俺はそちらむきの報告をまとめる。」
「わかった。」
桃は文机に向かい、報告をまとめる。一筆ごとに頭を捻り、唸る悪兵衛に
比べるとその筆に淀みが無い。
「桃、本部へと同じ文言で構わぬ。環太積宛にも頼む。」
「わかった。」
情報をまとめ、その報告を行う作業は深夜までかかった。
ひとり遊びをしていたタケルは囲炉裏の前で、桃をじっと見ながら
大きなあくびをしている。やがて部屋の隅に置かれた座布団の
周りを歩き回り、上に乗って匂いを嗅いで鳴いた。
「わかったわかった。そこがお前の陣地な。」
「うそをつけ。すぐ寝るくせに」
悪兵衛と口喧嘩をしている。ひと段落ついた桃は立ち上がり、
座布団に座るタケルを撫でて寝かしつける。
「ここでねんねするんだね?」
優しく桃に声をかけられ、暖かな人の手を感じながらタケルは目をつぶる。
報告書をまとめ上げた頃、屋敷を訪ねてきた繋ぎの者に書簡を渡した。
行商人の姿をしてはいるが、おそらく隠密である。
悪兵衛は居間に布団を敷く。桃乃介は疲労により動くことが出来ない。
星巡の士魂の消費による体力、精神力の減退であった。
桃は悪兵衛がひいた布団を奪い、寝入るタケルのもとに這う這うの体で
たどり着く。悪兵衛は仕方なく床の上に横になった。
「おい、戦闘補助兵器が腹だして寝てるぞ。」
タケルが白い腹をだして眠っている。脚をひくひくと動かしながらいびきを
かく。桃乃介は声もなく笑った。
「こやつ、やっぱり見張りなんかする気もないな。」
*
翌日、大居藩のつなぎの兵が昨夜の件を見分しに現れる。
戦闘の起きた浜を歩きながら、詳細を桃が伝えた。
「こちらの報告書には見分と共に常駐の兵の要請もいれたが。」
「左様でありますか。自分は調査のみの命令をうけまして。」
悪兵衛は腕を組み、沖を見つめる。いつ現れるかわからない狗族を
待ちながら調査が出来るのだろうか。出現の頻度や数、現在までの情報で
その襲来を現実的に予測できるのは灰音章雪や織田刑部等、参謀方の協力が
不可欠に思える。
「では、三上兵長にこのようにお伝え下さい。」
バルザックが微笑みながら進み出た。
「二十名、今すぐによこせ。でなければ命令不服従として手前を斬る。」
青い瞳に漲る力、全身から湧きおこる凶暴な圧力につなぎの兵は恐れ戦きながら、早馬で宿営地に帰って行った。
「昨日からこれでよかったね。」
馬を見送りながらバルザックは笑って言った。だが、本気で斬るつもりなのを
悪兵衛は感じている。
低く雲がたれこめ雨がしのつく。
漁師たちが桟橋から戻ってきている。引き回し網を担いだその表情は不漁を
物語っている。
「いるの?どこに?」
村はずれまで来てタケルが異変を訴えた。
居留している漁師屋敷と村を挟んだ反対の位置、最初の狗族の襲来地点を
見分している時であった。
砂浜はその先に切立った岩肌に遮られ、その向こうは岩礁になっている。
徒歩では進入は不可能であった。タケルはその先に狗族の遺念を感じ、
怯えながらも桃に伝えてきたのだった。
「この先には何が。」
「岩場と崖が続くよ。その先に流れ込む川がある。足ではいけないね。」
バルザックは言いながら悪兵衛に歩み寄る。
「悪兵衛、いいかい。赴任地の地形の情報が事前にある場合」
「それらはすべて頭に叩き込むんだ。有利に戦闘をすすめる条件だよ。」
「あいわかった。」
悪兵衛は引き締めた表情でバルザックの言葉を聞き入れる。
「岩場にお堂があるよ。」
桃がタケルを抱いて落ち着かせながら唐突に言った。
「お堂?」
「そう。ダリヤさんに聞いたんだ。年に一度だけ、年明けに村人皆で
詣でるって。」
「いくか。セルゲイに船を出してもらおう。」
「お前はイバンさんの家にいた方がいいな。」
悪兵衛に言われて、タケルは不服そうに鼻を鳴らし拒否した。
七
新年以外、決してお堂には近づかないというセルゲイをなんとか
説得し、小型の釣り船を出してもらう。
小降りになった雨の中、岸壁を迂回しその奥の切り立った岩場に
入っていく。複雑な岩礁が消波の役目をし、穏やかな海面である。
崖に挟まれるように洞窟が暗い穴を開けている。
船はゆっくりと中に入っていく。
洞穴内はやや広く天井の亀裂より光が差し、水滴が落ちる。
セルゲイが篝に火を入れると奥に簡素な堂が浮かび上がる。
木製の社の中、一抱え程の石像が祀られている。
優し気な女性の像であった。
タケルは怯えて、船から降りようとしない。
「この奥は?」
社の傍らに自然の隧道があり、波間に白い泡が浮かんでいる。
セルゲイは、村の者はこれ以上奥には決して行かないと言う。
悪兵衛は琿青を鞘ごと抜き、陣羽織と傘をその場に脱ぎ捨てる。
バルザックも丁服を脱ぎ、裸の上に剣を負った。
「桃乃介、一刻を過ぎて戻らなければセルゲイと共に待避、本部に
報告してくれ。」
「承った。」
いうなり悪兵衛とバルザックは躊躇なく飛び込んだ。
洞窟内の海水は身を切るような温度で、痺れと痛みが襲う。
暗黒の海面と低い天井の岩肌、奥にかすかにもれる光が見える。
全身奮い立たせるように波をかき分け、全力で泳ぐ。やがて社の洞窟とは
逆側に開けた場所が現れ、その天井から光が差している。
奥に洞窟が続き、うっすらと灯が燈されているような明るさを感じる。
かすかに明滅している。
ごつごつとした足場を確認しつつ奥に進む。
行燈の光のように感じていたのは洞窟内の岩石で、薄く黄色の光を
放つ。辺りがうっすらと視認できる程度の光量があった。
さらにその先に明かりが見える。
だがそこに行くまでに天井が低くなり、かがみながら、膝をついて、
やがて腹這いになって進まざるを得なくなった。
そうしていきついた先、二人の眼前に一抱え程の縦孔があり、
明滅する光が漏れだしている。
のぞき込んだ眼下は異様な光景であった。
落ちくぼんだ縦穴に民家程の大きさの球体の岩石があり、内側より
黄金色の光を発して明滅している。岩と岩の隙間から光が漏れだし、
その間に影が見える。巨大な胎児であった。
粘膜に包まれ、内部は発光する羊水で満たされている。青白い肌は
絶えず呼吸し、収縮している。生まれいずる時を待っているようであった。
悪兵衛とバルザックは絶句している。
*
海中より現れた二人は、がちがちと歯を合わせながら手早く
衣服に袖を通す。桃によって焚火がたかれていたが、その炎を見下ろす表情は
一様に蒼白であった。
「狗族の、繭がある。」
「かなりデカい奴だね。胎児の状態で三
「生きているの?」
「今、この時も成長しつつあるように見えた。」
桃は怯えるタケルをなだめて狗族の遺念の行方を聞き出していた。
浮遊する狗族はみな、洞窟の奥に吸われているという。
「狗族の魂を食って成長しているのかな。」
「死人使いは、動物の遺骸を食っていた。弥者はその為に村人に大量に獲物を
貢がせていた。同様に育つ狗族なのだとしたら。」
「いずれにせよ、あの足場と環境では討伐も捕獲も出来ないね。」
「監視はせねばなるまい。」
洞窟の出口が明るくなっている。雨があがり暮れかけた日に照らされている。
三名は今後を話し合い、一先ず村に戻る事にした。
揺れる小舟から離れ行く洞窟の暗黒を見つめる。ようやく編切りの因果が
見えてきたように思える。
「これは狗族の習性なのか。それとも拝殺の準備なのか。」
「記録ではこんな生態は見た事がないね。」
岸壁を迂回し、村が見えた頃に異変に気が付く。
あちこちで煙があがり、半鐘の音や怒号がかすかに聞こえる。
村は、狗族の襲撃に会っていた。
八
戦闘によっていくつかの家屋が破壊され、一部火が上がっていたが
編切りは大居藩の兵士と村人によって撃退された。
何名かは負傷し手当を受けているという。
兵士達の表情は戦勝の興奮と狗族への恐怖で高揚している。
兵長の三上少尉は同行していない。
兵を率いた若輩の今野曹長よりバルザックが戦闘の経緯を聞き、労っている。
襲撃した編切りの数は約四十。その殆どを打倒したという。
すでに死体は消失しあちこちに蒼黒い血痕が残るだけであった。
タケルはぶるぶると震え、桃の懐から出ようとしない。
「悪兵衛、タケルが」
「どうした?タケル。」
タケルの弱弱しい意思を感じ、三人の表情が変わった。
「そうか。この編切りの遺念を糧に奴が生まれるというのだな。」
「バルザック。」
「心得た。」
急ぎバルザックは兵士団に全員での出陣を要請する。
悪兵衛はイバンに事の成り行きを話し、村人の待避を促した。
老人と子供を中心に大居藩宿営地までの避難を指示する。
編切りの撃退に成功し沸いた村人達は、冷や水を浴びせられたように
恐怖の表情が浮かんでいる。
にわかに足元が揺れる。遠くで轟音が響く。
侍達は大型狗族の目覚めを直感した。
*
護法紋鉢金、戦陣羽織、鬼門甲に身を固め腕回り、足回りも完全な
装備の戦姿を整える。その間も絶えず微弱な振動が大地から断続的に
伝わる。
バルザックは十本以上の大身槍を鉄網と革帯でまとめている。
手甲で手元を固めた桃乃介が馳駆紫の刀身を確認し、鞘に納める。
低く、刀身が鳴り始めている。
茜色に染まる海と村、伸びる家屋の影、村人たちは一まとめになって
村の奥に移動しつつ、兵士たちが前面に展開している。
その向こう、海面に巨大な人影が立ち尽くしている。
夕日を背に受けたそれは、細見の裸の人型に見えるが、
肩部から腕が三本ずつ伸び、その顔は青年のように見える。
「超大型狗族。」
「阿修羅と呼ばれる奴のようだね。だが武器を持っていない。」
「生まれたばかりだからか。」
侍達に阿修羅と呼ばれた狗族はゆっくりと沖合から村に近づきつつある。
兵士達の怒号と村人の悲鳴が飛び交っている。
「遠隔攻撃を行う錫と、毒を撒く鈴、剣を持つとあったが」
「今はまだその能力は無さそうだね。」
悪兵衛とバルザックは狗族を記した報告書から記憶を呼び起こす。
「与し易しとは思うな。殲滅する。」
悪兵衛の言葉に二人がうなずいた直後、悲鳴が上がった。
村の奥側、崖上に通ずる門の前に、先ほどまで海上にいた
阿修羅が移動している。恐慌をきたしている村人をその手に掴み、
顔まで持ち上げると大きく口を開ける。端正な表情が歪み、顎部がずり下がって無数の歯が生えた口中を見せ、一瞬で村人を咀嚼した。
噛み潰された体液と血液がその唇の間から噴出する。
その間にも長く細い腕を振り回し、次々と村人を掴む。
海上に面して展開していた大居藩の兵達は、
海側を阿修羅を探し混乱している。
村の奥側に集まっていた村人達は我先に中央広場に向かって避難するが
その刹那、阿修羅の姿が薄く透明になっていき、やがて消える。
人々の集まる先を見越すように、透明から実体に変わり人々をさらい、
食らう。兵士達はようやく見失った阿修羅が村内に出現した事を感知し
集まりつつある。
「特殊な移動を行っている。」
「村人も、兵も逃さず殺すつもりだね。」
「桃、俺と全力で侵攻、言霊で奴を引く。」
「バルザック、空爆を頼む。」
「受けたまわった。」
「弾が尽きたら合流するよ。」
「よし。吶喊。」
*
阿修羅の胎児が生息していた西の岸壁上、村を一望できる岬に
二人の人影がある。
眼下の村では巨大な異形が蹂躙し、阿鼻叫喚の地獄絵図となっている。
人影は弥者であった。
「腰が引けたヤマトビトの兵士は残せ。惨状を伝えて貰わねばならぬ。」
ほくそ笑みながら観察するユウギリノヌシは、鮮やかな紫の壷装束に身を包み、その背後には町娘のような茶の縮緬姿で細表の娘が控える。
その額には鋭い角が伸び、瞳は緑色であった。
「バチノナリガミはどうじゃ?」
「腹が減っているようです。」
娘の弥者の報告を聞き、ユウギリノヌシは可笑しくてたまらぬ、という
表情をしている。娘は指先を絶えず蠢かせているが
阿修羅の動作とそれは巧妙に同調している。
「村人はすべて食え。子供は逃すな。その後海中に身を隠すがよい。」
「ヤマトビトの自業で鬼神を呼び出し滅ぼされるとは」
「あのお方のお考えは美しい。まるで楽曲のようじゃ。」
恍惚とした表情で夕日と血に染まる村の惨状を見つめる。
「アメノミカドの刻です。」
「最後まで見られぬのは残念じゃ。」
「お前もみずからの刻を見誤るなよ?」
ユウギリノヌシは娘の弥者に声をかけ、崖下に下る。
麓には六名の仮面の男達がユウギリノヌシを待つ。
ユウギリを見送った直後、娘の弥者の表情が凍り付き、
阿修羅をあやつる手元が震えはじめた。
九
イバンは大声をあげて老人達を非難させ、逃げ遅れた者に手を貸している。
その一瞬、胴回りを冷たくぬるぬると濡れた指が掴み、空中高く
持ち上げられた。阿修羅ががくん、と顎を開く。ダリヤの悲鳴が
あがった。
上空から飛来した光点が阿修羅の上腕に突き刺さり爆発が起きる。
イバンは投げだされた。
流星のように降下する光点は阿修羅に接触すると激しく爆発する。
地面に突き刺さったそれは、槍であった。
バルザックは村中央の阿修羅をみつめ、新たな大身槍を掴んだ。
一度その重量を確認するように振ってから、気合声と共に投げ打つ。
上空まであがったそれは魁音撃特有の青白い光を放ち、放物線を描いて
爆撃する。槍自体の重量を利用する魁音撃の空爆であった。
弓程の射程は無い物の、強力な攻撃力を誇る。
「狗族」
「吶喊白兵衆参、不知火である。」
「それ以上の蹂躙は許さぬ」
悪兵衛の大音声が響き、桃が戦旗を立てる。炎の紋章が燃え上がる。
言霊により全身を逆なでされた阿修羅は激昂し、悪兵衛に掴みかかる。
その手に体当たりするように突き進んだ悪兵衛の手元から青い火花があがり
一抱えもある阿修羅の指二本を斬り飛ばした。
悪兵衛と共に飛び出した桃乃介は阿修羅の足首、腱を狙って刃を走らせる。
阿修羅の表情が苦痛に歪み、足元の桃を三本の手で掴もうと蠢かせる。
「星巡」
桃の鋭い声があがり、十五の指先を軽やかに避け、なおも阿修羅の足首を
切り付ける。
大身槍を撃ち尽くしたバルザックは坂道を駈け下り、破双で板戸を突き破って
阿修羅の元へ肉迫する。地の底から吹き上がる轟音が起きた。
眼前に迫った阿修羅の半身に、噴火するように迫撃された輝く破壊の光弾が
直撃、ゆっくり倒れるのが見える。
「旭光。」
「悪兵衛、早くも仕留めたか。」
バルザックはにやりと笑い、さらに破双で飛び出した。
岬に立つ娘の弥者の表情が恐怖に戦き、震えている。
突如現れた侍が、手塩にかけて育て誕生した阿修羅を攻撃しているのだ。
「モガミ、いかがいたした。」
崖下より現れた屈強な仮面の男が声をかけ、眼下の光景を見て絶句する。
「ワリビトではないか」
「託宣にはこんな事は現れませんでした。」
モガミと呼ばれた娘の弥者は震えながら告げる。
「落ち着くがよい。バチノナリガミはワリビトこそ好餌とする。」
「ユウギリ様が去った今、我々で対処するのだ。」
仮面の男は腕を組み、じっと阿修羅と侍達の戦いを見つめている。
倒れた巨大な影がゆっくり立ち上がるのを見上げながら
バルザックは中央の広場に到着した。背に負った大剣を引き抜く。
赤い火花があがり長大な剣をぶるんと一回しする。小烏と呼ばれる
両刃の剣で打ち刀ではなく太刀に分類され、規格外に長大な剣であった。
刃の峰の四つの紋が描かれ、四ツ辻と呼ばれる専用の魁音刀である。
起き上がった阿修羅は呪詛の唸り声をあげながら足元の桃乃介に
掴みかかる。その腕、指、足首、そして旭光に吹き飛ばされた半身は
攻撃がなかったかのように、傷跡すら視認できない。
「どうなってる」
「治癒している」
「一旦離脱して」
三名は阿修羅より距離をとる。
「魁音撃は効く。だが破損した部位が数瞬で復活しているようだ」
「もう何度足を斬ったかわかんないよ。」
「治癒の前に殲滅する。吶喊。」
悪兵衛の声を合図に無言で三名は飛び出した。
足元の桃乃介に掴みかかり、星巡ですべて躱された阿修羅の眼前に
バルザックが立ち、士魂を凝縮させた太刀を八双に構える。
「
気合声と共に横一文字、逆一文字、左袈裟、右切り上げ、右袈裟、左切り上げを一息に振り抜く、六連斬りで発生した鋭い魁音撃が発生したその場に一瞬
停止し、すべて同時に阿修羅に殺到する。
阿修羅の右足は被弾と同時に強力な連続の斬撃に切り刻まれ、消失した。
断軌魁撃集と呼ばれる擂嵐は、バルザックのみ使役する事が出来る。
個別の攻撃力では旭光に並び、不知火最強と呼ばれていた。
右足を失った阿修羅はゆっくりと倒れ込む。
「旭光」
悪兵衛の怒号と共に、その頭部が爆壁の渦で吹き飛び消失した。
地響きを立てて阿修羅は倒れ込んだ。
悪兵衛、バルザック共に月旦抜きで刀身より溢れた士魂を抜く。
二人の剣は白煙を噴き上げる。その向こう、阿修羅は起き上がった。
頭部、右足はもとに戻っている。
「不死身か」
苦々しく悪兵衛は言った。
戦闘指示を行う役職である頭目。
悪兵衛は戦闘に参加した全ての隊士の魁音撃の残弾数を把握し、
流動する戦局の中で立ち回らねばならない。
魁音撃射出時に発言するのはその意味があった。
現在の全員の弾数を踏まえ、再度阿修羅から距離をとる。
バルザックの擂嵐は残弾二、桃乃介の星巡は五、そして旭光は一、である。
「桃、攪乱。バルザック、俺と東西に別れ、阿修羅の治癒を図る者を捜索。」
頷いた三名は離散した。
十
「死神といえど、消耗はするものだな。」
仮面の男は低い声で笑いながらいった。眼下では激しい戦闘が行われている。
「カミキリノナリムシの魂を半分、使いました。」
落ち着きを取り戻したモガミが震える声で告げる。
「奴らのワリヂカラは残りわずかと見える。」
瞬く光で仮面が照らされる。低く轟く音と共に旭光が炸裂した。
直後、六本の光の刃が阿修羅を貫くのが見えた。
「烈火のワリビトの力は三度までと聞く。今ので最後か。」
「ではソウケンノヌシ」
「うむ。我らの勝ち、だ。」
崖下より別の男がソウケンノヌシと呼ばれた弥者に声を掛ける。
「アメノミカドの刻だ。」
「しかし」
「モガミ、捨て置け。」
弥者達の影は岬から消えた。
*
星巡の間隙、消耗した桃乃介は足がもつれる。
眼前から透明になって姿を消した阿修羅がその背後に音もなく現れ、
その指で桃を捉えた。食うまでもなく、縊り殺すつもりで胴が締まる。
死を、覚悟した。
「擂嵐」
バルザック最後の魁音撃が阿修羅の腕を根元から破壊する。
白煙をあげて後ずさりする異形。だが一歩踏み出した時に
その腕は元に戻っている。
「治癒の力が強すぎる。遠隔での破常力とは思えない。」
荒い息をつきながらバルザックが叫んだ。悪兵衛も同様に感じている。
集合した侍達は町家に身を隠す。それぞれ疲労の色が濃い。
「星巡は、八百万の流れを目で見る。」
「それが攻め星と護り星となって伝えてくれる。」
「その時、みえた。」
蒼白な表情で桃が叫ぶ。
「何が見えたんだ。」
「空から、狗族の命が降って、阿修羅に吸い込まれてる」
腕が家屋を破壊しながら襲う。破双で飛びすさる三人。
「真言で士魂を高め、言霊にて阿修羅を引く。」
「環太積の援軍まで時を稼ぐ。我々にすでに攻撃手段はない。」
「バルザック。」
悪兵衛の声にバルザックはゆっくりと頷く。
「そうだね。奴の移動手段を考えれば撤退は無い。」
「たぶん、命を落とすけどそれで正しいよ。悪兵衛。」
「すまぬ。」
「君は頭目だ。立派に指示をした。そうだろう?桃乃介。」
桃はすこし笑って頷く。
悪兵衛は顔を上げて叫ぶ。
「散開」
漁師小屋からタケルが現れ、震えながら眼下を見下ろす。
侍達の怒号が遠く響く。桃乃介の悲痛な叫びをとらえ、
タケルの震えが止まった。
小さく唸りながら全身が総毛立ち、瞳が白く輝き燃え出す。
口元から白い稲妻が放電しはじめ、やがてそれは全身から溢れる。
強い光を発しながらタケルは声も無く吠えた。
視界がぼやけ、足元に力が入らない。琿青を握りしめ、
目をつぶり真言を反芻する。魁音撃を撃ち尽くし、戦闘時間が長引いた
いま、限界が訪れている。恐らく、士魂の貯蔵量の最も多い桃乃介は
体力の喪失と共に死亡、次いで剣戟を続けるも決定的な攻撃が出来ない
バルザックが死亡。その前後で自分と予想する。
村人の避難は終わり、大居藩の兵は丘陵まで待避してこちらを伺っている。
戦旗の炎の紋章を見、悪兵衛は満足げに笑った。
その瞬間、足元より白い焔が燃え上がり全身を包む感覚に襲われる。
体内に熱く、噴き上がるように士魂が充溢していく。
呼吸が整い、戦意が強く、強く湧き上がる。
悪兵衛の元にバルザックと桃乃介が集まる。不可解な表情をしている。
「残弾報告せよ。」
「擂嵐、一。」
「星巡、一。」
「旭光、一。」
瞳に力が宿り、悪兵衛は叫んだ。
「星巡にて攪乱後、腹部より頭部に垂直方向に攻撃、擂嵐で頭部破壊。」
その言葉をいうや否や、侍達を発見した阿修羅が現れ、凶暴な意思を持って
掴みかかる。
「星巡」
桃の声と共に悪兵衛とバルザックに向かった指を斬り飛ばし足元で
剣を揮う。星巡の最後の映像が網膜から失われる瞬間まで桃乃介は
刀を振るい、飛び上がって斬り上げた。
体液が噴出するなか、その背後よりバルザックが飛び上がり叫ぶ。
「擂嵐」
魁音による衝撃が腹から胸元まで着弾、頭部が吹き飛ぶ。
ゆらり、と阿修羅がゆらめき、一歩下がった。
「悪兵衛」
「悪兵衛!」
二人が叫ぶと同時に、悪兵衛は屋根から飛び上がり、
阿修羅の頭部のあった空間に剣を振り下ろす。
「旭光」
輝く爆壁が阿修羅の胸部を吹き飛ばしながら打上げられる。
狗族の魂の絶叫が木魂するように響く。
中空で渦のように集まる魂が消滅する光が発し、
衝撃の塊が上空まで打ち上がる途中もその死の光は
破裂し続けた。
阿修羅は家屋を破壊しながら倒れる。ぶるぶると痙攣しながら
上半身より黄色の体液を噴出している。
「勝てり。」
静かに悪兵衛は言った。
十一
「陽動の指示をした時、斬弾数はなかった筈だ。」
阿修羅の死体を大居藩の兵が見分しているのを見ながら
悪兵衛は二人に語る。
「戦闘中、士魂が溢れた瞬間があった。」
「僕も感じた。それで撃てたんだ。」
「あたしも。」
「なぜだ?」
しばし押し黙る三人。
やがて桃乃介が顔を上げる。目を大きく見開き、震えている。
「随獣は、侍を助けるって。」
「自分の八百万を投げ打って。命を失っても」
「タケルが?」
三人は急ぎ猟師小屋に戻る。
その門の前に、タケルの遺骸はあった。
身体の周りの地面に複雑な文様が現れている。
桃乃介は悲痛な叫びをあげて、タケルを抱き起す。土のついた体には
力がなく、口からは舌がはみ出ている。
桃乃介の涙が、タケルの鼻先に落ちる。
「我らを助けてくれたんだね。」
「
悪兵衛とバルザックは目を閉じ、静かに手を合わせる。
桃はタケルに額をあてて慟哭している。
「悪の字。」
久世春之丞が声を掛けた。
「戦闘は。」
「春之丞、来てくれたか。なんとか片を付けた。」
春之丞の背後には屈強な環太積の侍達が控えている。
「超大型狗族か。よくぞ三名で。」
「いや、随獣に助けられてな。」
うずくまり、タケルの遺骸を抱きしめる桃乃介を目にして
春之丞は悲痛な表情を浮かべた。
「そうか。葬ってやらねば。」
歩み寄り、タケルの頭を撫でる。
「こやつ、生きておるな。」
三人の表情は固まり、声を出せない。
「八百万をひと時に失い、心の臓を止めておる。」
春之丞は掌をすり合わせ、両手を押し付けるようにタケルの腹部にあてた。
直後、タケルは鼻息を漏らして桃の手からすり抜け、大きく胴震いをしている。
桃に抱きしめられたタケルはわけがわからない表情をしている。
「環太積は随獣ありきの本閥だから、我らの知らない扱い方を知っているんだね。」
バルザックがようやく明るい表情で悪兵衛の肩に手をかけた。
「あんなこどもに助けられたと思いたくないがな。」
悪兵衛も白い歯を見せる。
*
撤収の作業が終わり、村人に見送られながら
三名は地里江村を後にする。バルザックは甕一杯に貰った蒸留酒を
大事に抱え、上機嫌でいる。
タケルは桃に抱きかかえられ、頭をなでる環太積の隊士を威嚇している。
「被害は大居藩の兵士が五名、村人が八名か。」
書付に目を通しながら春之丞は言った。
「初動の遅れもある。が、常駐の兵が皆無であった事が被害を出した。」
悪兵衛は暮れ行く海岸を見つめながら作戦を反芻している。
「俺は環太積、お前は不知火で、この非対称戦争に参加している。」
「本閥としての本分だ。だがそれは一般の藩にとって、神か悪魔と戦っている認識に近い。理解を求める方が難しい。」
春之丞の言葉に目を閉じ頷いた。
「いつ、この戦いは終わるのだ。」
「新型魁音兵装の話は聞いたか。」
「いや、不知火にはそれに対応する人員はいないと聞いた。」
「それが鍵を握るらしい。」
星が瞬き始めた空の下、かがり火に照らされた輸送船が見える。
悪兵衛は琿青に手を置きながら、戦争の終焉を想像できずにいた。
日は落ち、夏の星々が瞬き始めている。
暮相の海 了
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