第2話 道端に咲く花
一年前。俺はピアノのコンクールに出場するために、父が運転する車に乗り込んでいた。
俺は物心がつく前からピアノに触れていて、人よりは音楽の才能があった。
俺が十歳の頃、当時通っていたピアノスクールの先生は、「音楽学校に行った方がいい」という旨の話を両親にした。それを聞いた両親は自分のことのように躍起のなり、週に何回もピアノのレッスンを受けさせてくれた。しかし、俺はそれを他人事のように思っていた。俺は純粋にピアノを弾くのが好きだった。だから、センスがあるだとか、プロになれるかもしれない、といった言葉に対してどこか懐疑的だった。ただ、楽しんでいることが職業になるというのは不思議な感覚であり、決定した将来というものには子供ながら圧力を感じていた。
だが、そんな考えを払拭するような出来事が起こった。
俺は初めて出たコンクールで金賞を受賞した。
電車で数駅ほどの市営ホールにて行われたため、おれはてっきり市内の人だけが出場していると勘違いしていたが、実は県外からも参加者が多くいたらしい。それに加えて、年上の中高生も参加していたので、俺にとっては緊張の絶えない初舞台となった。
表彰式を緊張した面持ちでなんとかこなし、両親のもとへ戻ると、「よくやった」と父が呟きながら何度も背中を叩き、母は目を真っ赤にして人目をはばからず泣いていた。そして何よりも印象深かったのは、観に来ていた妹の立花が見たことのないような顔をしていたことだ。雷に打たれて呆然としているかのような顔。口を開いたままで間抜けな顔だった。しかし俺に向けられたその眼差しは渇望に満ちたものに感じられた。
俺と立花はあまり仲が良くなかった。三歳下の彼女は部屋で絵を描いたり、歌を歌ったりするよりも、男の子に混ざって野球をやっているようなおてんば少女だった。今の時代はそんなことを言う時代でもないのだが、『女の子らしくない』子だった。一方の俺がピアノばかり弾いている音楽少年だったので反りが合うはずもなく、喧嘩ばかりしていた。
とある日、立花が言った。
「お兄ちゃんは良いよね。ピアノばかり弾いてればいいし」
その言葉を俺は「うるさい」と適当にあしらった。今思えば、その言葉の裏には両親の期待を一身に受ける兄に対しての苛立ち、或いは嫉妬だったのかもしれない。立花は学習塾には通っていたがそれ以外に何か習っていたことはない。両親は共働きだったが、特別に裕福だった訳ではない。それにも関わらず、俺を毎日のようにピアノ教室に駅前留学させていた。その皺寄せが立花に寄っていたことは言うまでもない。立花はやりたかったことを言い出せなかったのだろう。立花は辛かっただろう。立花は。立花は俺が嫌いだったはずだ。そうに違いない。
そういった経緯があり、俺は立花と距離を感じていた。負い目さえ感じていた。だから立花がコンクール会場のホールで言ったことは衝撃だった。
「私もピアノを弾きたい」
「私もお兄ちゃんみたいにピアノが弾きたい」
両親は驚いた顔をしていた。しかし、もっと驚いたのはきっと俺だ。ピアノが嫌いなはずの彼女がそんなことを言うなんて。口から出まかせではなく、はっきりとした少女の想いだった。
「お兄ちゃん!すごいね!」
まっすぐな瞳が俺を見据えたとき、感じていた負い目を清算できた気がした。照れ臭そうに礼を言った俺に、音楽と出会った少女がとびきりの笑顔を見せた。
立花は俺と同じピアノ教室に通いだした。いざ行くとなったら、週一回ぐらいが良いらしく、毎日のように行くわけではなかった。彼女は上達が遅かったが、ずっと楽しそうに通っていた。俺と同じ先生に習っていたのだが、先生は立花のことを気に入っていた。「りっちゃんとても上手くなったよ」と毎週のように報告してくれた(ちょっとしつこいぐらいに)。
俺が伸び悩みながらもその後、全国大会に出ることが出来るまでに成長したのは、立花が同じ教室にいたからだとも思う。精神的に助かっていたのである。
そして……。
一年前。俺は春のピアノのコンクールに出場するために、父が運転する車に乗り込んでいた。
助手席に立花、後部座席に俺と母さんが座っていた。車で一時間半ほどの会場へ早めに出発した。多分、午前七時半くらいだった。高速道路を経由して向かう予定だった。
俺は生まれたばかりの小鹿のように足を震わせ、歯をがちがちと鳴らし、唇はプールに入った後のように紫色になるという、日本の緊張の表現を網羅するかのような状態だった。母は時折リラックスを促してきたが、とても無理な話である。自分の将来が掛かるような局面で緊張しない人間はいない。このコンクールには海外の音楽学校のスカウトが来ているという。ここでベストを尽くせば、もしかしたら。そんな考えが頭を衛星のように廻る。とにかく成功のイメージを描いていた。
そのときだった。
「なっ!まずいっ! 」
父の声。俺がフロントガラス越しに見たのは、こちらに向かってくる乗用車。
急ブレーキの甲高い悲鳴、または母の絶叫、高音の断末魔が響き渡る。
記憶が飛びそうになった。
理不尽極まりない。解せない。
さっきまで窓ガラスだったものが破片になって立花を襲った。
そして俺の左腕から妙に生々しい音が骨を辿って耳に伝わる。意識が落ちた。
再び目が覚めたのは救急車の中で、そこからは昔の映画のように早送りされたような記憶しかない。俺は軽い脳震盪だったらしい。なぜか落ち着いていた。落ち着いていたのではなく、呆然としていたのかもしれない。何も考えなくなっていた。救急車の天井には何かの装置が付いていてそれをずっと見つめていた。
立花と会ったのは一か月後だった。
彼女は何故か鉢巻のようなもので両目を覆っていた。
何故かなんて知っていた。でもその姿を俺は受け入れられなかった。
失明。それが医者の告げた言葉らしい。全く非情な言い方ではなかった。中年の男の医師の目には涙が浮かんでいた。しかし、皮肉ながらも彼女は涙を流すこともできないのではないか?俺は左腕を覆う三角巾など構わず跪いて嗚咽を漏らす。
「おにいちゃん……?」
その言葉に顔を恐る恐る顔を上げると、立花の顔に巻かれた包帯の内側から伝った涙が頬を濡らしていた。
「何も……見えないよ」
父は両腕を骨折、母は鞭打ち症になってしまったが幸い命には別状はなかった。不幸中の幸いとでも傍から見れば思うのだろうか。しかし、現実は俺の家族に重くのしかかった。
少し離れた大学に通っている姉の氷花はコンクールに都合が合わず来なかったので、家族の中で唯一健康体であった。氷花は事故のすぐ次の日から青ざめた顔で看病や、父の事情聴取を手伝っていた。氷花は俺の腕を見て戦慄し、立花の姿を見て力なく膝を折った。
俺はそこで初めて気が付いた。もうピアノが弾けないかもしれないことに。
立花や父さん、母さんのことを考えていた。それ以上に気付きかけていた絶望に蓋をしていた。「あぁ、もうピアノは無理なのか」俺は初めて自分のために泣いた。そしてピアノを弾く立花の顔を思い出す。難しい曲を弾けるようになったとき。悪戯に練習の邪魔をしてくるとき。神妙な顔つきでレッスンを受けていたとき。どんなときでもくっきりとした瞳が輝いていたように、余計に感じてしまう。プレッシャーを感じている俺を、ピアノを始めた頃のことを思い出させてくれた立花の姿。一種の恋だったように思う。表現が適切かは分からない。兄妹なので恋愛感情などまるでない。しかしそれは初恋のようだった。強いあこがれそのものだった。その姿が幻影として消えゆくのだ。
来る日も来る日も、スマホの検索エンジンに『盲目 ピアニスト』と打ち込んでは消す。その度に自分のエゴイスティックさに嫌気がした。立花はピアノなんてもう弾きたくないかもしれない。それ以前に生きていく希望を見出せないかもしれない。
俺のせいだ。呪文のように唱えた。
俺がピアノなんて弾かなかったら、下手だったら。そんな考えにも至った。
暗い週末のような日々が続いた。
しかし、立花は気丈に振舞った。
「大丈夫」
「生きていてよかった」
これらの言葉のほとんどが立花の口から出たものだ。俺も両親も情けなかった。本当は俺たちが言わなきゃいけないのに。自責の念に駆られる。
それでも少し前を向けた気がしていた。
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