第2話 藍side 【相反する感情】

先程まで悲鳴を上げていたスプリングはすっかり大人しくなっている。上質なベッドの上に下着一枚で大の字に寝転がっている姿は何があっても蒼には見せられないな、と心の中で苦笑する。スプリングとは反対に今も悲鳴を上げている腰を男は指先で優しく撫でた。

「起きたんだね」

赤色にも見える桃色の長髪と女性と見紛う柔和な顔のこの男に気を失うほど激しく抱かれていたのだと再確認をするためにじっと見つめる。男は見つめ合うことに慣れていて優しく視線を絡めてくる。僕のそんな行動が馬鹿らしく思えて目を逸らして瞼を閉じた。

「……情報、ありがとうございました」

僕が気を失っている間に吸っていたのであろう煙草をサイドテーブルにある灰皿に押し付けて火を消した。

「そう言って貰えると情報を渡してよかったと思えるよ」

こうして藍くんも抱けたことだしね、と続いた言葉は余計だと思い軽く握った拳で小突いた。思うように力が入らない。髪を梳かす細くしなやかでいて骨ばっている手が心地良いと感じる。

「貴方はどうしてあの時点で僕が橘琉梨の情報を求めていると分かったんですか。そして求めた訳でもないのにCLOVERの情報をくれた真意はなんですか」

名残惜しそうに頭から離れていった手は僕の唇にゆっくりと押し当てられる。

「情報屋にその手のことを聞くのはご法度だよ」

男性とは思えない優しい微笑はこの目にとても恐ろしく映った。部屋の気温が二度程下がったように感じる。美しい人の笑みは冷たいものだと身を持って知った。

「そうですね。僕が悪かったです。すみません」

ぱっ、と彼の表情が明るくなる。上がった口角はそのままに少し幼さを取り戻した。

「まぁ、CLOVERの情報については頑張るお兄ちゃんへのプレゼント、かな」

心の温度が下がっていくのがわかる。今日はいつも以上に話しすぎたようだ。重たい腰を持ち上げて衣服を纏う。一つ、また一つと蒼の兄に戻っていく。こんな穢れた藍はここに置き去りにしていくのだ。ここへやってきた時と同じ格好でドアノブを握るとその上から一回り大きい手が重ねられた。

「せっかくなら一緒に眠ろうよ」

美しい顔をしていても体つきは僕よりもよっぽど男らしくがっしりしている。先程まで直に感じていた体温が今度は衣服ごしにじんわりと伝わってくる。

「もう服も着たんで今日はもう帰ります」

がちゃり、と回したドアノブが引かれることは無かった。体を後ろから抱きすくめられその

ままベッドに埋められる。少し乱暴に投げられた体が跳ねた。

「そのままでいいから。一緒に寝よ?」

ため息を喉の中で押し殺してそのまま目を閉じる。人の体温を気持ちがいいと感じられる自分に吐き気がした。安らかに眠る権利というものが存在するならば、僕はそれを持っていない。それにも関わらずこの人といると深い眠りに就いてしまう。いつも眠りを妨げてくる悪夢はひっそりと影を潜めていた。いつもは朝が来るのをずっと待っている。一人で膝を抱えて部屋の隅に小さく自分の存在を隠しながら。朝日が顔を出すまでの時間が途方もなく長いものに感じるようになってからは眠ることも諦めていた。けれどこの人はそんな僕の睡魔を簡単に連れてくる。朝目を覚ますと隣には誰もおらず、すっかり冷えたシーツが広がるだけだった。

「だからあの人と寝るのは嫌なんだ」

重い頭を抱えてシーツを撫でる。その冷たさが異様に寂しさを覚えさせた。


眠っている間に乱れた衣服を正して部屋を出る。眠っている間に世界が変わるなんてことはなく、ただただいつも通りの鮮やかな街が広がっていた。住処に戻るとそこに蒼の姿はなく、恐らく頼んだ買い出しに行ってくれているのだろうと考える。自室の机の上に置いたままにしていたCLOVERの資料を手に取り、改めて目を通す。小さなこの組織のリーダーの名前は八代艶。その活字を人差し指でゆっくりとなぞる。

CLOVERのメンバーは全員で七人。リーダーである八代艶、そしてその艶と主に行動を共にする続樹羅斗。この二人は恋人を殺し屋に殺害されている。親しくしていた友人を殺害された醒雫蘆憂、そして幡叶斗。妹を殺害された山佐壱緒、その妹と交流のあったサヤカ。婚約者を殺害され、そしてその死体をバラバラに刻まれた安達想。どんな因果かこの七人が集まり殺し屋を殺害している。活動期間はイレイズよりも短くその短期間で名を上げるほどの犯行を繰り返してきた。

これらの情報を苦もなく提供出来る男に一瞬身震いがした。

「イレイズ、CLOVER。そしてロウーユ……」

ロウーユこと高嶺逢李架。年齢は十六歳。父親は裏社会では有名な存在。実の母親は八歳の頃に他界しており、現在は義理の母親がいる。右目を失っており義眼を使用している。なお、その義眼というのも民間人を襲い抉り取った眼球を独自に加工して嵌め込んでいるだけの模様。Surfaceでも有名な進学校に通っていて成績は常に学年トップ。同じ学校の一学年上に幼馴染みが在籍している。

「出来ればもう二度と会いたくなかったな」

独り言は空気に溶けて無に還った。入口の扉の開く音がする。蒼が帰ってきたのだろうと出迎えるために自室を出た。両腕に大きな紙袋を抱えた蒼が少し俯いた様子でおり、その目に光は灯っていない。

「おかえり。買い出しありがとう」

ぱっと取り繕うように上げられたその顔はそれでも負の感情を漂わせていた。

「ううん。大丈夫。藍の方こそ用事は終わった?」

「おかげでね」

蒼から荷物を受け取り、整理していると蒼が徐に口を開いた。

「さっき、左右で目の色が違う女の子に話しかけられたんだけど、藍の知り合い?」

息が止まった。手に持っていたものを危うく落とすところだった。蒼の話によるとその少女は蒼が目当ての人物ではないことが分かるとすぐに離れていったという。少女が高嶺逢李架であることはすぐに分かった。ここで高嶺逢李架、そしてロウーユのことを話すか、話すとして何処までを話そうかと首を捻る。握った手のひらに汗をかいているのがわかった。じんわりと広がっていくその熱は僕を焦らせる。逢李架は僕の目を狙っており、同じような容姿の蒼に意識が向く可能性を懸念して話すことに決めた。

「今この街で民間人を襲い眼球を奪う犯罪者がいる。それがロウーユ。その女の子のことだ」

特に表情を変えることなく蒼は僕の話をただ聞いていた。少しの間考えたような顔をして口を開く。

「もしかして今日の藍の用事ってこの情報を貰うためのもの?」

「ん?あ、うん。ある程度の情報がないと自衛も出来ないからね」

ロウーユの情報は七彗から得た情報では無いが、確かに昨日、今日は情報の対価を支払いに行っていたためあながち嘘ではないと自分に言い聞かせ、罪悪感を軽くした。

「あの子、知り合いみたいな感じで話しかけてきたんだけど藍はあの子と会ったことあるの?」

本当は零那の古書店に行ったことは蒼には知られたくない。しかしここでまた逢李架と会った時のことを話さないのも心苦しかった。少しでも蒼に隠し事はしたくないのだ。もしこれ以上増えてしまえば何も話せなくなる予感がする。

「この間眠り姫の古書店に行った時にね。それで気になって調べたんだよ」

「………なんで眠り姫のところに行ったの。仕事は暫く休むんだよね」

鼓動が少し早くなる。悟られないように深呼吸をして声が裏返らないように慎重に空気に音を乗せる。

「暫く仕事を休むなら一応そのことを伝えておいた方がいいと思って。その時に軽く襲われたんだよ。勿論なんとも無かったけれど」

静かに疑惑を孕むその瞳を緩く弧を描いた口元で受け止める。内心を悟られないように表情を作ることは気が付けば得意になっていた。

「そう。でも何も無いなら良かった。じゃあ俺も気をつけておくよ」

腰を上げて自室に戻る蒼をただ見ていた。自分の隠し事を隠し続けることに必死で気がついていなかった。蒼の僕を見る目が少しずつ曇っていることに。

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記憶の彼方 逢坂涙 @ray_cry

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