記憶の彼方

逢坂涙

第1話 蒼side 【イレイズ】

この街で噂の『イレイズ』を一人で探し始めてもう暫くが経つ。しかしその姿を捉えることはできず、確かな手がかりすらも掴めていない。大きな通りにはたくさんの人々が行き交っている。すれ違った子供の手に握られていた風船が不注意で高く頭上に飛んでいった。それを目で追って見上げると目を細めたくなるほど眩しい太陽と目が合う。背に太陽の光を受けて仕事用の資料とイレイズを探しに図書館に向かった。

 イレイズとはその名の通り何かを消してくれる存在らしい。聞く噂によって何を消してくれるのかが違うが、一番多く聞くのは記憶を消してくれるというものだった。イレイズの存在も、消すのが記憶だということも確定した訳では無いがその僅かな可能性に縋りたくなるほどに消したい記憶が存在した。

 最近聞いた話だとこの街で一番の高級住宅街にある大きな図書館にイレイズが現れるらしい。そこは仕事用の資料を集める目的で度々利用している場所だった。噂を鵜呑みにするならば返却用の本に日時と場所、そして消して欲しい記憶について書いた用紙を挟めるとイレイズとコンタクトを取るらしい。イレイズがその通りに姿を現すことは稀だが、確実に叶った人がいると話を聞いた。このような子供じみた噂を信じて記憶を消してもらおうなどと思っている自分に驚いている。そうでもしないと現状は変わらないと悟ったのだ。

 仕事用にと求めている資料にはマニアックなものも多く、自分のいる書棚付近にはこれといって人もいない。職業柄周りの視線が気になるため人がいないこの空間は気に入っている。静かに書架の間を縫っていると棚の陰から突然人影が飛び出してきてぶつかる。お互いに衝撃でよろめき、本が数冊落ちる音がした。目の前の相手は尻もちをついている。

 「すみません。大丈夫ですか」

 そう言って差し伸べた手を取ることなく目の前の彼女は立ち上がり本を慌てて集め始める。首から橘と書かれた名札が目に付いた。

 「こちらこそごめんなさい。私が急いでいて前も見ずに走ったのがいけないので貴方が謝る理由は無いです。すみません、貴方の方こそお怪我はありませんか」

 大丈夫だという旨を伝えて同じように本を集mる。最後の一冊を拾おうとした時に手が触れ合い彼女の動きが止まった。何かあったのかと顔を覗き込むと強ばった表情が張り付いていた。

 「殺し屋……?」

 微かに聞こえるか聞こえないか程度の本当に小さい声だったように思う。しかし自分はその声を逃さずに拾い上げた。聞こえた瞬間重なっていた手を掴んで引き寄せる。左胸に抱えていた本を放り出して目立たないように壁際まで引きずる。叫ばれないように塞いだ口は何かを言いたそうにしている。

 「殺し屋が、何……?」

 背後から抱きすくめる形になり耳元でそう訊ねる。胸の中で震えることしか出来ない彼女の無力さを利用する。大きな声を出したら即座に殺すという条件を提示して口から手を離すと、震えて消え入りそうな声で記憶、と呟いた。

 「信じてもらえないと思うんですけど、私は触れた人の記憶を覗くことが出来るんです。だからさっき手が触れ合った時に貴方の記憶を誤って覗いてしまって。それで殺し屋だと……」

 自分が殺し屋だということはその業界の人間以外に漏れないよう、普段から最善の措置は取ってある。この発言はあながち出鱈目とも思えない。なぜならずっと人の記憶を覗ける人物を探していたのだから。

 「お前がイレイズなのか」

 腕の中でびくりと大きく震え、彼女のその首は肯定を意味するように縦に振られた。イレイズが実在し、そして消すのも本当に記憶だと言うのならばこの状況は願ってもいない幸運に変わった。彼女がイレイズで記憶を消すという確認を改めて取り、首筋の脈で嘘を吐いていないことを確かめる。やっとイレイズを見つけたという達成感、安堵感と、正体を知られた焦りを落ち着かせるために一度大きく息を吐いた。自分と彼女の二人だけが世界から切り取られたかのような静寂に包まれる。

 「イレイズに消してもらいたい記憶がある。脅すような真似はしたくなかったけど、正体を知られた俺は断られた時に何もしないとは約束できない」

 初めから拒否権を与えられなかった彼女は了承し、仕事が終わる十七時頃にまた来て欲しいと言った。その時間になるまで資料を探しながらいつ逃げるとも分からない彼女を監視していた。誰かに全て話すかもしれない。警察に逃げ込むかもしれない。そのような不安を払拭できる程度には自分の能力を信用していた。全ての思案は杞憂に終わり、時間になると彼女を後ろに連れて住処へと向かった。道中、抵抗はあったがお互いに名乗り、彼女の名前が橘琉梨なのだと知る。恐らく自分の名前はあの時既に知られていたのだろうが彼女は自分の口から聞きたそうにしていたように思う。日が傾いて太陽は朝と同じように後ろから道を照らし、影を前に伸ばした。煉瓦の道がオレンジ色に焼けている。この街ではこの時間帯になると人も疎らで視線も気にならない。

 「あの、一つお聞きしたいことがあって、その、消したい記憶というのはもしかして……お兄さんの……?」

 立ち止まり振り返ると真っ直ぐに自分を見つめる目と目が合った。沈みきっていない太陽が眩しい。煉瓦の焼ける匂いが鼻を擽る。人と正面から正直に向き合うのは苦手だなと改めて思った。ここでの沈黙は肯定だと捉えられても仕方がない。それでもすぐに答えるのは癪だった。

 「……あぁ、そうだよ。俺の双子の兄である藍の記憶を消して欲しい」

 自分が今どんな表情をしているのかは分からないが彼女が少しだけ辛そうな表情をしたのは分かった。何を考えているのか、何を見て何を思ったのかは見当もつかない。

 「私は貴方の記憶を覗きました。それは今まで貴方が過ごしてきた時間、全てです。それを私はあの一瞬で飲み込みました。その中で貴方の感情も少なからず感じました。そこにはお兄さんへの違和感も含まれていた。貴方はその違和感の正体が分からないなりに、記憶を消すことでお兄さんを助けようとしていたんじゃないですか。貴方はお兄さんが隠しているであろう辛い思いの原因を消したいんですよね」

 「それ以上は黙れ。余計な詮索はしなくていい。ただ藍の一番消したい記憶を消してくれればそれでいい」

 彼女の雄弁さは初めて出会う類のもので、嫌悪と同時に何故か羨望にも似た感情が沸いた。それからは勿論会話もなく、後ろを振り返ることもせずに伸びた影を見つめながら住処まで歩いた。橘琉梨の纏う空気は懐かしさや幼い頃の苦しさを想起させる。もう関わりたくないと思う反面、このまま全てを預けたくもなる。不可解な自身の感情に蓋をして、今まで通りの見ないふりをする。自分と彼女は鐵蒼と橘琉梨ではなく殺し屋とイレイズという関係性で結ばれ、彼女は自分の命惜しさに記憶を消してくれるというだけなのだ。

 暫く歩くと大きい建物が姿を露わにする。周辺には平均よりも大きな建物が並んでいるがその中でも豪奢な建物を顎で示す。

 「ここ。ここの一室を俺たちで使ってる」

 以前依頼で殺害した富豪の屋敷に無断で住み着いている。この街では殺し屋の殺害の一部は黙認されているためそこまで考えずとも被害者の屋敷に居座ることが可能なのだ。ただ、この街の一般的な住人にとっては殺し屋の存在など夢と同義だろう。

 本来堂々と使用出来るものではないため裏口へ案内する。驚いたのであろう彼女は口を開けて呆然としつつもしっかりと後ろに着いてきた。普段出入りする時と同様に裏に作った小さな扉を通って高い塀の中へ進む。扉は屈んだ男がぎりぎり通れる大きさのため華奢な彼女は簡単に通り抜けた。扉を抜ければそこには枯れ果てた庭が広がっている。世話をする人がいなくなった植物は自分たちを恨んでいるかもしれないと、いつかの藍が言っていた。屋敷の中の藍の元へ向かいながら橘琉梨にやって欲しいことを伝える。今日の夜は仕事があり、藍はいつもこの時間帯に仮眠をとっている。藍に第三者が近づけるのはこのタイミングしかないだろう。この隙を逃せば恐らくもう機会は訪れない。

 「恐らくチャンスは一度きりだ。藍に気づかれないように息を殺して近づいて欲しい」

 殺し屋だとは言っても自分は実行犯ではなく毎回計画を立てることが役割だ。いつも直接手を汚すのは藍だけで、自分は罪から遠ざけられ守られている。だから実践に慣れていない自分は藍よりも動きが鈍い。藍ほどの気配の消し方を心得てはいないし、藍は本当に些細な物音だけでも目を覚ます。眠っているのかを疑うくらいに反応が早い。そんな藍に彼女が近づけるのか不安だが、やってみる価値はある。少なくともそう思いたい。藍が自分に何かを隠しているだろうことにはだいぶ前から気がついていた。自分がそれに気づいていることまでは流石に藍でも気づいていないように思う。だが藍の隠していることを言い当てられないのも事実だ。藍だけが陰で苦しみ続けることだけは我慢ならなかった。

 屋敷の中に入ると橘琉梨は壁や天井に施された装飾品を眺めては圧倒されている。屋敷の中で自分たちの使う通路や部屋だけは藍がこまめに掃除や手入れをしているため装飾品も本来の輝きを保ち続けていた。

 「たぶん藍が眠ってるのはこっち。さっき言った通りに動いて」

 藍は部屋の入口から見て死角となるような家具の陰で壁に寄りかかって眠っていた。藍はその日によって違う場所で眠る。自身の行動に規則性を持たせてしまわないようにと常に危機感を抱いている。それが命を守るための行為だとしても日々続けることがどれだけの負担になっているのかは想像でしか窺えない。以前自分も藍と同じようにベッド以外で眠ったり場所を移していたのだが、心配した藍によって止められた。同じことを藍に言っても上手く躱されてしまった。藍が自分のことを心配してくれているのと同じようにまた藍のことを心配しているのがどうも伝わらないらしい。

 橘琉梨は息を殺してゆっくりと近づいていく。ごくりと生唾を飲み込む音が聞こえ、それほどの緊張が伝わってくる。手が震えて顔色も悪い。冷や汗が頬を伝い落ちる。藍の額に彼女の手が触れた瞬間、藍の目が開いた。触れていた腕は掴まれ背に回される。その拘束に抗えるはずもなく橘琉梨は小さな悲鳴をあげる。それはあまりに一瞬の出来事で目を見張る以外に何も出来なかった。

 「お前は誰だ」

 冷たく低い声が場を支配する。反響したその声は鐵藍としてではなく殺し屋としての表情をしていた。藍は二つのスイッチをいつでも大事に抱えているのだと気付かされた。藍の暗く吸い込まれそうな目を見つめてはっとし、慌てて声を振り絞った。

 「藍、ごめん。違うんだ。その人は俺が連れてきた客人だ。頼むからその腕を離してあげて」

 橘琉梨は何が起こったのか分からないのかただ虚空を見つめている。藍は自分と彼女の顔を交互に見比べ、ため息混じりに拘束を解いた。自由になった彼女は掴まれていた腕を軽くさすっている。

 「蒼、ここのことは……」

 「分かってる。でも今回だけは目を瞑ってほしい」

自分ではないどこかを見つめているような無表情に射抜かれる。心の奥底までも見透かされているようで何も考えられなくなる。静寂が耳に煩い。たった数十秒のことのはずなのに何時間もこうしているような錯覚に陥り脈拍が早くなる。藍の口が開くのを待っていることしか出来ないのが苦しい。今のこの空気を壊してしまいたい。

「分かった。今回だけね」

小さく息を吐き出しながら立ち上がり、藍は痛かったですよね、すみませんと橘琉梨に謝ってから部屋を出て行った。その時にやっと自分がずっと息を止めていたことに気がついた。屋敷から藍が出て行ったのを確認すると自分の使用している部屋に彼女を案内し、元からあったソファに座らせた。向き合う形で自分もソファに座り話を切り出す。

「さっきはごめん。藍の反応が予想以上で俺も動けなかった。痛かったよな」

今でも軽く手首をさすっている様子を見る限り痛くないはずはないのだが、彼女は大丈夫だと言い張る。

「それよりもごめんなさい。あの一瞬では記憶を覗くのが精一杯でした。消すことまでは出来なかったです」

俯き、垂れた前髪で表情が見えない。声が震えていることは分かった。思わずその顔に手を伸ばしかけたが直前で手を引き戻す。

「大丈夫、気にしないで。さすがにあの状況で記憶を消せなくても責めたりしない。だから今回のことは全部忘れて。明日からまた今までの生活に戻って。俺たちに関わらないで。無理矢理連れてきて悪いとは思ってるけど、今日あったことは全部、無かったことにして。もし俺たちのことを誰かに話したりしたらその時は躊躇なく殺すから」

彼女ははい、と小さく答えた。視線はいつまでも合わない。ふと時計を見ると針は二十一時を指していた。ソファから腰を上げ外を見ると街中の明かりも大分減りつつあった。

「こんな時間まで付き合わせてごめん。時間も時間だから家まで送る」

必要ないと断られたが、付き合わせたことへのお詫びだと無理を言って最初に出会った図書館まで送ることになった。ふと考えると殺し屋に自宅を知られるのは誰でも嫌がるのでは無いかと思い自分でも何かおかしなことを言ったような気分だった。彼女の家は図書館から近い場所にあるらしい。あと数時間でこの街は深い眠りにつく。露店や飲食店、宿泊施設などももう既に閉まっている。二人で歩くには広い道を照らすのは半分に割れた月と煌々と輝く街灯だ。少し前を歩く彼女の背中は心做しか幼い子供のように小さく見えた。複数の光に照らされて影は幾重にも伸び、重なる。この静かな夜の道で、少し離れているとは言え二人きり。息を吸い込む音は耳に届く。決意をしたかのように拳を握るのが分かった。

「あの、もう関わるなと言われましたが

明日、また藍さんにお会いすることは出来ないでしょうか」

歩きながら振り返りもせずにそう告げた。声は震えていなかった。時間が、迫っていた。

「どうして。あんたにはもう藍に会う理由はないはずだけど」

「分かっています。分かってはいるんです。でも、今日、私がしたこと、しようとしたこと全てを藍さんにお話したいんです。私が藍さんの記憶を覗いたこと、そして消そうとしたことを」

振り返った橘琉梨と視線が合う。このタイミングで振り返るのは卑怯だと思った。彼女の真っ直ぐな目で訴えかけられると何も断れなくなってしまいそうな気がするのだ。実際に自分はもう目を逸らせなくなっている。

「な、なんで話す必要があるんだ。できればこのことは藍には知られたくない。それとも、話すべき理由があるとでも言うのか」

余計なことを言ったと思った時にはもう遅かった。彼女は頷き、再び口を開いた。揺らぐことの無い橙色の瞳を綺麗だと思ってしまった。

「今その理由を蒼さんに話すことは出来ませんが、ちゃんと、理由はあります。蒼さんが藍さんに知られたくないんだということも勿論分かっています。それでも、私は伝えた方がいいと思うんです」

過ぎる時間は残酷で、執拗に応えを焦らせる。桜の花弁が足元に舞った。さっきの藍の姿が脳裏に焼き付いて離れない。藍のあんな姿を見ると自分が何かしたいと行動したことが間違いだったのではないかと思える。藍はとっくに乗り越えて、折り合いを付けて今のこの日々を過ごしているのではないか。過去の記憶に囚われているのは自分の方だったのではないか。巡る葛藤は最初の罪の記憶まで掘り起こす。吐き気を催し咄嗟に手を口元に覆う。頭を振り、今の、目の前の彼女に視線を戻す。少し心配そうにこちらを窺うその瞳を知っている。

「分かった。じゃあまた明日図書館まで迎えに行く。時間は今日と同じで大丈夫?」

「はい、大丈夫です。むしろ迎えに来て頂くのも申し訳ないくらいです」

図書館の前で橘琉梨に別れを告げ、急いで約束の場所まで走って行く。何本もの桜の木を通り過ぎ、指定された桜の木の下には目深にフードを被った藍が立っていた。左腕の時計で時間を確認している。こちらの気配に気づいて振り返った藍は今にも桜に攫われてしまいそうな朧気な雰囲気を纏っていた。

「時間ぎりぎりだよ、S」

「ごめん、R」

本名ではなく殺し屋としての名前を呼ばれ否が応でもスイッチが切り替えられる。今は殺し屋のRSとして行動する時間だ。殺し屋とは言っても本来ならば自分は実行に加担せずに藍が一人で依頼をこなす。それが藍の決めたルールだった。自分が情報を集めて時間や場所、殺害方法等を考える。そしてそれを藍が実行する。RSという殺し屋は計画犯と実行犯に明確に分かれている。けれど万が一の最悪を想定して自分も配置に着きたいと頼んだ。最初は断られたが自分に譲る気がないと分かると渋々了承した。そのために毎回場所を変えて待ち合わせをし、自分も現場に赴く。未だに役目が来たことはない。

「じゃあ時間だから僕は行くよ。Sも準備をしておいて」

「了解」

初歩の初歩である指紋を残さないようにと用意した黒い革手袋を嵌めて藍は闇の中へと姿を消す。闇に溶け込んでいる存在は藍だけではなかった。殺し屋という存在は案外この街に蔓延っていて、直接姿を認識する事がないだけで今同じ時間帯に活動している同業者も少なくはないだろう。同じ世界にいる者同士だからなのか気配を感じ取ることは出来る。今自分たちが暮らしているこの街、Surfaceでは一般人の二十四時以降の外出を禁じられている。その理由は治安維持、労働時間の関係などと言われているがその実、殺し屋の活動時間を確保するためだ。もしその決まり事を破り外出していた場合、この街の案内人によって例外なく殺害される。無慈悲に、無感情で。その瞬間は今までに何度も目にしてきた。普段は人当たりのいい穏やかな笑みを浮かべている案内人が機械的に人を殺害するとは思わなかった。そこに感情が介入していたのか疑わしい。もしかしたら、次第に感情も薄れていったのかもしれない。感情が生きていたのならとっくに正気を保っていないのだろうから。

標的のいるであろう建物の見張りを始めて十分ほど経つがなんの異変もない。散った桜の花弁の枚数が増えただけだ。手のひらを広げれば一枚の花弁が舞い落ちる。桜の名所であるこの街に四季はない。常に春のような暖かい陽射しが満開の桜を飾りつける。そのおかげもあって観光客は後を絶たない。そんな街に殺し屋が何人も潜んでいると知られたら一体どうなるのだろうか。花びらをぎゅっと握りしめると視界の端に藍が姿を現した。

「今回も順調だったんだ?」

「特に何も無かったよ。蒼の計画のお陰だね。さぁ、眠り姫の元へ行こうか」

口調はいつもの藍と変わらない穏やかで心地良いものだが、その表情もまた変わることは無い。こうして仕事をする時の藍はいつだって無表情で感情を殺している風だった。藍なりのけじめだと以前話していたが、どうにも無理をしている気がしてならなかった。殺しきれない感情が藍を蝕んでいるように見えたのだ。

基本的に犯行に使用する道具、主に刃物なのだがそれに自前の物を使用することは無い。刃渡りや形状などで犯人特定に繋がることを危惧しているからだ。しかし今日の藍は普段から持ち歩いている折り畳みナイフを手にしていた。凶器となる物が見つからなかったのだろう。手頃な新しい刃物を探しておく必要があることを脳内に書き留めておく。少し歩くと所謂貧民街と呼ばれる不良住宅地区へと差し掛かる。そこにある古書店で例の眠り姫は棺を開いて待っている。眠り姫というのはこの街で殺し屋としての仕事を提供する、仕事斡旋人の夢眠零那のことだ。彼女は常に睡眠欲に襲われているため、本名を外部の人間に知られないようにとの理由もありそう呼ばれている。その古書店には一度しか足を踏み入れたことがない。零那の父である夢眠宵が店主を務めている時だ。藍と二人で殺し屋として生きていくことを誓い、仕事を求めて訪ねた。それ以降は藍に頼まれ中に入ることは無い。無理に入る理由もないため自分はいつも外にある桜の木の下で時間を潰している。今日もいつものように街の中心を流れる川を眺めていた。散った桜の花弁が人では歩けない薄桃色の道を作っている。

お待たせ、と古書店から出てきた藍と共に住処へと帰る。まだ月が輝きを残しており、太陽の気配はない。伸びた影は重なることなく建物に吸い込まれた。おやすみの一言を交わしてそれぞれ自室へと入る。広く取られた窓から入ってくる青い月明かりが部屋を染め上げる。夜は、だから苦手なのだと意識の深い場所に落ちていく。橘琉梨と藍のことを考えながら、自分には不釣り合いなほどに大きなベッドの上で膝を抱えて眠った。

目が覚めた時には既に日が傾きかけていた。あと数時間で彼女との約束を迎える。部屋から出ると日の高い間に藍が作ったのであろう食事がダイニングに置いてあった。それをありがたく頂き、食器を洗ってから次の依頼の資料に軽く目を通す。頃合いを見て図書館へと向かう。図書館に着いた時には橘琉梨は支度を終えて待っていた。肩にかかる黒髪が風で靡く。自分の姿を見つけると彼女は軽く会釈をし、小走りで近づいてきた。道中昨日と違って今日は普通に入っても大丈夫だと説明し、今にも息を止めそうな勢いのあった彼女を落ち着かせる。藍の部屋の扉の前に立ったことは何度もあるが今日が一番緊張していたように思う。三回ノックをする。少しの間の後中からも二回ノックが返ってきて扉を開ける。豪奢な扉は重厚感がありやけに重い。目の前のソファに軽く腰を掛けている藍と目が合う。その視線はすぐに自分の後ろへと移り、やがて少しの驚きに変わる。疑問と、嫌悪と、動揺を経てすぐに穏やかで人を寄せ付ける表情になった。

「何か用かな」

「藍、彼女が藍に話したいことがあるみたいで今日来てもらったんだ。少しでもいいから聞いてくれないかな」

僕は話したいことなんてないけれど、という小さな呟きは耳に届かなかった。それほど藍を前に緊張していたのだと思う。射すくめられそうな視線を突き刺され、そしてどうぞ、という言葉と共に藍がソファを指した。自分は彼女から予め席を外して欲しいと頼まれていたため部屋の中に二人だけを残して立ち去る。通路を挟んだ向かいにある自室に戻り、椅子に座る。何かをしていないと不安で頭に入らないことが分かりつつも資料を手に取る。手持ち無沙汰に紙を捲る。ふと時計を見ると数十分が経っていた。今頃どんな話をしているのだろうと気になり扉越しに藍の部屋の方を見やるとここまで届くほどに大きな藍の怒鳴り声が聞こえた。驚いて立ち上がり思わず部屋を出る。丁度藍の部屋から橘琉梨が涙を流しながら出てきたところだった。その涙を拭いたかったのか、反射的な行動だったのか、手が伸びる。その手は何にも触れることなく空を掴んだまま動かなかった。ごめんなさい、という言葉が頭の中に響く。足早に立ち去った彼女を追いかけることは出来なかった。それが正解だとも思えなかった思えなかったのだ。開け放たれた扉の中で藍はただこう言うだけだった。

「もう二度とあの女に関わるな」

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