第2話 蒼side 【相反する感情】
あの時橘琉梨は泣いていた。恐らく藍が怒鳴ったからだろう。藍が声を荒らげる姿なんて殆ど見たことがなかった。人の涙など数え切れないほど見てきたのにも関わらずあの表情がなぜか瞼の裏に焼き付いて離れない。藍が彼女を怒鳴ったのには必ず理由がある。理由も無しに藍がそのようなことをするはずが無いと分かっている。分かっているはずなのに彼女に非があるとどうしても思えない自分がいた。
体温の下がる感覚。自分は自分が恐ろしくなったのだ。今まで藍を疑うことなど無かった。藍を心から信じていた。それは今も変わらないはずだ。しかし藍の考えていることが分からない。橘琉梨に関してだけは藍と感情が噛み合わなくて不安になる。今この瞬間に限って言えば自分は橘琉梨の肩を持っているのだ。
「少しの間RSとしての活動を休みたいんだ」
夕食を終えた後、自室に戻ろうとするところを呼び止められた。藍の目を見れば仕事の話であろうことはすぐに分かる。鐵蒼としてではなくSとして話を聞く準備をした。
藍の話によると最近は殺し屋を狙って殺害する組織がいるらしい。同業者が短期間の間に何人も殺害されているのだ。その組織の名前はCLOVERと言う。藍から手渡されたCLOVERに関する資料に軽く目を通そうかと頁を捲ると藍の言葉が続いた。
「幸い僕らにはそこそこの蓄えがある。今まで真面目に活動してきた分だね。だから今僕達殺し屋を狙う危ない組織の活動が活発な間はRSとしての活動を控えたいんだ。自分の命の安全を気にしながら仕事をするのは得策じゃない。どうかな」
藍の考えに反論などあるはずも無くただ頷く。資料を読み込んでおくように言われ藍とそれぞれ自室に戻った。部屋の隅で体を小さくしながら資料に目を通す。CLOVERによる被害者は全員Surfaceの外出禁止時刻以降の時間帯に殺害されている。この街でその時間帯に外出する場合案内人による許可が必要になる。その許可も無いまま外出していた場合は例外なく案内人の手によって殺害され、Surfaceの名物である桜の木の下に埋められる。それ故にCLOVERの存在を案内人は認めたことになるのだ。
そしてその死体の殆どが何度も何度も何度も刃物で刺された痕があり、その手の中には四つ葉のクローバーが握らされていたという。被害者に必要以上に危害を加えるのはそこに強い負の感情があるからだ。そして決定的なのは手に握らされた四つ葉のクローバー。四つ葉のクローバーの花言葉は復讐。CLOVERは自分たちのような殺し屋に恨みを募らせている。そのCLOVERという組織の名前は本人たちが名乗ったのではなく死体のその様子を見た第三者が勝手に付けたらしい。
資料の隅々まで目を通し終わり固まった体を伸ばして窓から外を覗いた。仄かな光によってライトアップされた夜桜は眺める人全てを虜にするだろう。舞い落ちる桜の花弁を視界の端に捉えてもうすぐ眠りにつくであろうこの街を眺めていると不自然に蠢くものが目に留まった。桜の木に隠れたつもりなのかこそこそとこちらを窺っているのが伝わってくる。目を凝らしてその姿を確認すると手に力が入った。握りしめた掌に爪が食い込む。そこには橘琉梨がいたのだ。慌てて時刻を確認する。あと三十分ほどで外出禁止時刻になろうとしていた。ここからあの図書館までは三十分までかからないがそこまで近い訳でもない。そこからさらに彼女の自宅となると間に合うのかが分からない。間に合ったとしてぎりぎりだろう。今ここで飛び出して行って彼女を抱えて図書館まで走れば少しは余裕を持って間に合う。そこまで考えたところで藍の言葉が頭に浮かんだ。藍はもう自分に橘琉梨と関わって欲しくないのだ。彼女に関しての感情は藍を裏切っている。だからこれ以上藍と距離を広げたくない。自分だけは藍の味方で、たった一人の片割れで弟だ。力を抜いて広げた手でカーテンを閉める。間に合わなかったとしても、ただ一人死ぬだけだ。ルールを守らなかった観光客が死ぬのを見たことがない訳では無い。それと変わらないのだ。
翌日の夜もまた橘琉梨は同じ場所からこちらを窺っていた。昨日はどうやら無事に帰ることが出来たらしい。少しの安堵で短く息を吐き出す。それから数日に渡って彼女は同じ桜の木の下で自分たちの住処を隠れ見ていた。
「蒼も気がついていると思うけれど毎日橘琉梨がここを見ている。このままだとこの建物に僕らが住んでいることが誰かに知られてしまうかもしれない」
仕事もなく自室で時間を過ごしている時に話があると呼び出され手に持っていた本を閉じて藍の元へ向かう。藍はこの住処を捨てて新しい場所に移ることを提案した。確かにここ数日の彼女の行動から自分たちに何かしらの危機が迫る可能性は考えていた。自分はそれを分かった上で黙認していたのだ。その行動の示す感情の先は絶対に藍には伝えられない。
「住処を移動するのは俺も賛成だよ。でも一つ質問してもいい?」
勿論、という表情で藍は頷く。
「橘琉梨がいつも隠れていたのは俺の部屋から見える桜の木の下だ。だから藍の部屋とは反対方向になる。それなのにどうして藍は橘琉梨の存在に気がついたの?あの場所は普段使っている部屋だと俺の部屋からしか見えないと思うんだけど……」
藍は僅かに目を見張る。顎に右手を当てて考える素振りをして少しの時間を使う。何も言葉を発さずに藍の声だけを待っているとその口が小さく開いた。
「……僕がお世話になってる情報屋からの情報だよ。その情報を貰ってから実際に外で確認もしたんだ」
鮮やかで誰もを見蕩れさせる藍の笑みはとっくの昔にただの仮面と化している。この仮面は他人だけでなく自分に対してまでも多用される。この仮面を貼り付けているということは藍はこれ以上踏み込まれたくないのだ。藍にその自覚があるのかは分からない。自分がその仮面の存在に気が付いていることを藍が把握しているのかも分からない。
「そういうことなら分かった。でも次の住処のいい候補はあるの?」
不良住宅地区に存在する廃ビルのことを藍は話した。今は休業中で直接は関係ないがそこからなら夢眠零那の古書店も近く都合がいいらしい。急だが今日中に移動したいと言われ、少ない荷物を纏めて外へ出る。不良住宅地区は観光地Surfaceの隠された闇の部分だ。汚いものは全て繁華街から離れたここに集められる。ホームレスや孤児、取り残された移民が彷徨いているため自分たちの行動も今まで以上に目立ちにくくなるだろう。
入り組んだ道を抜けて藍の案内で辿り着いた新しい住処は埃を被っていて、 これからここで生活していくには掃除は必須だなと考えていた。藍は小さく咳き込んでいる。それぞれ使用する部屋を決め、必要最低限の荷物を取り出す。普段から荷物はすぐに持ち出せるように鞄に纏めて入れてあるため、そのままそれを新しい自室に置いてコンクリートの壁に背中を預ける。
「色々と急で本当に申し訳ないんだけど、明日外せない用事があるんだ。だから明日は蒼に食糧の買い出しを頼んでもいいかな」
藍と違ってこの街の露店商と特別良好な関係を築いているわけではない自分は買い出しという言葉に対して少し憂鬱に感じる。しかし藍の頼みを断るはずもなく受け入れることを選ぶ。藍の外せない用事も少し気になるがそれ以上に憂鬱な感情が足を引っ張って眠りへと引きずった。
わざと聞こえるように話しているのか、それとも本当に声が届いていないとでも思っているのか。案の定露店での小さな陰口は耳に届いてその度に藍の存在の大きさを再確認させられた。
今日は藍ちゃんじゃないのね。藍くんと同じ顔なのに愛想がないもんだ。ろくに話もしない。
決して話したい訳では無いし普段から人間関係を築く煩わしさを考えたら少しの陰口を言われる方が断然良いだろう。しかし全く気にしない訳でもないのだ。この人達にとって藍は必要で大きな存在だ。自分は愛想のない出来損ないの弟でしかない。そんな後ろ向きな思考を振り払って藍に頼まれた買い出しを無事終える。両手に紙袋を抱えて住処に帰ろうと歩き出すと後ろから幼い雰囲気の声に呼び止められた。
「お兄さん!」
声の主に心当たりは心当たりはないものの恐らく自分に向けられた声だろうと振り返るとそこには左右の目の色が違う少女が笑顔で立っていた。
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