第1話 藍side 【イレイズ】

珍しく大声を出した僕のことを蒼は驚いた顔で見ていた。その表情には驚き以外にも何か感情が混ざっているように見えた気がしたが僕はその存在を見ないふりをする。橘琉梨と関わるなという僕の言葉に蒼が納得していないことは分かっていた。蒼はそこまで僕に背中を預け切っているわけでは無いのだ。疑問を抱えたままの蒼を半ば無理やり部屋へと戻す。橘琉梨が走り去り蒼が自室に戻った後のこの部屋にはいつもの静寂が戻ってきた。苛立ちをより大きく大きくさせるほどに明るい月の光が他に誰もいない空間を青く照らす。まるでこの世界に僕一人しかいないように感じた。いっそ本当にそうだったらいいのに、とさえ思う。

「くそっ……」

拳で机を叩く乾いた音は痛いほど響き、やがて部屋の隅の薄闇に飲まれて消えていった。僕はそのまま眠らずに月明かりの届かない部屋の隅で膝を抱える。闇は心地好く、自分を隠してくれるから好きだった。誰にも何も、知られたくないのだ。日が次第に昇って行き、やがて朝を迎えると僕と蒼二人分の朝食を作り、一人で朝食を済ませて住処を出る。蒼はまだ自室から出てこなかった。雲一つない青空は多くの人々を外へ誘う。

「藍ちゃん、おはようね。よかったらこれ買っていきなさいな。安くしとくよ」

露店が並ぶ街の中心はいつでも賑わっており、僕たちがこの街に来たばかりの頃から変わらない人達が店主をしている。いつも以上に人が溢れた商店街は自分の異質さを浮き彫りにした。

「おはようございます。じゃあそれを四つください。あとこれも一緒にお願いします」

八年かけて培った交友関係は日常生活を円滑に進めるために必須だった。特別苦労して積み上げてきたわけではないが、この関係がいつか崩れるのではないかと怯えることが全く無いわけではなかった。慣れた手つきで品物を扱うその年季の入った手は物が違えど僕のナイフを握る手と同じように見えてしまう。僕と違って赤く染まっていない手にそう思ってしまったことに申し訳なさを感じて俯いていると心配して覗き込むように声をかけられた。

「藍くんどうしたんだい?元気がないように見えるけど。蒼くんと何かあったのかい?」

「いいえ、大丈夫です。残りは何を買おうか悩んでいて。他に何かおすすめはありますか?」

愛想笑いばかりが上達して虚しさが感情を占拠する。何も考えずとも人当たりの良い笑顔を貼り付けられるようになったのはいつだっただろうか。気がつけば笑うことを無意識に、自然と強要されていた気がする。

この先当分の食料の買い足しを終えて帰ろうかと思ったその時にある噂話が耳に入ってきた。今巷を騒がせている『ロウーユ』という存在についてだった。ロウーユは人の眼球を丸ごとくり抜くという行為を何度も行っている犯罪者らしい。被害者は全員が死亡したということはなく、一命を取り留めた人もいるとのことだ。被害者同士にこれと言った共通点もないため目的はあくまで殺人ではなく眼球だと考えられているということまで教えてもらった。この街の特徴の一つとして、一般人間の犯罪が極端に少ないというものがある。しかしそれも今までの話となりかけていた。突如現れたロウーユによって治安が脅かされている今、主な収入源となっている観光客の客足は少なからず減っているのだ。

「藍くんも綺麗な目をしてるんだから気を付けなさいよ」

冗談のように笑い話として危機感もなく話を振られる。僕なんかよりも皆さんの方が気を付けてくださいね、と言葉を置いて立ち去った。非日常は気が付かないだけで日常に潜んでいるという事実を知らないのがどれほど幸せで愚かなことなのか、嫌になるほど目の当たりにする。両手で紙袋を抱えて住処に戻ろうと歩いているとSurfaceの名所であり入口でもある噴水広場に差し掛かる。その噴水の前に見知った姿を捉える。

「イドさん」

Surfaceの案内人である彼女に声をかけると振り返り、優しく決められていたかのように微笑んだ。無機質なその笑顔に違和感を抱く者は少ないらしく、彼女を目当てにここへと訪れる観光客も少なくない。

「お久しぶりですね、藍さん」

どれだけ時間が経とうとも一切変わらないその穏やかな声はいっそ不気味だった。表情と声を別で用意しているかのようなその話し方が苦手だと思ったのはここでの生活が落ち着いてからだった。

「イドさんに少しお訊きしたいことがあるのですが、今お時間大丈夫ですか?」

辺りを軽く見渡してから彼女は快く了承してくれた。ブーツを履いている彼女は僕よりも少し背が高く、僅かに見上げる形になる。太陽は横から僕と彼女を照らし、左半分に影を落としていた。感情の読めないその表情は変わることがない。

「回りくどいのは好きじゃないので単刀直入に訊きます。イドさんはイレイズの正体を知っていますか」

この質問によって少なからず何かしらの表情を引き出せると予想していたのだが彼女は変わらず微笑み続ける。呼吸も、瞬きの回数も、手に込められた力も何も変わらない。柔らかな茶色の髪が風で舞う。

「……残念ながらその質問には答えかねます」

紙袋を抱えていた腕に余計な力が加わりガサガサと音を立てる。少しの間の後にお話はこれで終わりでしょうか、とイドが訊ね、立ち去りそうな気配を見せた。慌てて裏返りそうな声をかけ、その足を止める。

「ではRとして質問します。貴女はイレイズの正体を知っていますか」

沈黙は時に言葉よりも饒舌になる。このタイミングでは少しの間ですらそれが返答になるのだ。イドは形の良いその唇を再び開いた。

「はい。知っています」

「……ありがとうございます。これで僕のやるべきことが分かりました」

それは何よりです、と今度こそ背を向けて歩いていくイドをじっと見つめていた。イドはこの街の案内人として街全体を管理している。彼女ならこの街に悪影響を及ぼす人物を放っておきはしないだろう。加えて鐵藍としての質問に対しては答えることを拒み、Rとしての質問には答えた。それはつまりイレイズのことを庇ったのだろう。正体を把握しておきながらイレイズが変わらず活動しているということは、その存在はこの街にとって必要だとイドがそう判断したのだ。そのイレイズを僕の私情で殺害したとなれば僕の方がイドに消されるかもしれない。イドの場合、僕がイレイズ殺害の計画を企てたその時点で襲ってくるだろう。

住処に帰ると今朝作った蒼の分の朝食はなくなり、代わりに蒼が作ったのであろう昼食が置かれていた。不器用な蒼がこうして僕の分の昼食まで作るのは珍しい。手を合わせてからゆっくりとそれらを口にし、やがて食べ終えるとそのタイミングで蒼が自室から姿を現した。

「ご飯ありがとう。それと、昨日は急にごめん。でもできればあの人と本当に関わって欲しくない」

元々穏やかだった蒼の表情も僕の言葉を聞いていくにつれて曇っていく。

「それはどうして?」

俯いて首を横に振る。それはまだ言えないと、そう言うことしか出来なかった。蒼はそっか、と呟いて外へ出て行く。食器を下げようとした時のカチャカチャという音がやけに耳に響いて不快だった。

橘琉梨の存在は否定のしようがない程に邪魔な存在だ。その橘琉梨をどうにか始末したいと考える。その結果ある一つの可能性を見つけた。自分が依頼者だと分からないように夢眠零那の元に依頼を出せば橘琉梨を消せるのではないか。直接手を下さなければ可能なのではないか。問題は零那の元に届けられる依頼内容をイドがどの程度認識しているかだった。零那がそのことについて口を開くとは考えられないが、聞いてみる価値はあるだろう。そう考えた僕は翌日零那の元へと向かった。住処を出た時は小降りだった雨も古書店に近い不良住宅地区まで行くと酷くなっていた。この周辺では街の外からやって来た家の無い浮浪者や、賭け事に人生を狂わされた大人が盗みを働く。そんな場所には普段から人影も少ない。こんな天気のせいで余計に人気のない道はとても都合が良い。傘を持たない僕は雨に打たれてずぶ濡れだ。急ぎもせずにただ歩いている様は多少なりとも不自然に思われるだろう。だから対面から同じように雨に濡れながら歩いてくるその少女が気になったのだ。少女の金髪は雨に濡れて反射している。鈍い輝きを湛えているその髪は二つに縛られて小さく揺れていた。その髪の具合からまだ雨に濡れ始めたばかりなのだと分かる。何事もなく、ただすれ違うはずだった。すれ違うその瞬間、少女が顔を上げてにこりと笑い僕の両腕を掴んだ。

「お兄さん!その目を僕にください!」

少女の左右で色の違うその目は僕の目だけを捉える。純粋だと形容するに相応しい目だなと、場違いにもそう思った。

「お兄さんのその目とっても綺麗ですね!僕、目が好きなんです!だからその目を僕にください!」

そこまで聞いて頭の中にロウーユの話が浮かんだ。ロウーユは警察が追っている人物だが、その正体がまさか少女だとは考えないだろう。被害者には大柄の男性も居たはずだ。そうなると女性、ましてや少女だとは考えにくい。この状況をどうしようかと頭を回転させる。相手の能力が未知数故にどう行動を起こせばいいのかが掴めない。隙を見せたら僕の目は抉り取られるのだろう。少女の力は緩むことなく腕を掴み離さない。今も向けられる視線は揺らぐことがない。

「少し、話をしないかな」

道の脇にぽつんと取り残されたベンチに腰掛けるように提案する。目を丸くさせ視線をベンチに移した少女は力を抜いて腕を離した。隣に座った少女はにこやかな表情でなおも見つめてくる。その視線は獲物を捉えて離さない蛇のそれだった。ため息を一つ吐き、遠回りするのも煩わしく時間の無駄だと思い率直に尋ねる。

「ロウーユって君のことなのかな」

少女の眉がぴくりと動くのを見逃しはしなかった。さっきまで降っていた酷い雨は少しづつ弱まってきている。

「ロウーユってなんですか?」

わざとらしく笑って首を傾げた。この子はこの状況にも関わらずとぼける気でいるらしい。それがとても滑稽に思えた。

「今巷を騒がせている人の眼球を集める凶悪犯だよ。まるで今の君みたいだよね」

少女と同じように笑顔で返す。笑うことだけは得意なのだ。少女の体に隠れて見えなかった彼女の左手にはどこかに隠し持っていたのであろうナイフが握られていた。それは僕の足に向かって一直線に振り下ろされる。飛び避けナイフはベンチに突き刺さった。少女は未だ座ったままだ。距離を取った僕はジャケットの胸ポケットから二本のナイフを取り出す。両手にナイフを持ち気を抜かずに構える。少女は突き刺さったナイフを握ったまま動かない。

「僕は君を殺したいわけじゃない。警察に突き出したいわけでもない。でも僕の目を渡すわけにもいかないんだ。今日のところは帰ってくれないかな」

徐ろに立ち上がったその手には既に別のナイフが握られていた。

「お兄さん、まるで簡単に僕を殺せるみたいに言いますね。ちょっと気分悪いです。あと僕、欲しいものは手に入れないと気が済まないんですよね。お兄さんが本当に黙っててくれるという保証もないですし」

お互いの動きに意識を集中させ、身動きを取れない時間が続いた。その間に雨はすっかり上がり、太陽が顔を出している。このままだと流石に辺りにも人が通り始めると危惧した時、やけに落ち着いた声が届いた。

「お二人共、そろそろこの辺りにも人が来ます。雨も上がりましたし。なので一旦それを仕舞ってください」

少女が呆気にとられたようにナイフを下げて声の主の方を無防備に見ている。そのことを確認してから同じように振り向く。

「零那お姉ちゃん」

「零那……」

僕と少女の声が重なる。零那の名前を彼女もまた知っているという事実に驚いている暇は無かった。零那は少女の方へ向き直り言葉を続けた。

「逢李架さん、この方は信用しても大丈夫です。私に免じてどうかこの場では諦めて頂けませんか。今日以降のことには看過致しませんので」

逢李架と呼ばれた少女は渋々手に持っていたナイフを仕舞い、ベンチに刺さったままだったナイフも抜き取り仕舞った。その様子を見て目配せしてきた零那に大人しく従い僕もナイフを仕舞う。

「零那お姉ちゃんにそう言われたら仕方ないね。また今度にするよ。でも僕はお兄さんの目を諦めた訳じゃないからね?これからも隙があれば狙っていくよ。それじゃあ、またね」

少女は淀みのない笑顔のまま歩いて行った。雨に濡れたその姿を気にせずに歩いていく彼女はどこかこの世界に不似合いに思えた。後ろ姿が見えなくなるのを待ってから零那に話しかける。

「ありがとう、零那。助かったよ。僕とあの子の名前を呼んでいたけれどわざわざ資料を読んでから来たの?」

いつもと変わらない眠そうな目には少し困惑している僕が映っている。零那の感情は相変わらず読めない。

「……貴方は、いつも私のことをそう呼んでいましたか?」

投げかけた質問には答えずに彼女は質問を返した。恐らくこれはタブーなのだろうが、大した質問ではなかったため零那の質問に答えることにする。

「いや、久しぶりに呼んだかな。いつもは仕事の時しか会わないし、その時は名前も伏せてるから。でも今は違うだろう?」

今にも閉じてしまいそうなその瞼の奥にある目は今ではどこを捉えているのか分からない。僕ではない何かを見つめているような気さえする。

「そう、ですね。そういえば、貴方がこちらに居るということは古書店に用事があったのではないですか?」

元々の目的はそうだった。しかしロウーユというイレギュラーと遭遇したことによってさっきよりは頭が冷静になっていた。

「いや、また今度にするよ。もう少しよく考えてみる」

そうですか、と零那はどこか表情に影を落として僕を見送っていた。零那の古書店がある方向とは反対にある建物に向かって歩いている途中ですれ違った何人かの人に濡れているのを心配された。傘を忘れて、と簡単な言い訳を並べて笑みを浮かべる。

「逢李架ちゃんも大きくなったんだな……」

向かう途中周りに人のいない僕だけの空間で、自分の耳にすら届かない声でそう呟いた。

路地裏にある一つの建物の前に辿り着く。一見綺麗に見えるその建物にはもう灯りが灯ることは無い。その建物自体に用はなく、建物の陰に向かって声をかける。

「いつまでも寝てないで出てきてください。買いたい情報があります」

少しの間を挟んで情報、という言葉に反応した彼が起き上がる。ピンクと赤が混ざったような色の長髪が揺れた。寝起きの微睡んでいる瞳と目が合う。

「おはよう、Rくん。さて、君はロウーユとイレイズ、基い橘琉梨、どちらの情報が欲しいのかな?」

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